上都集 - レプラゼント編 2

神の絵を描くと神霊が憑依するという。
悪霊や怨霊も然り。幽霊や精霊も。
縁が切れなくなり自然と描いた者との運命が重なるのか、その運命を自分の運命論から淘汰するまで縁は続く。
悪霊は憑依された者から除霊すると、除霊した霊能師に憑く。その当人の恨みや怨念は消えないからだが浄霊する力を持つ者が除霊すると比較的早く想いが淘汰され憑依が解ける。
除霊者の運命力に感化された幽霊は想いを汲んでもらえた事に納得して何処かへ行くが、憑依されていた者が反省も無しに居るとまだその想いは淘汰される事なく消せないままだ。
除霊に何の意味があるのか、遠隔でコンビニエンスに解霊しても本人と対面で納得いってないし言葉の説得力も低くなるので結局憑かれた本人が悪いという事になる。
反省を都度裏切ると幽霊の怨みはかさを増す。
もう解かないでいいのだと思うようになり今まで以上に強い想いを抱くようになる。

神、心霊の場合は怨みなどではなく、その神の人生への生前の想いを憑かれた当人が背負う事になるので、簡略的にその神の人生の意味を体現するような出来事が起こる。
エッセンスが行為や行動に投影されてその神がしたような判断をしてその人生で叶うものか、淘汰できるものか試される。
納得したなら出て行くだろうが、その際は神も自らの人生をなぞる様に別のパターンとして追体験する事になるので必死だ。
今現代の人生なら如何だろうか。
今の現代人なら如何いった判断をその生活で下すか。神も勉強している。人間も勿論必死に生き抜く。そういったコミュニケーションが神下ろしだ。神憑きとは審神者が通る最大級の試練であり業であり神徳技術。
神に顔が効く様になれば、その神の歴史を語るに値する事になる。
勿論生半可には語れない歴史事実が語る権利を得る。その機会を得る為にも神は憑く人間、見合う人間を探さなければいけない。
そういった道を神にも人にも説くのが案神者、あにわ、と言う。
現代に生きる事の為に活かせるのはこういう力だよ、と神文化亢進に力を注ぐのがこういう者。
人間の道理を神に、神の道理を精霊に伝える。
人間には正しい世界のあり方を説くに過ぎない。よもや理解出来ないものを説く事は罪なのか、と思うことさえある。
当人に言えることさえない場合、神に降って神の成すことを成す。ただただ神に従って神の人生を生きる。そういった人のためでない人生は時に人には埒外とされる。
人の人生か、神の人生か、価値は他人の推し量る価値には無くなるのが図らずも霊能に左右される人間の及ぶ道。カミダーリと言われるものがユタの勧進帳をユタの老師から授けられ成立する。
ユタは大蘇のユタ神がユタになる者が大昔の最初から記述してある勧進帳をその様な者に授けると言われている。その者に渡さなければいけない、必ず手に渡るその帳は古くは古来縄文時代から記されて、ユタの秘儀が手に入るべき者に渡る為にある。その人数は数千人に満たないと言われている。
普通の人には右開き、ユタには左開きで見えるという。
私は小学生5年で所謂霊能力を封印し、一切無かった事にして自分は無能者だという人生を生き始めた。中学生1年で大怪我をして以来、別の超感覚的知覚が芽生え所謂神通力とも言える感覚で20歳ではドラッグカルチャー、クラブミュージックカルチャーの中でアートにまみれて生きた。そして40歳の年に再び霊能力の封印を解き以来3年霊能の問題処理に追われて来たが、自分の力は霊能力と神通力の感覚を混ぜ合わせた脳神経医学的に特異な神霊力とも言える能力だと自覚するに至った。
封印について書くと、よくあのバッティングフォームは封印したとか、あの画風は封印したとか言うが、その通り使わない事を決意して一切を感覚改めて別の生き方をする事をいう。アナログだがその意思力はさもありと言ったところ。意思力次第なのである。本当にない方がいいと思えば出来る。そういった事で霊能力は修めマスターした事になる。限界値はそこが一定となる。他のブログで見たが霊が見える子供は感覚で捉える、感じ取る様にしないと困るから、というのを見た。霊が見えることはそちらの怨霊や死霊も同じ様に相手されてしまうので、向こうは自分が見える者を同類とみなす様で危険な事だと思っている。封印して新たな感覚で生きた時いずれ見える運命なら試されて引き戻されるがそれは必要な部分のみで、無茶に大幅に無くす様な事はしないで限界値を定める為に行う程度の認識でいいかと思う。
自分は10歳まで霊が見えていたが封じた後見えなくなった。しかしながら、霊能の問題は起こる。どういうことかというと、霊は見えていないが神通力に目覚めた事で神霊が見える様になった。つまりは10歳で、問題が心霊のことから神霊のことにレベルアップしたというべき。
普通の方が見えていた方がいいという場合、心霊との付き合い方や意思を強く持つ事を注意しないとそちらに引き込まれてしまう。自分の様に神霊を見る力である視神、千里眼などを擁する場合、紆余曲折、大怪我などにより脳神経外科的に繋がってはいけない部位が繋がる事がなければ有り得ない。
見えていた時は実物、人間の様に霊魂が見えていたので話しかけもしたし、霊だと気づかなかった節もある。それが神の姿にシフトしたと思えば、ポジティブなれど人生で受け止めるものの大きさも小成らずなのである。
神が至ると神義によらずして成らず。

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