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062_Nick Drake「Pink Moon」

(前回からの続き)
「え、 責任?」
「そう、 責任です」 

今まで、主に話していた磯野という男ではなく、 若い半村という男が静かにしかし淀みなく私の言葉に言い添えた。私は半村の顔を見た。声に特に感情がこもっている様子はなく、あくまで淡々としている。ただ目に強い力を感じる。

「私の両親は私を幸せになるだろう確信を持って、私を産んだ。 ご丁寧に私が世界一、幸せになるようにと、 名前も幸一と名付けてくれました」
私は胸の中に言い知れない感情が湧いた。子供の名前はどうしようかと、ちょうど夫とも昨日話していたのだった。そして、生まれてくる子供が幸せになるようにと、私も子供の名前に「幸」の一字を入れようと話していたのだ。女の子だった「美幸」、男の子だったら…

「しかし、 現実は違います。 今では厚生労働省の定める政令によって義務化されていますが、私は生まれる前に行われた出生前診断で、私はすでに先天的に右手に障害があって、ほぼ動かせないだろうことがわかっていました。 だが、両親は私を産む決意をした」
半村の目には相変わらず強い確信がこもっている。

「そして、私は障害を持って生まれた。しかし、私にとって障害などはたいした問題ではありません。この動かない右手の障害あるなしに関わらず、私はこの世の中に生まれてこれまで決して自分が幸せなどとは思ったことはありません。出産は罪悪です。自分たちの意思で子を産むこと、それはやはり親のエゴと言わざるを得ません。私に生まれつき障害があることを知りながらも、こんな世界に私を産み落とした無責任な両親を私は恨んでいます。そして、それを両親に伝えました」

「それについて、 ご両親はなんて?」
「両親もすまなかったと、 私を産んだという自分たちの愚行を私に詫びました」
「そんな…」
おそらく、半村という男の両親は子として半村のことを強く愛しているだろう。私を産んだ時の両親の顔を想像したが、喜びに満ちた顔しか浮かんでこない。私は、子供からこの世に産んでほしくなかったと言われた時の半村の両親の心境を慮って、暗澹たる気持ちになった。
「だから、 私は私のような不幸な子どもをこれ以上増やしたくないのです。 そしてこの反出生主義の啓発活動に身を捧げることに自分で決めました。 無責任な親のエゴでこの苦しみの世界に産み落とされる命をひとつでも救いたい。 それだけなのです」

「救い?この世の中に生まれてこないことが、その子の救いだというのですか?」私はどうしても我慢ならなかった。
「それで、その子の魂は救われるの?」
気色ばんだ様子で机の前に乗り出して、二人の顔を見た。自分が魂という言葉を使ったことに少し、自分でも驚いた。そして、寺の住職をやっていた私の祖父の顔を思い浮かべた。静かなお寺の境内で、祖父は幼い私によくこう話してくれた。

「人には親切に、挨拶は元気に、毎日精一杯ええことをせなあかん」
「うん、わかってる」
「ええか、人は何度も生まれ変わるが、前世で行った引業によって、虫や動物に生まれるか、人間に再び生まれることができるか決まる。人間が人間に生まれ変わることができるのは、仏様の大変に尊いご縁によって決まるんや。虫に生まれ変わったら大変や」
「いやや、私、ダンゴムシに生まれ変わりたくないよ」
「せやな。そらもう、虫かて大変やで、毎日死に物狂いや。虫や動物ではなくて、人間に生まれ変わってこれたっていうだけでそらすごいことなんや。人間だけは仏様の教えに従って悟りを開く可能性がある。悟りを開けば、この輪廻転生の輪の中から逃れることができる」
「輪廻転生?」
「ずっと生まれ変わりの繰り返しばっか、ヘトヘトなってまうからな」
「でも、私、ペンギンになってみたい!おもしろそう」
「そやな、それもええかもなあ。まあ、だからな、じゃあ人間の人生というものは「いかに生きるべきか」「どう生きるべきか」なんて悩む人もいっぱいいてはるけど、清く正しく精一杯生きればよろしいんや」
「うん」
「自分の心に従い、正しい教えを心の拠り所として毎日毎日精一杯いいことをせなあかん。生まれ落ちた時から、与えられた環境の中で、必死に悟りに近づいて行こうとするもう一人の自分。わがままや欲にとらわれることなく、自分自身の本来あるべき姿を見て、あるべき心を訪ね歩く、ひとりひとりの旅っていうのが人生やからな」
「うん、なんかようわからないけど、わかった!」
「おお、わかってくれたか、ええ子やなあ」
祖父は優しく強い人で、お寺に来て、祖父に生きる上での悩みや人生相談を持ちかける人はいつも絶えなかった。もしも祖父が生きていたら、私に子供ができたことについて、いの一番で喜んでくれたことだろう。

「申し訳ありませんが、そういった精神論や宗教的な領域については、残念ながら我々が立ち入るところの話ではありません。 あなたが仰っているのは仏教の世界観に基づく魂の輪廻転生を行うことと、反出生の是非を示唆しているのだと推測します」
「確かに、そのように仰る方もたくさんいらっしゃいます。それも否定はいたしません。しかし、私たちは特定の宗教などの考えに依らず、あくまで客観的かつ科学的なデータに基づいて、 論理的に反出生主義の有効性について皆様にお話をしているのです。 申し訳ありませんが、魂や宗教的価値観などを絡めた議論については、我々は行うつもりはありません」
私の様子を見て、磯野がすかさず補足する。私の勢いに少したじろいだのか、半村は少し、伏し目がちになっていた。

つまり、そういった意味では、彼らの反出生主義には宗教的な背景はないということなのだという。あくまで人間という生物としての種としてとらえた時に、このまま無節操に人間が地球で生まれ増えていくことが、地球にとっても、我々人間にとっても今後よくないことになる、 と彼らは言いたいのだ。理屈はわかる、理屈は。 ただ、それは理屈だけなのだ。

私は母親になったのだ。思わず命を宿った自分のおなかをさすりながら、思った。この母の感情は、じゃあどう処理すればいいのだろう。「産みたい、 この子に会いたい」というこの気持ちとどう向き合えばいいんだろう。半村の母親も同じ気持ちだったろう。わからない。それが親のエゴだというのか。人として彼らの言いたいことはわかるけど、母として私は理解しようとすることを拒否している。

確かに生まれてきた子どもが確実に幸せになるかどうかなんて、確かに私は保証できない。自分の子供が人生に思い悩んで、これ以上生きていたくない、産んでほしくなかったと言われるかもしれない。だが、私は祖父の教え通り、人生に思い悩むことを含めて、それも自分の人生を生きることそのものなのだから、自分らしく精一杯生きるしかないということをこの子に教え諭すことしかできないのだ。

「いずれにしても、 我々はあくまで啓発活動の一環として、この反出生主義の概要についてご説明したまでですので、もちろん思想の強制を伴うものでは一切ありません。皆様がそれぞれお持ちになっている宗教観や価値観を否定するつもりもございません。ただ、知っておいてほしい、あなたがこれからなそうとしていることについて。 不幸になる子供が一人でも減ってほしい、私たちの願いはそれだけでなのです」
「お話は以上です。長々とお時間いただきましてありがとうございました。 それでは」 磯野は立ち上がって、深々と頭を下げて、JAAのリーフレットなどを何枚か置いていった。半村は相変わらず最後まで伏し目がちのままだった。

私は彼ら二人を玄関まで見送ったあと、すぐにリーフレットをゴミ箱に捨てて、そのまま倒れ込むようにソファーに沈み込んだ。そして着ていたカーディガンの下のお腹をさすりながら、ひとり嘆息する。
「ねえ、私は生まれてきてほしいの、あなたに。それだけなの」
私は静かに優しく我が子に話しかけた。


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