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芥川賞とトイレと分断統治

 少し前の話になるが、今年の芥川賞の候補者がすべて女性だったということで、いろいろな言説がわいては消えた。こんな記事もあった。

 スポーツ報知の記者コラムだが、芥川賞の記者会見でテレビ朝日の女性記者が、選考委員の川上弘美さんに何かを言わせようと頑張っていて、そのしつこさについて書いている。〈「こう答えてほしい」という方向に取材対象者を導く「はめ手」のような質問の仕方が確かに存在する〉と報道機関の悪癖みたいなものについて指摘する。

 この記事は恣意的な質問について書いたものだが、女性の権利抑圧について意識が高まってきた昨今の「世相」と並べられることで生じる作用(記事の読まれ方、利用のされ方)について考えざるを得ない。

 コラムの書き手が男性であることや、テレビ朝日の女性記者の上司や同僚が全員女性ではないであろうことなどを、どうしても考えてしまう。

 記者会見の現場で繰り広げられた女性と女性の衝突(そして外部の人間たちは、それを俯瞰した男性が語るストーリーを読ませられる)という構図から、いろいろなことを思い起こす。

 別の話になるが、さいきん女性と女性が衝突する(させられる)という場面をツイッターで何度か目にしたのを思い出した。性的少数者の権利をめぐって、意見の違う女性たちが衝突しているようだ。

 性的少数者の権利を擁護することと女性の権利を擁護することは、ほんとうに両立できないのだろうか。そこではジェンダー規範の解体が重要になるのではないだろうか。

 「オールジェンダートイレ」というものがある。さいきん増えているようだ。企業のプレスリリースでもこんな施設に、あんな施設に「導入しました」と宣伝することで「SDGs」のピーアールになるらしい

 こういったまとめ記事があると助かるが、ここで挙げられている三つの事例について、分からないことがある。「オールジェンダートイレ」を導入するにあたり、従来の男性用、女性用のトイレはそれぞれどうなったのか、ということだ。小さな飲食店などの店舗が導入する場合、男女トイレをそのまま「どなたでも、どっちを使ってもいいですよ」という形にしてしまうことが多いようだ。

 さらにひどいのは、男性用トイレを残したまま、女性用トイレを「オールジェンダートイレ」にしてしまう事例もあるようだ。恐らく、オールジェンダートイレは個室式だが、男性用小便器が設置されている男性用トイレを個室のみに改修するよりも女性用トイレをオールジェンダーにする方が、改修工事の必要がないことなどから、そのような方法をとっているのだと思われる。

 しかし、そのような方法をとることでどんな問題が生じるか、そんな改修をしてしまう施設の所有者、管理者たちは分からないのだろうか。

 その昔、家から出ると女性用トイレはなかった。女性用トイレの歴史がまとめられている記事がある。

 女性専用スペースの問題は、女性の権利と密接に絡みついている。弱者の人権が侵害され、それが満足にとがめられない状況がある以上、弱者を守るスペースを無効化することは許されない。

 女性専用スペースの問題を考えるうえで、スコットランドの事例が参考になる。トイレではなく刑務所だが、すでにさまざまな事件がおこっている。

 注意すべきなのは、上記の事件が起きた背景にある、女性を自認する受刑者が男性刑務所に入れられたことで自殺してしまったという点だ。性別の自認をどこまで社会が認めるべきかについては議論があり、これは十分に結論が得られる状況ではない。ただ性的少数者の権利を擁護すべきなことに疑う余地はない。

 ここで双方の権利を擁護するにはどうすべきか。自認を確認するのはいいとして、なぜ受刑者を男性、女性のどちらの刑務所に収容するかを検討する必要があるのか。トランスジェンダーの刑務所を作ればいいのではないか。男性、女性、性的少数者、それぞれを分けることで、異なる性自認の刑務所に入れられることも避けられるし、本来なら起きることのなかった刑務所内での性暴力も避けることができる。

 トイレも同じだ。男女のトイレを残したまま、オールジェンダートイレを設置すべきだ。もしスペースが許さないというのなら、男性トイレをなくすべきだろう。男性用トイレとオールジェンダートイレという組み合わせなら性的少数者の権利は擁護できるが女性の権利は侵害される。女性用トイレ、オールジェンダートイレという組み合わせなら双方の権利擁護が両立できる。

 両性の平等を求める運動が長年、続いてきたにもかかわらず実現されていない。そんな状況下で、女性と女性が対立している(させられている)。虐げられている側が年月を掛けて勝ち取ってきた成果(男性による暴力に脅かされない安全な空間)が、奪われようとしている。誰に。

 表面上、対立しているのが女性と女性でも、争点がなんのマターなのかを注意深くみなければならない。対立の主体のうち、どちらが正しいということよりも重要な問題が隠れていることがある。論争当事者はあくまで論争の当事者にすぎず、利害関係者は他にいるのかもしれない。対立に一切加わることなく、見えないところで笑っている存在(個人と言うよりも、属性というべきか)がいるんじゃないか。

 これは植民地統治の常套手段に通じている。搾取されている側が一枚岩になれず仲間割れしている限り、搾取されていることに気づけない。搾取する側にとって、これほど都合のいい状況はない。

 日本のジェンダーギャップ指数が地を這っているゆえんは、こういうところなのだろうと思ったりする。

 搾取する側、される側という構図がいつまでも残っている限り、両性の平等は実現しない。問題は女性にあるのではない。多くの女性たちが状況を変えるべく何十年も闘ってきたにもかかわらず、日本がまだこんな状況にあるのは、男性が変わっていないからだ。男性が弱者を踏むこと、不正義を傍観することをやめ、享受している特権を辞退し、不平等の構造を主体的に解体する必要がある。

 椅子が足りなければ、まず男性が席を譲るべきだろう。女性や性的少数者に座ってもらうのだ。これまで不正義がただされずにきた歴史と現状を鑑みれば、そうせざるを得ないはずだ。そうやってはじめて、皆で手を取り合って椅子を増やしていくことができるんじゃないだろうか。誰もが排除されない世の中をつくるために。

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