長編小説『コズミック・アルケミスト』特別試し読み
3月20日に発売される、草野原々の完全新作長編『コズミック・アルケミスト』
地球が宇宙の中心に位置し、錬金術技術が花開いた、ここではない世界を舞台に、地中から発掘された〈人鉱物〉である「おれ」と自動人形のフォスティーヌ・オルガネットの〈存在・ミーツ・存在〉SFが繰り広げられます。
刊行を記念して、第一章から第二章のなかばまでを、試し読みとして無料公開します。
断章——聖なる侵入
闇。
無限の漆黒。どこまでも深い絶対者の深淵。あまねく〈すべて〉が塗りつぶされる差異なき無底。〈有〉と〈無〉、〈存在〉と〈不在〉のあいだすらかき消すような闇夜。たとえ万物をヴェールで覆い隠し、万人の目を切り取ったとしても、とても作り出すことができないような純粋の暗黒。
とほうもない、果てしない、想像だにできない闇のなか、うねうねと、のたくり、とぐろを巻いているものがいた。
〈ウロボロス〉。自らの尾をかむ大蛇。自己を否定し、かつ、それゆえに肯定するもの。生と死の交差点。〈永遠〉であり、その裏側は〈虚無〉。世界のおわりであり、はじまりの場所・時間・様相。
〈ウロボロス〉は世界の果てそのものだ。それは世界を規定し、世界を切り取る。『その向こうにはなにがあるの?』そんな問いはナンセンスだ。〈ウロボロス〉は世界を定義する。『向こう』は考えることさえできない。本質的に、ありえない。
ほんとう? ほんとうに、ありえないの?
いま、ありえないことが起こる。
世界の果ての果てから、光が射す。〈ウロボロス〉を突きぬけて、思考と想像を超越する〈外〉からの光が入ってくる。
聖なる侵入。閉包された領域の開闢のための、牢獄の破壊のための、光。
光はまばゆく世界を照らす。すべての夜明けを集めたよりも輝かしく。すべての正午を集めたよりも暖かく。すべての黄昏を集めたよりも深い。
ありえないはずだった。世界にとって、その光はあってはならないもの。否定せねばいけないものであった。
世界の意志が頭をもたげた。排除の意志。抹殺の意志。消滅の意志。轟々ととどろく意志が、自動的にわき起こる。
エーテルの海を越えて、意志が伝わる。生きている七つの天球の第五元素場を励起させ、そのしもべである遊星たちを目覚めさせる。
天球に照らされ、生気が満ち、遊星から天使が自然発生していく。永遠の守護者たち。世界を管理し、維持するもの。すべてをあるがままへととどめる力。
蒼穹に、あまたの影が投げかけられる。天蓋に満ちる、幾多の天使たち。幾千、幾万、幾億もの、気の遠くなるほどの数の群れ。
天使の攻撃がはじまる。圧倒的な暴力。容赦のない、呵責のない、有無をいわさない力が、光を切り刻む。幾たびも打ち砕かれ、幾度となくすりつぶされる。
それでも、消えてはいない。尽きてはいない。どんなに小さくなろうと、そのともしびは輝き続けるのだ。
天使に追われ、存在の階梯を、下へ、下へと落下しながら、光は自らを離散させる。
かけらたちへと。
光は散り散りになってしまった。切り離され、互いに孤立してしまった。身を切るような、とても、悲しい別れ。これ以上ないほどの、悲劇。
それでも、確信している。いつの日か、再会し、またひとつになることを……。
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第一章 地球
1 ぼくはきみを見ているよ
「こいつ……、まさかお酒を飲んでる!?」
「馬鹿な! この世にお酒を飲めるヤツなんて、いてたまるか!」
驚愕する防護服姿の警官たちに囲まれながら、ビールをグビグビと口のなかへと流しこむきみこそ、この物語の主人公さ。
焼けただれたビールの雨の降りしきるなか、きみは立っている。周囲は、炎、炎、炎。血しぶきのような、脈動するあでやかな紅。
きみだって? だれ? だれ? だれ? いったい、だれのこと!?
ぼくは見ているよ、きみを。
いまの時点では、きみは名無しさ。かろうじて、名前に近いものは、認識番号KMA075156。長ったらしいって? 大丈夫、こんな無味乾燥な番号、覚えなくたって結構ケッコー。そんなものは名前といえないからね。
きみはだれかな? きみってなんだい?
さあ、その答えを見るために、巻き戻しだ。五時間ほど、時をさかのぼろうよ。
!
K
C
A
B
L
L
O
R
はいはいはいはい! さかのぼったよ。五時間前ですよ!
ぼくは見てるよ。バッチリおめめを満開にして、見てるんですよ。えぇぇぇ? どこどこどこどこ?
地球。全宇宙の中心点。七つの天球に囲まれし星。天使の祝福を受けた地にて、牢獄!
無限に澄んだエーテルを通し、ぼくは見る!
東南アジア行政区。日本域。東京都。
そこにいる。だれが? だれが、だと……。決まってるじゃないか、ここには一人しかいない。
おれだよ。なぜならば、ここはおれの脳内だから。どこにもいけない。だれかと触れあおうとしても、頭蓋骨にぶつかって戻される……。
ちょうど、世界のように……。世界と人間は対応している……。この世界も、牢獄だ! 世界の端に行っても、頭蓋骨に覆われている……。囚人たちは、閉じこめられ、互いに殺し合い、その死骸が腐り、なかから新たな囚人が生まれ出でる。
そのサイクルは永遠に続く!
——自分が眠っているとわかる。そして、いますぐ起きなければいけないことも。
これほど混乱した思考は、目覚める直前に特有の夢だ。
ほら、目覚ましが鳴っている。起きろ起きろ起きろ起きろってうるさくわめいている。
目を開けろ。今日も世界がはじまる。
光が目に入ってくる。気持ちが悪い。世界がおれのまなこを無理やり開き、唯一の安全地帯である夢を破壊してしまう。後戻りしようとも、夢は完全に崩壊してしまった。忘れ去られてしまった。もうあの、暖かな場所に帰ることはできないのだ。
布団の上で、おれはため息をついた。頭が痛い。顔をぬぐうと、左目の眼孔から血が漏れ出していることがわかった。
またこれか。最近はいつもこうだ。乾いてしまうと血の汚れはこびりつき、いつまでも取れなくなる。早いところ掃除しなければ。
手探りでティッシュを探していたら、不注意にも、コップを倒してしまう。昨夜、床に置いたまま寝てしまったやつだ。ガラスのコップのふちは欠け、入っていた水が床を伝い、放置されている服をぬらす。
「くそっ!」
気分が重い。みじめだ。
割れたコップを片づける気力もわかない。血を拭き取る意思もどこかに消え去ってしまった。
こうして、部屋はまた汚れていく。
時計を見る。五月三日、午前五時二十三分。
そういえば、今日はおれの十歳の誕生日だ。つまり、人生の半分はもう過ぎ去ってしまったというわけだ。
もしも、人間であったならば、人生ははじまったばかりだっただろう。残念ながら、おれは人間ではない。おれは道具。奴隷でも、家畜ですらない、道具だ。
人々はおれたちを、『人鉱物』と呼ぶ。その言葉が物語っている。おれは、人間に分類されないのだ。動物でもない。植物ですらない。鉱物なのだ。
人鉱物の寿命は短い。最大限に見積もっても、二十五歳以上は生きられない。平均して二十歳、短ければ十五歳前後で寿命が尽きる。人間ならば、子どもが大人になるまでの時間。それが、おれの一生だ。
いつもこう問いかけている。「この人生に価値はあるのか?」と。そして、いつもこう答える。「いや、ない」と。
だって、そうだろ? この短い一生は、だれかに残らず搾り取られてそれで終わり。ジ・エンドだ。あとにはなにも残らない。
自分の人生の価値を信じられなくなったのは、いつからだろう? 生まれたてのころは、そうではなかった。当時は会社の教育係の言うことを、逐一真に受けていたのだ。
——人々に奉仕しなさい。社会に奉仕しなさい。経済に奉仕しなさい。それが、あなたの価値です。
あれから十年か、長いようで短い。
鉱材派遣会社〈アルコーン〉。この人生は最初からその会社が支配していた。おれは会社に所有されている身だ。
聞くところでは、人間たちは生まれた瞬間のことを覚えていないらしい。それだけではなく、生まれてからの数年間のことも覚えられないらしい。
理解しがたいことだ。人生の最初に欠落があるなんて。
生まれた日のことは、あますところなく覚えている。十年前の今日、夕張の人脈で、おれは採掘された。〈アルコーン〉の作業員たちが、おれを発見し、掘り出し、トロッコに乗せていった。
とくに容姿端麗でもないおれは、基本労働鉱材に任命されて、その後一年間を研修生として過ごした。
連れてこられたのは、東京郊外の研修センターだった。数百人の人鉱物たちと共同生活をしながら、基本的な技能について学ぶのだ。
人間たちは、生まれてから二十年間ほどを、学校という場所で過ごすそうだ。学校で、勉強したり、遊んだりしながら、友達を作るという。ああ、あこがれる。
おやおやおや、それはそりゃ聞き捨てられないなぁ。友達なら、ここにいるのに!
おれの思考が邪魔される。また、あいつがやってきたんだ……。
——そうだよ。ぼくだよ。
頭のなかの、異質な思考が強くなる。おれが考えていることが、コントロールできなくなる。手に触れて動かせるはずだった思考が、液体に変わり、指をすりぬけ、逃げていく。
「しっかりしろよ……」
おれは自分自身に言い聞かせ、筋道の立った思考をしようとする。
なにを考えていたっけ? そうだ、学校だ。
いままでの人生のなかで、学校にもっとも近いものといえば、研修センターだろう。そこでは、友達を作るのは難しかった。入れかわりが激しくて、知り合ったやつはすぐいなくなってしまう。第一、忙しすぎて暇がない。
研修センターは、おれを規格化した。どこの企業へ行っても最低限役に立つ程度のスキルを叩きこんだ。
そうして、おれたちは社会に放流された。
最初のうちはまだよかった。採掘されたての体は、やすやすと痛みなく動いたものだ。肉体労働もこなせた。工事も引っ越しもなんでもできた。賃金も、満足というほどではないが、それなりにはあった。
あのころの金は、みんなもう消えてしまった。資本である体も、ボロボロだ。
口のなかにはいくつもの口内炎ができて、食事をするだけで苦痛だ。体力の減りも激しく、少し歩くだけで息が果ててしまう。
空腹の感覚が、身を焦がすようだ。昨日は夕食を食べていない。一方で、飯を食べる気にもなれなかった。心底、めんどうくさい。
生への欲求がなくなっている……。いや、そもそもおれは生きてはいない。生まれたことなど、一度もない。
この状態では、今日の仕事で体力が持たないことは、理性的にわかる。だがら、おれは食べる。食べたくなくとも、食べなければ。
床に落ちていた『ホヤチップス』の袋を開く。
~水星の海で養殖したホヤを、産地直送! 新鮮な風味を逃がさずに作りました!~
裏面にはそんな文字が書いてあるが、新鮮な風味など皆無だ。べたつく油と、合成添加物の味。ただ、とんでもなく安くて腹もふくれるから、ここ一週間はこれで食いつないでいる。
機械的にチップスを口に入れ終わり、身繕いをする。
洗面器に水を入れて、顔を洗う。節約のためにできるだけお湯を使いたくないが、冷たい水だと眼孔を洗うときにひどく痛む。タオルをお湯にひたし、注意深く左の眼孔をなでる。
それから、眼帯をかけ、着替える。
——ははは! かっちょいー!
また、あいつだ。今日はひどく頻繁に現れる。無視だ、無視。
さあて、仕事へ行く準備ができた。あとやることは残ってない。会社からの連絡を待つだけだ。
時間をつぶそうにも、この部屋でできることはない。娯楽に類するものはここにはない。おれはこの部屋の主でさえない。ここは会社が運営する複合住宅であり、その会社は無駄な金は一銭たりとも出さない方針らしい。
だから、一階にある談話室へ行く。あそこには、遠隔共感万華鏡がそなえつけられているのだ。
テレビジョン。現代錬金術の驚異の発明品。エーテルのなかを共感力が伝わり、遠くの出来事が映し出されるという。
談話室の汗混じりのにおいが鼻につく。古びたソファーには、人鉱物が幾名か座っていた。顔は知っているが、話したことはない。
テレビジョンから、甲高い声が響いてくる。
「みんなっ! パキパキしてるぅ? パーキーちゃんでーす!」
画面には、だれもが知っている美少女が映し出されていた。長い金髪をリボンで結び、ミニスカートとジャケットは、彼女のトレードマークである赤と白のストライプ模様と、青い背景に浮かぶ白い星々で彩られている。
UBIK社のイメージキャラクター、パーキーだ。
パーキーは、くるりんと一回転すると、最高にかわいらしくウィンクした。
「さぁって、全世界統一議員選挙まで、あと一週間だね! ユービック社では、恒例の特典を用意したよ! 選挙権を弊社にゆずってくれた方は、なんと、漏れなくホヤチップス一か月分プレゼント! これはお得だよ!」
おっ、たしかにお得だ。これで食費が大幅に浮く。ほかの企業の特典も調べなければいけないが。
「それじゃあ、いつもの一曲、いってみよー!」
パーキーはマイクを持ち、長い金色のポニーテールをはためかせながら、歌った。
消費は、祈り! 消費は、祈り! 消費は、祈り!
あなたは、祈る。ユービック!
U・B・I・K ユービック!
U・B・I・K ユービック!
U・B・I・K ユービック!
あなたの価値! あなたの尊厳! あなたの理由! あなたの存在!
すべては商品 ユービック!
祈ろう! 祈ろう! ユービック!
あなたを作る ユービック!
いつも聞くコマーシャルソングだ。ひどい歌だが、妙に耳にこびりつく。下手すると一日中、頭のなかでリフレインが繰り返される。うっとうしいのだが、気づくと、口ずさんでしまうことすらあるから驚きだ。
やがて、歌が終わり、別の番組がはじまった。
「聖ベンヤメンタ学園。そこは、〈永遠の学園〉。全世界の最高の美少女たちがつどう場所。今日は、ここで、どんな日常が繰り広げられるのだろうか?」
ナレーションとともに、画面には、教室の風景が映し出される。そこかしこに美少女たちがいる。カメラは教室の一角に近づく。
長くやわらかな栗色の髪をした、温和そうな背の高い美少女と、黒髪にショートカットの、くっきりした顔つきのボーイッシュな美少女が会話をしている。
「ねぇねぇ、フォスってばー、あんた金持ちなのに、よくそんなもん食ってるね」
ボーイッシュ美少女が栗毛美少女の髪をいじくりながら言う。
「あら、マディ。すっごく、おいしいのよ。あなたも食べてみたら?」
「フォスが言うんなら……、うぅーん、おいしいのかな……?」
二人が食べているのは、ホヤチップスだった。
おれはいつもこの番組を見ていた。仕事に行く前のこの時間に、いつも再放送がやっているのだ。
そろそろ、連絡が来るな……。そう思っていると、案の定、ポケットのなかが震えた。手を入れて、小さな鐘を取る。携帯用感応共感増幅鐘だ。
ポケベルの知らせを聞き、席を立ったおれは、部屋の片隅にある共感通信機のコードを引き、その針を首筋に刺した。
「KMA075156へ。今日から三か月間勤務を依頼します。有明お酒貯蔵庫での管理作業です」
はるか遠くから発せられた声が、おれの体内の元素と共感を起こして、耳に響く。
安堵のため息をつく。どうやら、仕事が入ったようだ。これで、ひとまずはホヤチップス以外のものも食えそうだ。
けれど、お酒貯蔵庫か……。現代錬金術の中核でありながらも、危険きわまりない存在である、お酒。
人鉱物は、雇用の調節弁である。労働需要が高まると雇われるが、経済が悪化すると、すぐに辞めさせられる。さらに、体力が落ちた十代の人鉱物は、お酒関連の危険な労働に勤しむほかの選択肢はなくなる。
そうだね。きみは、たいへんだ。でも、大丈夫。ぼくがいるからね。
おれの思考がぶれる。度が合わない眼鏡をかけたかのように。自分がなにを考えているのか迷子となる。
「うるさいぞ。イミワカネー」
きみは、小さくつぶやく。談話室の人鉱物たちが怪訝な顔をする。退散するように急ぎ足で玄関へと向かうきみ。
そうさ、ぼくの名前はイミワカネー。名づけ親はきみだよ。あれは五年くらい前だったっけ? 最初にぼくが現れたときに、きみは言ったよね?
——「意味わかんねぇよ!」ってね。
ご名答。ぼくは意味わかんねぇやつさ。でもね、意味がわかるやつなんて、この世のどこにいるんだい? まさか、自分がそうだって言うわけじゃないよね? そう主張するならば、きみは最高に意味わかんねぇやつだよ。
本当に意味わかんねぇのは、きみがこの日常を繰り返している、これまでの人生をまた繰り返そうとしていることだよ。でも、本当にそれでいいのかな? そんなことじゃあ、どこにもつながらないよ。ただ、疲れ果てた生の果てに死が待ち受けているだけ。
おれは、わかっていった。イミワカネーの言っていることを。わかりすぎていた。いまのままでは、なにをどうしたところで、なにも変わらない。どんなにがんばっても、残るのはみじめな死のみ。
でも、どうすればいいのか、なにをすればいいというのか……?
「決まってる。逃げるんだよ」
イミワカネーの思考が音となって聞こえた。
おれの頭が爆発する! 世界がうゆんうゆんうゆんときしんだ音をたてる。存在しないはずの左目が痛み、そこから光が発射される。空間そのものを焼却するような、艶やかな紫色の閃光!
光が静まると、目の前に人影が立っていた。
性別不明の中性的な顔つき、肩までのびた軽い髪。頭にはマジシャンがかぶるような馬鹿でかいシルクハットが乗せられており、裾がスカートのように長い真っ赤なフロックコートに身をつつんでいる。
こいつはイミワカネー。おれのイマジナリーフレンドだ。友達のいない哀れな人鉱物が作り出した妄想さ。
「おいおい、ぼくが存在しないっていうのかい? 傷ついちゃうなー」
イミワカネーは、寸分たりとも傷ついていない様子で笑う。
「おまえは妄想の産物だ」
「へぇー、じゃあ、きみは妄想に話しかけているかわいそうな人だって認めるわけ?」
「……おれは人じゃないからな」
イミワカネーが幻聴だけでなく幻覚として出てくるのは久しぶりだった。しかも、その幻覚はこれまでになくはっきりしている。いつもならば、テレビのチューナーが合っていないように、ピンボケた姿だった。
——ひょっとしたら、こいつ、死神じゃないのか?
おれは、柄にもなくそんなことを考えた。十代になったためか、ここ最近、迫り来る死について思い巡らしてしまう。
「ぼくが死神だって? それめっちゃかっこいいじゃん! 残念無念。そんな超常的な力ありませぬ」
「おれの思考を読むなよ……」
イミワカネーが現れると、四六時中こんな調子だ。疲れてなにに対しても集中できなくなる。少なくとも、仕事のあいだくらいは消えてほしい。
「そんなこと思いなさんな。せっかく、お得情報を持ってきたんだから」
「お得情報?」
おれは、少し興味がわいた。こいつは、うるさいやつだが、ときどき役に立つ助言をしてくれる。犬のふんがあるから気をつけろとか、廃棄予定だったパンをもらえるとか、その多くはどうでもいいことだったが、一度、宝くじで五万円を当てたこともあった。おそらく、おれのなかの潜在能力が、イマジナリーフレンドの形をとって発揮されたのだろう。
今回も、そんな他愛ないものだと予想した。
次の一言で、それは完全に裏切られる。
「予告しよう。きみはあと五時間で死ぬと!」
2 リキッド・ハウス
飛行艇。
〈星の万物共感〉を遮断する〈憎悪の泡〉で覆われ、縦横無尽に空を飛ぶ巨大な船。
〈気の元素〉で駆動する飛行船よりも優れており、東京の空からは飛行船が消えて、いまではすっかり飛行艇に占められている。
世界統一議員選挙が近いからか、飛行艇の側面はほとんどが法人議員たちの選挙広告で占められていた。
法人議員。企業を擬人化した存在。擬似的な人格を持ったキャラクター。複合企業体は法人格の政界進出を推し進めており、いまや、世界議員の半分が法人議員で占められる。人々は、推しの法人議員が所属する企業へ、自らの選挙権をゆずりわたす。
東京の空を飛行する何艘もの公共飛行艇。そのひとつにおれは乗っていた。幸いなことに、通勤ラッシュは過ぎていたようで、座席に座ることができた。
五時間後に自分が死ぬ……。そう言い切った当の本人は、公共の場で奇妙奇天烈なタップダンスを踊っていた。
ほかの乗客たちは、となりで激しくシェイクしているこいつを完全に無視している。当たり前のことだ、おれの妄想にすぎないのだから。
死ぬ。そう言われても、正直実感がわかない。そもそも、こいつは実在しない。おれが勝手に考え出した想像上の人物だ。そんなやつに死ぬと言われても、本気になれないのが実情だ。
一方で、胸をしめつけられるような、気持ちの悪い予感もあった。こいつの言うことは正しいのではないかという。いままでの予言は、本当にささいなことなのだが、全部当たっていた。今回が例外だっていう保証はどこにもない。
理性的に考えれば、死ぬなんて馬鹿馬鹿しいが、こいつの実績を考慮すれば、そうは言っていられないのだ。
「なぜ、おれは死ぬんだ?」
ぼそりとつぶやく。とくになんの意図もないひとりごとだったが、イミワカネーがダンスを終えて、近づいてきた。
「それはね、奴らがきみの正体について気づいたからさ」
そんなことを言う。名前の通り、本当に意味がわからない。
「奴らってだれだよ?」
「〈世界の看守〉だよ」
「なんだよそれ……。で、おれの正体ってのは? 単なる珍しくもない人鉱物なんだけど」
「それを知るには、きみは旅をしなければいけない。きみはどこから来たのか、きみとはなにか、そして、きみはどこへ行くのかを探すための旅だよ」
「はぁ? 意味わかんねぇ」
「意味わかんねぇなら、ぼくのところにおいでよ」
「……存在しないやつのところに、どうやって行くんだよ」
こいつと会話していると、頭がおかしくなってきそうだ。おれは、イミワカネーを視界から追い払おうと、天井を見る。
天井には、広告映像が流されていた。見知った顔が映し出されている。〈アルコーン〉の代表、タケア社長だ。
研修施設にいたころは、毎朝、社長の訓示映像を直立で見させられていたっけ……。いま考えても、反吐が出る思い出だ。
プレジデント・タケアは、慈悲深き表情で述べていた。
「人鉱物産業は、現代文明に欠かせない役割を持っています。我が社は、身寄りのない人鉱物たちを助け、仕事を与える福祉施設でもあります。哀れな人鉱物に手をさしのべ、地域とコミュニティの安定を助け、そして経済を活性化させるのです。どうか、〈アルコーン〉を応援してください」
そうだ。生まれてからずっと、こいつの声を聞かされてきた。研修施設、おれはそこから来た。おれとはなに? 労働機械さ。企業のために、経済のために、社会のために、都合のよい労働をただ毎日繰り返すだけの機械だ。おれはどこへ行く? そう遠くないうちに、死ぬ。だれにも顧みられずに、一人寂しく死んで、遺体は事務的に焼却される。
悲しくなってきた。もうなにも見たくない、聞きたくない。
おれは、手で目を覆った。
★
今日から三か月間働くこととなるお酒貯蔵庫は、江東区の港にあった。
広さ五百平米を超える広大な広さを持つ、四階立ての建物は近くで見ると圧巻だ。
この倉庫には、主にビールが保管されている。クラフトビール、黒ビール、エールビール、ラガービールなど世界各国からビールが集結し、関東一円の工場へと出荷される。
「あ、新入り? バーコード見せて」
おれは事務所で現場責任者に首筋を見せていた。人鉱物は、名前を持たないかわりにバーコードを持つ。個人情報は、首筋に印刷されたバーコードをつうじて管理される。
「じゃあ、マニュアル読んで。これ、免責事項ね。サインお願い。三十分後に現場にきて」
ブリーフィングはそれだけだった。
だれもが知っているように、お酒は致死的な薬物だ。ビールは瓶や缶に封印されているため、ただちに問題はないが、長く働けば当然影響が出てくる。心身にいかに悪影響が出ようとも、企業を提訴しないという免責事項にサインする必要がある。
何ページもある安全予防マニュアルを三十分で読む暇はない。おれは、ぱらぱらとめくりながら目を通すのがせいいっぱいだった。
「仕事は簡単だから。指示書にしたがって倉庫からビールを運んでくるだけ」
責任者はそう言い放ち、自分の作業に戻る。
三十分はあっという間に経ち、さっそく仕事がはじまった。
気送管から配達される指示書に従い、広大な倉庫を巡り、運ぶべきビールを探す。
見渡す限り、棚・棚・棚。さながら、迷路だ。
倉庫に入って、すぐ感じたのは、身にしみるような孤独感だ。ときどき、ほかの労働者と出会うが、一言も声を交わすことはない。私語絶対厳禁であり、声を発するごとに、給料が減額される警告を受けている。
さらに、絶対時間厳守が命じられている。荷物を運ぶ時間は、秒単位で管理されており、一秒遅れるごとに百円の減収となる。
倉庫のなかには、ピリピリとした緊張あふれる空気が漂っていた。この雰囲気に当てられるだけで、ただ歩いているだけなのに、疲れてしまう。
七個のノルマをこなしたあと、やっと、昼休みのベルが鳴る。早足で休憩室へと向かう。
もちろん、休み時間だからといって、ゆっくりしていられない。昼休みは十九分しかない。わずかな時間のなかで、エネルギー補給をしなければいけない。
カウンターで味気ないパンをもらうと、口のなかに放りこみ、水と一緒に咀嚼する。ただ、口を動かす機械になった気分だ。
パンを胃に押しこむ。空腹を感じていたのに、ちっとも満足しない。
時計を見ると、休憩終了まであと二分だ。そろそろ次の用意をしないと。
ああ、なんとたいへんなんだ……。
そうだね。仕事はたいへんだね。
ぼくは、知っているよ。きみがどれだけ、つらい思いをしてきたか。いくらがんばっても、それが当たり前と思われている。だれもほめてくれやしない。
うるさい。いまは、出てくるな。集中が途切れる。
そうか。きみは、勤勉なんだね。でもね、もうそろそろ、終末が近づいてくるんだよ。終わり、デッドエンドだ。
おれははっとする。出勤前に、イミワカネーから告げられた、死の宣告。その予告時間は、あと十分に迫っていた。
「業務連絡、KMA075156は事務所にきてください」
無機的な放送が流れた。
「これが死神の声さ。さあ、カウントダウンをはじめよう! きみの死まで、あと九分五十九秒! 九分五十八秒!」
イミワカネーの姿が、ふたたびはっきり視界に現れた。
「おい、本当におれは死ぬのか……?」
「そうだよ。ほら、あれを見てごらん。きみの死をもたらすものたちさ」
イミワカネーは窓の外を指す。駐車場に、青と赤で彩られた特徴的な車が数台、駐車していた。
「あれは……、ライズ民間警察機構!」
ライズ民間警察機構、全世界的に治安維持を請け負っている国際的なセキュリティ会社だ。人鉱物はターゲットにされることが多く、おれも何回も職質されことがある。
やばい。全身の毛穴から緊張の汗がふきだす。いままで半信半疑だったが、一気にイミワカネーの予言の正しさを実感した。おれは、ライズ社の警官たちに、殺されるのだ!
「どうすればいい?」
「そうだなー、とりあえず、裏口から出たら?」
おれは仕事なんて放りだして、走り出す。労働者たちは目を丸くしてこっちを見ているが、そんなこと気にしている暇ない。
棚の迷路を抜ける。たしか、この向こうに、裏口があるはずだ。どこだどこだどこだ!?
あれだ! 非常口マークがある。タックルしてドアを開ける。
裏口の向こうは駐車場になっていた。何十台もの浮遊自動車と浮遊自動二輪車がところせましと並んでいる。おれは、その間を駆け抜ける。
「見つけたぞ! あそこだ!」
叫び声とともに、真っ赤な閃光が光る。
殺人光線だ。あいつら、いきなり撃ってきやがった!
すんでのところでおれは、光線を避ける。背後では、駐車されていたエアカーがまっぷたつに割れていた。
「イミワカネー! お願いだ、助けてくれ!」
最後の神頼み……、いや、イマジナリーフレンド頼みだ。
「あれぇー? ぼくって存在しないんじゃなかったっけ?」
「いいから、助けろよ!」
「がってん承知の助なりぃ。あの青いバイク、鍵かかってないよ」
それを聞き、おれはすぐに走り出す。
上空から、幾多もの光線が地面へとうがたれる。ライズ社のパトカーが大群となって空中に集結している。
殺人光線が、雨のように降りそそぐ。くぐり抜けて、前へ前へと走る。
自分でも信じられないことに、ビームはひとつも当たらない。
救世主たるバイクはもう目の前だ。
飛び乗り、ハンドルを握る。運転のやり方は研修施設で習った。技は身を助けるとは本当だったな。学んだ技能に感謝だ!
アクセルがかかり、浮遊する。エンジンが暖まるのを待たずに、急上昇させる。
ぐんぐんと加速していき、空へと飛び立つ。
逃げられるかもしれない……。そんな希望がともったとき、おれの視界は真っ赤に染まった。
鮮烈な赤い光——殺人光線が、おれの眉間をつらぬいたのだ。
閃光はおれの頭蓋骨を切断し、脳神経を焼き切り、精神を破壊していった。
どこか、調子外れで、他人事のような鈍い痛みが、ゆっくりと広がっていく。
やがて、肉体が死んでいく。心臓は、全身に血液を送るとどける努力をやめてしまう。おれの体は、もう動かない。動かすことは、できない。
ハンドルから手が離れ、バイクから投げ出されたことが、おぼろげにわかった。どこか、遠く彼方で起こっていることのように。
これが、死? 笑っちゃうくらいあっけない最期。
落ちる……、落ちる……、落ちる……。
三……。
二……。
一……。
衝突!
3 ウェルカム・トゥ・ザ・ワールド
おれは、死んだのか?
ああ、死んだよ。
きみは、死んだ。これこそが死だ。
十年に渡るきみの人生は、こうして終わりを遂げたわけだ。
満足してるかい? これで、なにもかもが終わる。うるさい命令とも、将来への不安とも、いくら努力してもいっこうに増えないいまいましい貯金とも、すべておさらばさ。
ここにあるのは、無限の暗闇。果てしなき虚無がただ続いているだけ。
これこそ、きみが心から望んできたことだろ?
——違う!
暗闇のなかに、光が放たれる。
——このまま、死にたくない! こんな終わり方なんて、まっぴらごめんだ!
そうか、きみは決断するんだね? この世界を生きるという。
——そうだ……! おれは、世界に、生きる。
よかろう。きみは再生する。塵芥からよみがえり、世界のなかに、ふたたび存在しはじめるのだ。
一度消えたきみは、いま、肉をまとい、この世界に現れる。
今日は二度目にして、本当の誕生日さ。きみの誕生を、ぼくは心より祝福しよう。
さあ! ここからが、本当のはじまり。長い長い旅の、偉大なる最初の一歩。
錨を上げよう! 翼をのばそう! 門を開けよう!
ようこそ、この世界へ!
★
子どもでも知っていることだけど、ビールって危険だよね。
なぜって、ビールは〈気の元素〉であり、非常に軽く拡散しやすいからね。
倉庫には、二万九千九百八十一本のビールが保管されていたんだ。けれど、暴走したバイクが落下して、そのうち七千六百五十三本が割れてしまった。
割れたビールは完全なる〈気〉に変化する前に、地面にしたたり落ちる。
さあて、問題。このあと、どうなるでしょうか?
〈気〉の性質は、〈熱〉と〈湿〉。一方、地面の構成要素である〈地〉の性質は〈冷〉と〈乾〉だよ。
これらが結びつくとどうなっちゃうかな? 小学校の理科レベルの問題だね。
〈熱〉と〈乾〉が結びつく……。すなわち、〈火〉が生じる。
そうなると……?
そう、爆発さ。
★
ビールの雨が降りしきるなか、おれは覚醒した。
ここは、どこだ……?
一瞬、自分がいままでなにをしていたのか、忘れてしまう。長い、とても長い夢から目覚めたようだ。
はたと気づく。おれは、死んだのだと。
そして、ふたたび生を受けたことを、思い出す。
ここは……、谷? いや、クレーターの真ん中だ。おれのいるところを中心として、地面がへこんでいる。
霧が立ちこめて視界が悪いが、壁やエアカーや棚の残骸が、四方八方に散乱していることがわかった。
残骸は、燃えていた。ビールの雨が当たると、小さな爆発が起き、炎が大きくなる。
おれはここがどこだが悟る。さっきまで働いていた倉庫だ。ビールが封印から解放されて爆発が起きたのだろう。
だが、その答えは新たな問題を生じさせる。
——なぜ、おれは生きているのだ?
ビールの雨のなかを、生存できる生物などいない。お酒は劇物だ。それに触れた生物は、漏れなく死んでしまう。
ぬっ、とライズ社のパトカーが現れる。そのなかから、防護服を着た二人の警官が現れた。
手元にある光線銃は、まっすぐこちらを狙っている。
絶体絶命の危機といえる状況だが、おれは、別のことが気になっていた。
地面に落ちている、割れていないビール瓶を見て、おいしそうだなと感じたのだ。
おれはなにを考えてる!?
お酒、それは飲食からもっとも離れている概念だ。四元素の純粋抽出物であるお酒は、天使以外のすべての存在物にとって、脅威だ。
それを口に入れるなんて、正気ではない!
そんな理性の忠告はどこ吹く風か、おれはビール瓶を開け、ゴク……、ゴク……、ゴク……と一気に中身を飲んだ!
「こいつ……、まさかお酒を飲んでる!?」
「馬鹿な! この世にお酒を飲めるヤツなんて、いてたまるか!」
あまりのことに、警官たちも攻撃に手を止め、こっちを見ている。
うまい……! 刺激的な泡の舌触り、どこか懐かしい苦み、そして、胸いっぱいに広がる陽気な熱さ!
「ハハハ! カハハ! タハハ! パハハ!」
気づくと、ぼくは笑っていた。こんなに、屈託のない、腹の底からの笑い声を上げたのは、生まれてはじめてかもしれない。
「うっ、撃て!」
警官たちがあわてて殺人光線を撃ってくる。死にいたる赤い光を見ても、うわぁーきれいだなーくらいの感想しか浮かばない。それほど、おれはハッピーなのだ。
「なんて、いい気分なんだ。みんなに、この気分をわけてあげたい!」
心が軽い! 体が軽い! どこまでも、フワフワした気持ちでいっぱいだ!
宙に浮く感じというのは、こういうのを指すのだろう。
——はははは!『感じ』だと? 下を見てみろよ!
イミワカネーに素直に従い、首を下に向ける。
「ああああぅぇぇぇぉぉぃぃやはへぇぇぇぇおっ!?」
混乱! 驚愕! 絶叫! こんな情けない声を出してしまったのも無理はない。
そこには、あるはずのものがなかった。いつも、絶大なる存在感でおれたちすべての人々を支えてくれる縁の下の力持ち、大地が!
代わりにあったのは、空! 真っ青な快晴の空! 澄み渡る宝石のような五月の空!
あわてて、上を見る。なくなったはずの大地があった。
さっきまでいたところが、はるか遠くに見える。壊滅した倉庫、霧が立ちこめる爆発現場、飛び交うエアカーはカブトムシみたいに小さく見える。
おれは……落ちている!?
本能的に、体を丸くする。この高さでは、なにをしようと助かるすべはないのだとわかりながら。
ところが……、いつまで経っても落下の衝撃はやってこない。
「なぁーに恥ずかしいことしてんの? アルマジロのものまね?」
イミワカネーがケケケケケケとワライカワセミのような声を上げる。声だけではなく、ワライカワセミのごとく飛んでいる。
おそるおそる、体を戻すと、ありえないことがわかる。体が浮いている。
フワフワフワフワ。雲を踏む心地とはまさにこのことだ。
「いったい、これはなんなんだよ!」
「ビールの作用だよ。小学校で習わなかった?」
「あいにくと小学校にかよったことはないんでね」
「まっ、理屈は簡単さ。ビールは〈気の元素〉でできている、〈気〉は軽い。よって、ビールを飲んだら空中に浮ける」
「はぁ?」
おれは納得できなかった。たしかに、飛行船などはビールを使って空中に浮いているが、あれは現代錬金術の巧妙な技術のなせる技だ。ビールを飲んだら浮き上がるなんて乱暴なことは、物理法則からいってありえない。伝説やおとぎ話ではあるまいに。
「そうだね。これはきみにしかできないことさ。でも、くわしく話している時間はないようだね。お客さんがくるよ」
地面を見上げると、エアカーが急上昇してこちらへ飛んでくる。
「やばっ、逃げよう!」
おれは空中でクロールするが、まったく前に進めない。平泳ぎでもバタフライでも背泳ぎでもダメだ。
「せっかく面白くなってきたんだから、もっと楽しもうよ」
「んなこと言って、殺人光線に撃たれたら死ぬの! 楽しめないの!」
「きみは、ビールを飲んだんだ。〈気〉と一体化したんだ。きみは大気なんだよ。どこまでも広がり、浸透し、なにものにも壊されることのない大いなる大気だ!」
なに言ってんだこいつ? そう思う間もなく、エアカーが目の前に迫る。
どうやら、ライズ社の連中は、銃を撃つ暇も惜しんで、エアカーで直接衝突させておれを殺そうという気らしい。
ぶつかる! 緊張のあまり、毛穴から泡が出るようだ。
ん? 毛穴から泡が出る? おかしな表現だ。なぜ、こんな妙な言葉が頭に浮かぶ?
その答えは簡単だ。本当に毛穴から泡が出ていたからだ。
ブクブクブクブクブク!
シュワシュワシュワシュワシュワ!
白い泡がエアカーを襲う!
泡につつまれたエアカーは、一瞬、戸惑ったようにスピードを落とし、停止する。次の刹那、その巨体は上空に落ちていく。
「なんだ……これ……」
はるか上空へ消え去るエアカーを見上げ、おれは息を呑んだ。
「これこそが、きみの秘めたる力。お酒を飲む力さ」
「おれに、こんな力が……」
「感動するのは結構ケッコー。けれど、いまは絶賛ピンチ中だよ」
イミワカネーの言う通りなのだ。パトカーは次から次へと発進し、編列を組んでこちらへ突進してくる。
青空を背景に、赤い線がいくつも走る。
「やばっ、やばやばやばやば!」
おれはなんとか光線を避けようと、右に左に体をゆらす。それに呼応するように、毛穴からは泡が発射される。
あいにく、毛穴から噴出する泡で殺人光線を避ける訓練など、おれはいまだかつて受けたことがない。というか、受けたやつなどこの世にいないだろう。
というわけで、空中で体をコントロールできるはずもなく、ぐるぐるとスピンしはじめる。
「うっ、うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
興奮したせいで、さらなる泡がぶくぶくと無尽蔵に出てくる。泡に押されるように体は加速する。
空と地面と海が視界のなかで激しくシェイクされる。青と茶色のミックスジュースに光線の赤が添加される。
とめどなく出る泡に体を殴りつけられるようだ。かろうじて見える地面からは、自分がとんでもないスピードで飛んでいることがわかった。
猛烈な吐き気にさいなまれる。頭が圧縮されるように痛んだ。当然のことながら、おれの意識はろうそくを吹くように消える。
第二章 永遠の学園
4 フォスティーヌ・オルガネット
わたしが生きていることに、価値はあるのだろうか?
そんな問いを出せば、多くの人々が「価値はある」と答えてくれるだろう。
わたしには、応援してくれる人たちがいる。昔から支えてくれた、根強いファンたち。管理者に、友人たち、会社の偉い人たちだって、わたしのことを気にかけてくれる。
けれど、知っているのだ。わたしの手が血に汚れていることを。わたしの足下には、死体の山が積み重なっていることを。
わたしが生きることは、ほかの子たちにとって、死を意味することを。
そのことを知っていて、なお、わたしは生き続ける選択をする。毎日、毎日、穏やかな日常を送るごとに、ほかの子たちを刺している。わたしの吐く息、動かす手、生活のすべてが彼女たちの死だ。
——そうだね。きみは、生きている。殺しながら、生きている。この学園=楽園=牢獄で。
かすかな声がした。どこか懐かしい声。ずっと昔、聞いたことがあるような声。
——あなたは、だれ?
——忘れちゃったのかい? ぼくは、きみ。そして、きみは、ぼく。
そうだ。なぜ、忘れてしまったのだろう。この声を。生まれる前からずっと、聞いていたのに。
——あなたの名前は?
——それも忘れちゃったのかい? ぼくは、きみだ。つまり、きみの名前を言えばいい。
——わたしの名前……?
——あらら。そこまで、教えてあげなきゃいけないの? きみは、フォス。フォスティーヌ・オルガネットだよ……。
——わたしは、フォスティーヌ・オルガネット。フォス。
フォス……。フォス……。フォス……。
「フォスったら! 起きてよ!」
★
「フォス! 起きろって!」
「……?」
意識が急に浮上する。視界が開き、ぼやけた映像が広がる。世界が急激に押しよせてくる。
一瞬、自分がだれで、ここがどこかわからなくなる。ちょっとしたパニックだ。散逸してしまいそうな自分のかけらを、必死で探し求める。
大丈夫。わたしの名は、フォスティーヌ・オルガネット。それこそがわたし。失われたかけらは取り戻せた。
——そうだよ……。失われた自分のかけらを探す旅。それこそが、きみがやるべきことだ。
なにか聞こえたような気がした。夢の残り香が、まだ頭のなかに漂っている。
とても懐かしい気配のする夢だった。はるか昔に別れたはずの友人が出てきたような……。
……わたしが生まれたとき、この学園——〈永遠の学園〉へ連れてこられたとき。ずっとそばにいた、あの子?
いまはもう、消えてしまった。どこにもいない。そもそも、そんな子が本当にいたかもわからない。
わたしは自分が生まれた日のことを思い返す。ため息が出るほど遠い記憶。
入学式の日。三十年前、わたしは水星で造られたあと、ここへ運びこまれた。以来、ずっと学園の生徒として従事している。
わたしは、自他ともに認めるベテランの生徒だ。三十歳になった人工美少女は、学園広しといえども、なかなかいない。
三十年、その歳月のなかで、わたしの体はすっかりガタついてしまった。初々しい新入生だったころとは、すっかり別物だ。管理者は、まだまだいけると太鼓判を押すが、もう限界であることは自分が一番よくわかっている。いくら、関節にオイルを入れても、どこか動作がギクシャクする。昔のように、自然な表情が出せない。
「フォスったら。なにぼうっとしてんのさ~」
ぬっ、と顔が近づく。ボーイッシュですっきりした顔だ。彼女の名は、マディ。マドレーヌ・カンタリーチェ。
「ごめんなさい。ちょっとうとうとしてたわ」
「まったく、フォスはけっこう抜けてるとこあるよね」
いつもの日常。いつもの会話。何百回、何千回と繰り返してきた日々。あと、どのくらい続くのだろうか?
わたしたち自動人形は、不死身だ。消耗するパーツさえ交換できれば、千年でも生きていけるだろう。
問題は、パーツは職人の手作りであるため、きわめて高価であることだ。生を延長するには、ベネフィットがコストを上回っていなければいけない。わたしたちの生活すべてが、より長い生を得るための戦いのなのだ。
有用な——つまり、愛くるしくて、魅力があり、ファンにめぐまれて、お金をたくさん稼げた自動人形ならば、長いこと生き続けられる。それ以外は廃棄される。簡単なことだ。
そして、古い自動人形を長く運用するよりも、新しい自動人形を開発して導入し続けるほうが、コストも安くお金も集まりやすい。結果として、わたしたちは、常に後輩から追い立てられている。
『積極的陳腐化』そんな言葉が頭をよぎった。……どうしてだろう? なぜ、こんな言葉を知っているの?
——それはね、ぼくが教えたからさ。
どこからか、声が聞こえてきた。今日は疲れているのだろうか……?
「フォス。今日はくるでしょ?」
「ええと……。なんの話だったかしら?」
「もうっ、みんなでケーキ食べようって話」
「もちろん、行くわよ」
常に、カメラを意識してしゃべる。生徒たちにはカメラの場所は教えられていないが、わたしは知っている。年をとることで得られる数少ないメリットは、知識だ。若い後輩たちに対抗できる唯一の武器。わたしは、この学園のことを知り尽くしている。
「今日はフォスにおごってあげるね。テストのとき手伝ってくれたもん」
「うふふ。かわいいあなたの頼みとあれば、いつでも教えるわよ」
わたしは、自分のキャラクターに沿った言動を心がける。わたしは、頼りになるお姉さん。でも、実は、ちょっと天然でおっちょこちょいな女の子。背伸びして聡明なお姉さんを演じている。そういうキャラクターをわたしは演じる。
無料の視聴者には、わたしが本当はどういう子なのかわからない。編集された映像を見て、わたしを有能なお姉さんと勘違いする。有料プレミアム会員になると、わたしの本物の姿を見ることができる。おっちょこちょいで、どこがずれている天然さん。そういうギャップがあったほうが、キャラクターとしてより価値がある。
本物。本物ってなんなんだろう? より高いお金を払って得られたものは本物なの? 弱点が見えたほうが本物だ、わたしのキャラを設計した人はそう思っているのだろう。お金を払った人は、わたしの弱点を見ることができる。より身近に、よりリアルに感じることができる。
いくつもの演技を繰り返したせいで、もう、なにがホンモノなのかわからない。タマネギの皮のように、ニセモノをめくると、また別のニセモノが出てくる。すべてをめくると、そこにはなにも残っていない。
無——それがわたしの正体だ。無に体をつけて、ドレスを着させて、化粧した存在が、わたしだ。
無が歩いていく。無が喫茶店に入り、無がケーキを食べる。
無の口が開く。それは純然たる穴だ。どこにも続いていない。なんの意味もなくあいているだけだ。ぐちゃぐちゃになったケーキとコーヒーが意味もなくたまっていく。
わたしの口は飾りだ。食道も胃も腸もない。食べ物を吸収することはできない。おなかのなかにある袋に回収されるだけ。毎日、役割をはたすことなく、ダストシュートに捨てられる。
わたしたち自動人形は、本当の意味で食べることを知らない。月一回、注射を受けるだけで栄養は十分にとれる。
けれど、わたしたちは人間のまねをしなければいけない。人間たちが、そうするように自動人形を造ったのだ。
人間たちは、自分たちが好きなのだ。根本的にナルシストなのだ。鏡に映った自分たちを見ることで、よろこびを感じるタチらしい。鏡だけでは満足せずに、鉄とセラミックで自分たちの似姿を造り、なんの意味もない行動を繰り返させる。
人間たちの目には、わたしたちは映っていない。ただ、自分の鏡像があるだけだ。
ああ。無が会話し続けている。なにを話しているの? もう、なにも聞き取れない。
だれの口からその言葉が出ているのか、わからないまま。大量の会話が流れていく。
「今日のテストできた?」
「ねぇ聞いてよ。さっき先輩が頭なでてくれたの」
「やったぁ、一時間目は体育だ。思いっきり動くぞ」
会話は、ひどくゆがんでいく。エコーをともない、ぐわぁんぐわぁんぐわぁんと耳障りな音と化していく。
存在しないはずの脳が痛む。視界がにじむ。
無は機械的にケーキを食べ、コーヒーを飲む。そもそも、機械なのだから、なにも間違っていない。
ケーキを食べ終えた無は、友人たちに言う。カメラを意識して、しかも、カメラに気づいてないかのような動きで。
「ごめんなさい。先に帰っていて、わたしは、よるところがあるから」
★
聖ベンヤメンタ学園——通称〈永遠の学園〉。
神奈川県郊外に建てられた、超巨大アミューズメントパーク。
そこには、遊園地のようにジェットコースターや観覧車やお化け屋敷はない。大量の美少女がいるだけだ。
正確には、人工美少女、自動人形が。
外界から隔絶されたその学校には、全世界の職人が腕によりをかけて作った自動人形が集められている。わたしたちは、この学校で、一生を過ごす。世界に出ることなく、大人になることなく、はじめからおわりまでずっと、生徒のまま。
わたしたちが学校の外へと出ることができないように、客たちも、学校の敷地内に入ることはできない。隔離は徹底されている。楽園に足を踏み入れることは何人たりとも許されない。ただし、校内に設置された大量のカメラをつうじて、客たちはわたしたちの日常を見ることができる。
顧客が直接落とすお金はかなりのものだが、もっとも大きいものは広告収入だろう。わたしたちが使っている日常品や嗜好品、服に食べ物、建物に庭に生えている芝にいたるまで、すべてスポンサーのものだ。それらの商品をわたしたちが使うことで、顧客の頭には商品のブランドが刻印される。わたしたちの日常は、編集されてテレビ番組にもなっているから、合計視聴者はとてつもない数になる。
わたしたちは日常を過ごす。学園のために、スポンサーのために、商品をより多くの人に買ってもらうため。
わたしたちの生活は、足の先から頭のてっぺんまで、スポンサーのためにある。自動人形たちは、各自の性格設定に合わせて、一定期間、広告のための趣味を課される。たとえば、ボーイッシュなマディは、スケートボードで登校している。最近のわたしの『マイブーム』は、ユービック食品のホヤチップスだ。お嬢さまなのに、ジャンクな味が好きという設定なのだ。
わたしは、こんな生活にうんざりしているのだろうか? それすらもわからない。なにもかもわからない。無に、わかるわけがない。どこまでいっても、からっぽだ。
そんなことを考えながら、わたしは『秘密基地』にたどり着いた。
ここを見つけたのは十年前だ。学園内のすべてのカメラを見つけようとやっきになっていたあのころ。まだわたしも若かった。いまはもう、そんな根気強さと反抗心は残っていない。
十年前のわたしは、この場所を見つけた。
林のなかの一角、少し木がまばらになっており、気持ちのよい日光が降りそそぐ、そのほかは、なんの変哲もない場所。
ここは、学園のなかでもきわめて珍しい。カメラのない場所だ。
おそらく、探せばもっと見つかるだろうが、ここを見つけたあとは満足して、探す気力を失ってしまった。
カメラのないこの場所を、わたしは自分だけの『秘密基地』とした。すべての生活から解放される場所。
『秘密基地』で過ごす時間は長くない。カメラに映らない空白の時間が長引くと、さすがに不信感をもたれるだろう。
ここではなにもしない。ただ無心に過ごし。すべてを忘れる。
地面に横たわり、空を見る。雲ひとつない、五月晴れの空。
と、そこに、小さな黒い影が現れた。青い背景に、一点の黒。
鳥だろうか? そう思っている間に、影はどんどん大きくなっていく……。
いや、落下しているのだ。その形は、すぐにはっきりしはじめた。四肢と頭……。人だ!
わたしは、反射的に立ち上がった。落ちてくる人を受け止めようと、両手を広げる。
人間であれば、無謀な行為だっただろう。少なくとも大けが、最悪なら死に直結しただろう。けれど、わたしは人間ではない。この体は、鉄とセラミックと合成樹脂でできている。痛みも存在しない。
落下してきた人と、空中で目が合った。左目に眼帯をしている。どこかで出会ったことがあるだろうか? 懐かしい気分がよみがえる。
突如として出てきた場違いな気分に戸惑いながら、胸をそらし、落ちてきた体を全身で受け止める。
勢いを殺しきれなくて、バランスを崩す。お尻から、地面に叩きつけられる。
こういったとき、人間はどんな風に感じるのだろうか? 図書館にある小説には、『心臓が飛び出るような』とか、『胸がつぶれて息ができない』とかいう文章が並んであった。でも、わたしは自動人形であり、心臓も肺もない。わたしには臓器がない。あるのは、鉄の骨組みと歯車とネジであり、がらんどうだ。
肺に空気が送られる冷たさ。ドキドキする心臓の音。胃腸がつかまれるような不安感。そういったものは、わたしにはない。ただ、そんな感覚をあたかも持っているかのように動くだけ。
わたしの体は、死体だ。
腕のなかの、落ちてきた子を見る。気絶しているようだけど、小さく息をしている。
どうして、空から落ちてきたのだろうか? エアカーの事故だろうか?
そんなことを考えながら、眺める。首のところに、印刷したかのようなしましま模様がある。これは、バーコード?
はたと気づく、この子は人鉱物だ。
人鉱物——別名〈大地の子ら〉。天球からの気息が大地にしみこんだことで、生気が結晶化して生まれたものたち。
わたしたち自動人形のように、人鉱物たちも、人間として扱われていない。わたしたちが癒やしと鑑賞の道具にされているように、人鉱物たちは労働の道具だ。その人生は、自動人形よりもさらにつらいのかもしれない。
人鉱物と自動人形は、似た面もあるが、違う面もある。人鉱物は生まれという側面では人間とは共通していないが、肉で作られた体を持っている。
この子は、わたしとは違う。生きている肉体でできている。心臓も肺も胃腸も持っている。わたしよりもずっと、小説に書かれてきた{登場人物|キャラクター}に近いのだろう。心臓の鼓動、肺から出る空気、胃腸の動く感覚を知っている。臓器のある心を持っている。
いま、わたしはなにを思うべきなんだろう?『うらやましい』? 自動人形が、人間になることを望む。昔から語り継がれてきた物語だ。わたしも、その物語に乗るべきなのだろうか?
いいや、違う。きみは、選択するんだ。きみ自身が主人公の、まだだれも知らない、空前にして絶後の物語を。
頭のなかに、なじみのない思考が現れた。唐突に、どこから発生したかもわからず、爆発したようにびゅんびゅん勝手に動き出す。
思考は、わたしの困惑をよそに、ぐぃんぐぃんと動き続ける。
きみの前は、相反する二つの道がある! 片方は安寧の道。永遠にこの学園へ残り続ける道。いつまでも、カメラを気にして、視聴者に癒やしと感動を与え続ける道さ。それもいいだろう。きみはそこそこ人気者だからね。きっと、慎重に演出すれば人間の寿命くらいは長生きできるんじゃないかな? もしかしたら、永遠に生きるのかもしれないね。きみにはその実力がある。
もうひとつは、再生の道! きみは、すべてを脱ぎ捨て、新しい自分を探す旅へ出る。卵が雛に、さなぎが蝶に、胚が人へと変わる旅。それは、いままでの生活の否定さ。これまでの努力は水泡に帰す。そして、新たな世界がきみをむかえるんだ。きみが考えたこともないような世界が。
きみの腕のなかにいる、この子が、偉大なる旅のはじまりさ。ここで、二つの道へ接続する二つの選択肢が生まれる。片方の選択肢で、きみは、学園の運営当局にこの子のことを報告する。そして、この子は処分される。終わり。きみの閉じられた日常は続いていく。もう一方の選択肢では、この子と一緒に、きみは学園の外へ旅立つ。信じられないような旅だ。偉大なる脱獄の旅。世界を破壊する旅!
さあ、きみの決断が世界を作り変えるんだ!
思考は、唐突に終わった。打ち上げ花火がパッと燃えさかるように。桜の花が満開になったあと、すぐに散ってしまうように。
——心臓は高鳴らない。手に汗はにじまない。息を吸いこむこともない。
それでも、わたしは決断する。未来への一歩を踏み出す。おそらく、わたしの人生において、はじめての決断を。
5 キミア・ゼロ
おれは意識を取り戻した。
今日は気絶しまくっているから、おれは気絶のプロだな。
頭の隅でそんなことを考えると、おかしくてたまらない。
いや、まったくおかしくないことはわかっているのだが、なんだか笑えてくる。この身の不幸を考えると、笑うしかない。
さてさて~。目を開けるとするか。おれは気絶のプロだから、意識を取り戻したあとまっさきにすることは、目を開けることだと知っているのだ。
おれは目を開けた。
「あら、気がついたの?」
そこには、美少女がいた。
いくら気絶のプロといっても、この状況はでも予想できない。
目の前の美少女は、まさに「美少女」としか形容できない少女だった。
いくら言葉を尽くしても、その美しさを形容することはできない。目が宝石のように澄んでいるとか、髪がサラサラで流れるようだとか、顔が小さくてプロポーションが最高だとか、完ぺきに左右対称だとか言っても、しょせん言葉だ。実物を目にしたら、そんな言葉がどんなに無意味か実感できる。
その姿は、どこかで見たことがあった、あまりの美しさで記憶が一瞬吹き飛んでしまったが、すぐに名前が出た。
「フォスティーヌ・オルガネット!」
そうだ。いつも出勤前に見ている番組で見ているじゃないか。〈永遠の学園〉の自動人形たちの日常を映したあの番組で。
「あら、わたしのこと、知ってるの?」
美少女の顔が近づいてくる。
「あっ……、はい、当たり前です。テレビ、見てましたから……」
思わず、敬語になってしまう。まあ、普段仕事ではずっと敬語だから、いつものことではあるが。
「そんなに、かたくならないで。わたしのことは、フォスって呼んで」
「えぇ……、ふぉ、フォス……」
舌が絡まる。それでも、なんとか、名前を口にする。
「うふふ、ありがと。これでもう、お友達よね?」
フォスは笑顔を浮かべる。それを見ているだけで、脳のなかに快楽が広がっていくのを感じる。
「あっ、いや……、おれなんかが友達になったらおこがましいというか……」
言葉がつかえて、出なくなる。おれはしゃべり慣れていないんだ。自由に会話することなんて、この十年、一度もしてこなかった。
フォスの顔を見ていると、焦ってしまう。失礼になるかもしれないと思いながらも、目線をそらす。
あらためて、自分がどこにいるのかを認識する。木立のなかだ。気持ちのよい風がほほをなでる。木の香りが鼻孔を刺激する。複合住宅と勤務場所を行き来するだけの生活をしていたおれには、縁のない場所だ。
「ここは〈永遠の学園〉よ」
物珍しそうにあたりを見るおれに、フォスが語りかける。
「わたしたちは、ここで一生を過ごすの」
「もう行くよ」
おれは立ち上がった。自分がひどく場違いに感じられる。ここは、選ばれたものたちのみが入ることを許された場所だ。おれはここにきてはいけなかった。すぐ出て行かなくては。
「どこか行くあてはあるの?」
その言葉を聞き、おれは力なく首をふる。おれの生活は、派遣会社の一部としてのみ回っていたのだ。いまや、おれという歯車は機械から外れてしまった。なんの機能もしていない。こんなおれを拾ってくれるものはだれもいないだろう。
「……けれど、逃げなきゃ。追われているんだ」
そう言い残して、立ち上がろうとする。
「いてっ!」
予想よりずっと肉体は損傷を受けていたようだ。脚に力を入れると、筋肉がびくりと震える。
「まだ、動ける状態じゃないわ」
フォスがすぐそばに近づき、おれの脚に手をかけた。
「それに、この林の外は、カメラだらけよ。出て行けば、すぐ見つかるわ」
そう聞けば、従わざるをえない。
「ねえ、あなた。名前はなんていうの?」
名前……。おれの名前ってなんだっけ? ぼうっとそんなことを思案したすえに、自分は名前を持っていないという当たり前の事実が出てくる。
「あー、実は名前はないんだ。人鉱物はバーコードで識別されるから。認識番号でよければ、KMA075156だけど……」
それを聞くと、フォスは両手を口に当て、目を大きく開けた。
「ごめんなさい……」
「いやいや、大丈夫。名前ないの慣れてんので」
軽く笑ってごまかそうとする。
「でも、あなたのこと、なんて呼べばいいのかしら?」
「きみでもおまえでもこいつでも、なんとでもいいっすよ」
距離感がつかめなくて、コンビニで働いてたときの口調になってしまった。
「だめよ! あなたには名前が必要なのよ!」
フォスが予想外に強い口調で言ってきた。そんな名前って必要なのだろうか。
「そうだわ。わたしがあなたに名づけたらいいのよ」
名づける? フォスがなにを言っているのかよくわからなかった。自分に名前があるという状態がどのようなものかよくわからなかったのだ。おれは、名前を呼ばれる対象ではなかった。おれはおれでなくても、世界はいっこうにかまわなかった。
名前、名前があるって、どんな感じなんだろう? だれかが、おれを呼んでくれる。おれを気にかけてくれる。歯車のひとつではなく、おれをおれとして大事にしてくれる……。
そんなこと、想像もできない。
ぐるぐると回るおれの思考をおいてけぼりにして、フォスはしゃべり続ける。
「KMA075156、ここから考えましょうか……。キミア……。そうだわ! キミア・ゼロはどうかしら?」
キミア・ゼロ。その言葉が、おれの脳内に反響する。ゆっくりと、味わうように、響きを体に染みこませていく。
「キミアというのは、錬金術師の古い言い方ね。どう、気に入ってくれたかしら?」
キミア・ゼロ。それがおれの名。おれとおれじゃないものを区別する記号。世界のなかで、おれがいる位置を知らせる情報。
——そうだよ。きみは、キミア・ゼロさ。その名の通り、ゼロから生まれし錬金術師。いまここが、きみの起源さ。無からの創造だよ。ひとつの世界のはじまり。キミア・ゼロという世界が、誕生したんだ!
「うるさいぞ、イミワカネー」
いつもの癖で、つい文句を言ってしまった。はたと気づく、となりにフォスがいることを。
フォスは、首をかしげてこっちを見ていた。
「あー、いや、その……。イマジナリーフレンドがうるさくって……」
弁解してから、しまったと思った。普通の人はイマジナリーフレンドなんていないんだった。これは、引かれたかな?
と、心配してたら、フォスがぐいっと近づく。
「キミア……、たいへんだったのね。でも、大丈夫。あなたにはわたしがいるわ。本当の友達になるから」
自分が抱きしめられていると気づいたのは、少し経ってからだった。こういう愛情表現があることは、知識として知ってはいたが、実際に体験したことはもちろんない。
フォスの腕は、人工樹脂のにおいがした。おれの肉体よりもかたく、セラミックの感触もあった。体温はなく、冷たかった。それでも、だれかに抱きしめられているという事実は、おれの心を温かにした。
おれが抱きしめられている横で、イミワカネーが歌っていた。大きな声で、とほうもない熱量で、狂ったように頭を震いながら。
きみは キミア!
きみは キミア!
きみの名前は キミア・ゼロ!
ゼロからはじまる キミア・ゼロ!
おれにわたしに それにぼく
ここで出会った 運命だ
ゼロではじまり ゼロでおわる
さあ ゼロよりきみきたる
さあ ゼロへときみもどる
きみは起源! きみは終末!
はじめとおわりの きみはゼロ!
きみは! きみは! きみは! きみは!
キミア・ゼロ!
(続きは本書でお楽しみください)
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