171_木村カエラ「Circle」
通勤にはスニーカーを履くことにした。
なるべく歩きやすい靴で出勤したかったからだ。職場にはちゃんとそれ用のパンプスを机の下に置いておくことにして、職場に着いたら履き替えることにする。ただただ、私は歩きやすい靴を履いてみたかった。そうなると選ぶのはスニーカーしかない。
真新しいニューバランスのスニーカー。ロングスカートとのコーディネートはアンバランスだったが、私の心は弾んだ。それだけで、いつもより体が軽くなったのを感じた。
自分で履きたい、これで歩きたいと思って選んだ靴を履くだけで、こんなにも気分が違うものだろうか。そういう靴を選んだのは、久しぶりな気がする。小学校の時、かけっこが早くなりたくて、それまで履いていたピンクの女の子っぽい靴じゃなくて、早く走れそうな運動靴を親に選んでもらった時を思い出した。
成長するにつれて、どうしても靴や服を選ぶのにも、いつも他人の目があった気がする。もちろん必ずしも、異性の目を引きたいという気持ちだけで服を着ているわけではない(そりゃ、デートとか合コンに行くときはそれらしい格好も考えるが)
自分の考える「オシャレ」「かわいい」を追求してみたい時もあるが、それが万人受けするとも限らない。街を歩けばオシャレで綺麗な娘なんて吐いて捨てるほどいるし、キラキラしたモデルの1週間コーディネートの載っている女性誌を見て辟易することもある。SNSでもとんでもない数の「いいね」がついているインフルエンサーのきらびやかなスタイルを見て、私のしている格好ってなんなんだろう、という気分になる。
本当に自分の着たい服はなんだろうな。なんのために、誰のために、おしゃれでかわいい服を着ようとしているのだろうと、時々自分でもよくわからなくなる時がある。世の中の方向がどんなに「この夏はこれがオススメ」「トレンドの最前線」と喧伝しても、それが自分ごとになることなんか決してない。その時は、自分の格好なんて誰の目にも止まらないんだとなるべく思うようにしている。
一時期、職場にはスカートしか履いていかなかった。別に男性社員の目を意識しているわけではないし、ただなんとなくそうしていた、としかいえないのだが。だけど、心のどこかでスカートを履いていないと自分の存在の意味がないのではないかと思っていたのかもしれない。まだまだ周囲に仕事で貢献ができるわけではなかったので、そういった心のひっかかりでもあったのだろうか。
自意識過剰と言われればそれまでだが、この周囲から見た女性の見た目という要素に、ずっとずっと私の心はとらわれ続けている。今まで付き合った男の子にも、相手が可愛いと思うだろう格好をずっとしてきたし、その上で、同性の女性から見てあまり浮かないようにバランスを取れるように人知れず努力してきた。
家で鏡の前で、ずっとずっと着ていく服を悩んで外に出られない時もあった。散々気を使った格好をしても、でもどこからともなく、「あの娘の格好って、なんかあざといわよね」「何を狙ってるのかしら」と言われることはある。やはり誰かを味方にすると、誰かを敵にする。そんなものの繰り返しだった。
女子小学生向けのファッション雑誌が「目指せ、全方位モテ」なる見出しの特集を組んで、フェミニストの批判を呼んだことがあった。女子小学生に他人軸へのファッションを推奨するのではなく、自分の好きなファッションを見つけるべきというやつだ。
言っていることはわかる気もするし、よくわからない気もする。別に「全方位モテ」を目指したい女子小学生もいるかもしれないし。(そういえばそんな娘、確かに小学生の頃クラスにもいたかも)でも絶対に誰からも好かれなきゃいけないわけでもないはずなのに。
私は小学校の時に体験した、スクールカーストの高い女子達から無視された時の痛みをずっと抱え込み続けている。私がお気に入りでずっと着ていたワンピースが「かわい子ぶっている」ということだったらしい。
幸い私への無視は1週間も経たず、別の地味な娘に対象が移り、私は胸をなでおろした。でも無視された娘は学校に出てこなくなった。私の身代わりになった娘のことを思って胸を痛めながら、私は明日はどんな格好をして学校に行けばいいのだろうと悩み続けた。
なんでこんなことやっているんだろうと小学生ながらに自分のことが嫌になった。この服を着ればこう思われるかもしれないし、あの服を着ればあの人がどう言うかわからない。そうなのだ、世界中の人から好かれるなんて不可能なんだ。
「あ、スニーカーじゃん。それ、可愛い」
隣の課のすみれさんが明るく声をかけてくれた。笑顔が素敵な人で、誰からも好感を持たれるタイプの人だった。ファッションはいつも上品で、そこまで主張があるわけではないのだけど、常に印象に残る佇まいをしている。私が憧れるものを彼女はいつも持っていたのだ。
「通勤の時だけ、履くことにしたんです」
「いいよね、歩きやすい靴。私も持ってるわよ、ニューバランス。もうこれでずっといいじゃん、っていう」
「そうそう、そうなんです」
スニーカーの会話ついでに、話題が弾んで一緒に今日ランチに行こうかという話になった。すみれさんの選ぶ店でハズレがあるはずがない。二つ返事でOKする。いつも会話に心地よいリズム感を持っている人だ。
「ホント最近、スニーカーでも全然いいやって。可愛いのもいっぱいあるし」
「そうよね、流行ってたアスレジャーファッションとかって、本当動きやすいし着やすいから、もうずっと着ていたいよね。うちの旦那も基本もうスポーツウェアしか着ないの。ずっとおんなじ服着てて、男って楽でいいわよね」
「いいですよね。私、生まれ変わったら、絶対、男になりたいです」
「あら、どうして」
「もう、服のこととか、考えたくないんです。オシャレが嫌いってわけじゃないんですけど、周りとか誰かのことを考えて自分の格好を考えるのが昔から苦痛っていうか…。なんて言っていいかわからないんですけど」
「うんうん、わかるよー」
「すみれさんも?」
「私も服のこと考えたくないってのもあるよ。もう嫌って、なるよね」
「ですよね」
こんなにいつも素敵なすみれさんも服で悩むことがあるだなんて。私はすごく安堵した心地になることができた。
「学生の時、アメリカに留学してた時ね、もうあっちなんて人種も考え方もバラバラじゃない?本当に自分の好きな格好している素敵な人が多かったな。周りなんか関係ない、私は私はいいと思う格好をするんだっていうの気概みたいな?私含めて留学してる日本人の女の子なんてみんな同じ格好してたから、ものすごいカルチャーショックだった」
「へえ」
「でもね、最近はアメリカまでじゃないけど、日本もだんだんと考え方が変わってきていると思うの。ほら、昔はさ、みんな一つの方向に流れてたじゃない。ギャルがいいとかガーリーがいいんだとか、それって文化として停滞している証拠なんだと思う」
「文化ですか?」
「イスラムの人とか宗教上、女性の格好とか制限されていたりもするじゃない。日本も昔は近いところもあったと思うの。おばあちゃんの時代はずっと着物着ていたりさ。でも、今は違う感じがする。スニーカーやアスレジャーもそうだけど、着心地の良い服、自分の気分がアガるものを自分で選んでいこうっていう流れにだんだんなっていくんじゃないかな」
「自分のものを自分で選ぶってことですか?周りに合わせるんじゃなくて」
「まだまだ日本じゃ難しいかもしれないけどね、他人軸じゃなくて自分軸にするっていうか。でも、いつか、化粧だって自分がしなくていいと思うんだったら、しなくても良いようになるかも知れないわよ。それが自分で良ければね、周りもそれを許容できるっていう。それが本当の文化の多様化だと思うわ」
化粧をしなくていい…。そんなことって、あるのだろうか。私はすみれさんの話に感嘆した。そんなこと、これまで生きてきて一度たりとも考えたことなどなかったからだ。いつかそうなった時に、自分の選んだ服を自分が着ていられたらどんなに素敵だろうと私はぼんやりと考えていた。その時は、あの服を着ようか、それともあんな服を着ようかと妄想している自分がいた。それは本当にとても楽しい心地がする。
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