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村瀬孝生さんの「シンクロと自由」で救われた心

心が折れそうになります。
介護の現場では効率やエビデンスばかりが求められ、そこについていけない自分がいるのです。目の前のお年寄りとじっくり向き合う余裕が奪われていきます。次第に支援者として作られた「理想の自分」を演じる様になり、どれが本当の自分の顔か分からなくなりました。
そんな時に出会ったのがこの本です。

「シンクロと自由」

このお話の主人公は宅老所よりあいの利用者達です。
その方々とのエピソードを丁寧に慈しんで綴っています。
「オババよー、オババよー」と繰り返すお婆さんに、村瀬さんが
「オババよー、オババよー」とやまびこを返した場面。
その後、お婆さんが「ここにはオババはおらん!馬鹿が」と返したやりとりには、思わずクスッと笑ってしまいました。このシーンには、混乱した方を受け入れ、その瞬間のやり取りを楽しむ村瀬さんの温かさが感じられます。

目の前の混乱している方を問題のある老人と排除するのでは無く、何故そうなっているのか探ろうとする、その方の世界に入る。思いがシンクロし2人が1人の私になる。
なんて素敵な表現でしょうか。

村瀬さんは、社会から「問題」と見なされがちな行動や状態を、排除するのではなく受け入れることの大切さを教えてくれます。
この本の中で、こんな一節がありました。

ー繰り返される「帰りたい」
ー繰り返される「大声」
ー繰り返される「おしっこに行きたい」
それらと付き合ってみる。それは、両者で「繰り返し」を育ててみるようなものだ。
時を得た「繰り返し」は成熟していく。お年寄りも、ぼくたちも「繰り返し」になれていく。繰り返しによって味わい尽くされた時間は、それに対応する集団に蓄積する。
社会からすれば支障にしか見えない「混乱」や「バグ」を排除することなく、集団が器となって受け止め、溜め込むことができれば、時間をかけて分解していく。
分解された「もの」たちが堆積し器をつくる。器になる。その蓄積の営みを、「集団の知性」として考えてもよいともぼくには思える。

この言葉に、私は胸を打たれました。支援する側とされる側の「繰り返し」が成熟していくという考え方は、表面的な効率や成果にとらわれがちな現代の介護に一石を投じるものでした。

僕が出来る事

ケアしケアされる。
言葉では語り尽くせない程、お年寄りと嬉しさ・喜び・悲しみ・怒り・やるせなさ、
色んな思いを共有して来ました。

長く関わっていると目の前の方は本当に認知症なんだろうか。
そう思う事があります。ただありのままの生の姿を見せつけられた時、
生きるとは・老いとは何か突き付けられるのです。
ただ寄り添う事、いや寄り添い続ける事で深まっていく関係性がとても愛おしく思います。

思えば私自身もこの仕事を通して、お年寄りをケアする事で私自身もケアされて来たようなものでした。
初めての老人ホームでのアルバイトの時、あるご利用者さんから
「わぁー素敵な笑顔ね!その笑顔を忘れないでね」と満面の笑顔で言われた時、何とも言えない嬉しさで一杯でした。だって、それまでそんな事言われた事無かったから。

繰り返し同じ事を話す方に、真摯に聞き続けていると、次第にその方の世界に入ったような気持ちになります。心を通わせていく事で関係が深まっていく過程がとても心地よいのです。

なんて奥深い世界があるんだろう‼︎
この世界に入るきっかけとなった体験でもあります。
この本から私の原点を思い出させて貰えました。

私も1人1人のストーリーを大切にして、自分が実践して得た気付きを皆と共有して深めていく。そうする事で、本当の意味での介護を実現出来るのでないか。
介護の現場で見出す希望をが、一縷の光として未来に繋がっていくと信じています。

引用
「シンクロと自由」村瀬孝生

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