学会研究集会参加記
教育実践研究は、事例報告にとどまったり、理論を安易に適用したり、結果に対する過度な一般化が生じている。客観的でなければならないという思い込みが当事者性を消去したような記述になったり、問いが実践の決意になっていることもある。教育実践研究論文は、どのように表現され、どのような基準で評価され、誰がどのように共有するのか。日本教育方法学会研究集会「教育実践研究の論文執筆をめぐって」に参加した。
私は、宮崎大学に赴任した際に、教育学部の教育実践総合センターに配属された。現在は、教育協働開発センターに改組されているが、地域貢献の窓口になる部署である。赴任した当時は、個々の教員や学校からの学級崩壊へのヘルプ要請に対応していた。たとえば、「二階の窓から飛び降りようとする子どもがいる。なんとかしてくれないか。」というものだった。
最初は、勤務している学校では対応できないので、なんとかしてほしいという個人的な支援要請だったが、児童養護施設の子どもたちが通う学校から子どもたちの学力を向上させるために授業だけでなく、校内研修を改善したいとか、あるいは、学校が廃校になるかもしれないという背景のもと、総合的な学習の時間のカリキュラム開発を通して地域を活性化できないかという組織的な支援要請に変わってきた。現在は、市町村の教育委員会から市町村単位の地域づくり・学校づくり・授業づくりの要請にも対応している。子どもの学力向上のために授業を改善したいというシンプルな要請も、「なぜ依頼してきたのか」をていねいに聴くと、単なる指導助言だけを求めているのではなく、学校づくりや地域づくりへの視座も含まれていることがある。
授業実践を通して学校を変える、カリキュラム開発を通して地域を変える。こうした視座における「実践」という言葉は、授業そのもののことではなく、学校や社会の変革をイメージする。ややこしい言い方をすれば、授業「実践」を通した学校改善「実践」や地域づくり「実践」となろうか。実践という言葉は、二重に使われていないだろうか。
研究集会では、①実践研究は活動であり、実践研究論文は活動の表現であるとか、②理論と実践という関係だけではなく、実践と研究という関係をどう考えるかとか、③実践をまなざす枠組みを変容させてこそ実践研究ではないかとか、いくつかの視点がはっきりとしてきた。ただ、「学術論文」と「実践研究論文」の違いに焦点化されており、「実践記録」との関係は語られなかった。あるいは、現場の教員が書く「教育論文」との違いを意識する教職大学院の「課題研究報告」等との関係も不問であった。
新しい学校は、常に公開研究会が行われる学校をイメージしている。学校としてどのように実践研究を推進し、表現していくのかはあらためて整理して提案してみたい。