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心化粧28 —— 旅の本質とは何か


駅の二階に温泉があったので、
私は何も考えずにそこへ向かった。

汽車が出るまでの時間はもうわずかだったが、
次の汽車に乗ればいい。
ただ、それだけのことだった。

湯に浸かり、広場でゴロゴロし、
YouTubeを眺め、時折本を読み、
ぼんやりと時間を過ごす。

次の汽車の時間が近づいてきた頃、
何気なくGoogleマップで帰りの道を確認した。

——なんということだ。

石巻で接続する電車がないではないか。

慌てて代替手段を探したところ、
Googleマップはこう言った。

「バスで石巻まで行け」

路線バスか……。
久しぶりに乗るな。

私は三半規管が弱いので、
バスの中ではスマホも本も開かず、
ただ音楽を聴くことにした。

耳元に流れるのは、
どこか懐かしい東方の二次創作のメロディー。

バスは、四時過ぎの女川の道をゆっくり走る。

——暇だ。でも、退屈していない。

むしろ、心地よい感覚に包まれている。
これは一体なんだろう。

ポツリ、ポツリと人が乗り降りしながら、
バスはゆっくり、ゆっくりと前へ進んでいく。

私はつい気が緩み、
前の座席に腕をだらんと垂らした。

当然、誰もいない。

そんな、だらけた姿勢のまま、
バスはゆっくりと進んでいく。

「Two of us」

音楽の歌詞が、
心の奥で静かに反響する。

私は気づいた。

「ああ、これが旅なんだ。」

そして、
ひとつの真理を獲得したような気がした。

——暇な人間がやるべきこと、それは移動を楽しむこと。

ただ、それだけなのだ。

それが、
「旅をする」ということなのだと思った。

バスを降り、
石巻駅から仙石線の快速に乗る。

今度はバスの時と同じように、
スマホは開かなかった。

汽車が走り出すまでのわずかな時間、
文庫本を1ページ、2ページほどめくったが、
汽車が動き始めた瞬間、
私は本を閉じ、
ただ外の風景を眺めることにした。

——明らかに暇なはずなのに、退屈ではない。

これこそが、
本当の「贅沢」なのかもしれない。

「ああ、これが有閑階級のやるべきことなのだろうな。」

そして、私は気づいた。

もし私が莫大な富を得て、
仕事を辞めて、
完全な不労階級になったら——

「やるべきことは、旅だ。」

大学時代、ある同期がこう言っていた。

「旅と旅行は違う。」

彼はしきりに、
「旅とは苦行だ」と主張していた。

当時の私は、
「この男は一体何を言っているんだ?」
と、疑問に思わざるを得なかった。

しかし、今なら少し分かる。

確かに「旅」と「旅行」は、
どこか区別できる気がする。

旅行は、目的地があって、
そこへ行くこと自体が「楽しみ」なのだろう。

観光地を巡り、
名所を訪れ、
食べたいものを食べる。

しかし、今回の「旅」には、
見たいものも、食べたいものも、
何も決まっていなかった。

ただ、「行ったことがないから」
という理由だけで、
石巻と女川へ向かった。

駅に降り立つと、
そこには見たことのない景色が広がっていた。

何の計画もなく、
国道を歩き、
道端の小さな発見に心を動かされる。

——これが、旅なんだ。

きっと、「旅」とは、
何かを探し求める「探求活動」なのかもしれない。

目的地を目指すのではなく、
その過程に意味を見出すこと。

この時間、
この空間、
この移動。

それらすべてを味わうことこそが、
「旅」の本質なのではないかと思った。

そう、旅で得られる最大のものは、
ラスボスを倒すことでも、
目的地に辿り着くことでもない。

——道中の思い出だ。

僕はそう、強く思う。

旅行というのは、
「あそこへ行こう」「ここで何をしよう」「これを食べよう」
と、事前に決めた計画を遂行するものに近い。

ある意味、それは「業務」に似ている。
「旅程」というタスクをこなしに行くような感覚がある。

だから僕は、旅行というものが少し苦手なのかもしれない。

——今回の旅を振り返ってみる。

石巻や女川で「何かを食べよう」「どこかに行こう」「何かをしよう」
そういった具体的な計画は、まったく立てていなかった。

ただ、「行ったことがないから」という理由だけで、
ふらりと足を向けた。

そして駅に降り立ち、
観光案内所で見つけたマップを手に、
なんとなく歩き出した。

途中からは、もうルートも分からなくなった。
計画がないから、目に映るものすべてが新鮮だった。

予定されていないからこそ、
思わぬ出会いがそこにある。

「目的地がないからこそ、道中のすべてが旅になる。」

この感覚は、知らずに行った場所ほど楽しいという実感にもつながる。

例えば、女川で偶然たどり着いた一本の路線の終点——
あれを知らずに訪れたからこそ、
「こんなところに終点があるのか」と感動したのだ。

旅において、移動手段は重要だ。

ゆっくり走る路線バス、
ゆっくり走る快速電車、
特急のように風景を楽しめる乗り物——
それらこそが、旅には向いている。

人間の視界と画像処理能力が追いつく速度で、
ゆったりと移動すること。

それが、旅を成立させるための「鍵」なのだ。

——暇な時間を持て余さないための、最高の手段。

そんなことを考えながら、
僕は昔の旅を思い出していた。

久美浜の記憶

大学時代、京都の久美浜を旅したことがある。

久美浜は、
京都府の北部に位置する小さな町で、
特に観光地として有名なわけではない。

だけど、僕にとって久美浜の思い出は、
今でも色濃く残っている。

それはなぜだろうか。

改めて考えてみると、
「あのときも、移動を楽しんでいた。」

バスと自転車で町を巡り、
スマホを開くことなく、
目の前の風景をただ捉え続けていた。

だからこそ、久美浜の景色は、
僕の記憶の中で鮮明に残っているのだ。

きっと、今回の石巻や女川で眺めた車窓も、
僕は生涯忘れないのだろう。

——旅は、過程を楽しむもの。

旅行と旅の違いは、
目的地にあるのではなく、
その「移動」にこそあるのだ。

「旅は、遠くへ行く必要すらない。」

例えば、
近くの乗ったことのない路線バスに乗るだけでも、
それは「旅」と呼べる。

なぜなら、
例え見慣れた街でも、
移動することで視点が変わり、
新たな発見があるからだ。

だから、それは新鮮な体験であり、
間違いなく「旅」と言える。

「日常に埋もれた旅」

昔、千里中央から池田に帰るとき、
あえてモノレールや電車を使わずに、
路線バスで帰ったことがある。

電車が嫌だったわけではない。
ただ、「いつもとは違うルートで帰ってみたい」
そんな気持ちがあったのだ。

そのバスの車窓から見えた風景は、
今でも僕の記憶に焼き付いている。

普通の路線バスだったのに、
それは僕にとっての「旅」だった。

——旅とは、いつもの道を変えること。

それだけで、
僕たちは新しい景色に出会える。

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