一万年生きた子ども――統合失調症の母をもって| 第3回 誰も来ない運動会
小学校2年生のとき、母が統合失調症を発症。私は生き延びるために、「一万年の子ども」になった――。単行本化を記念して、ナガノさんの子ども時代が描かれた第1~10回を公開します。
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一万年生きる子どもであった私に、純粋な子ども時代がなかったかというと、そうではありません。家では母のことを中心にして生活がまわっていましたが、小学校ではただの子どもとして存分に過ごしていました。
小学校は楽しく、母のことを気にすることなく過ごせる貴重な場所でした。私は勉強が良くでき、リーダー的存在で、積極性もあり、先生にかわいがられる生徒でした。それも、あざとくそうしているわけではなく、天性としてそういう子どもだったのです。毎学期、まとめてもらう新品の教科書が楽しみで、国語や社会はその日のうちに読み終わり、算数は勝手に自習し、一カ月で自力でやり終えていました。ですから、授業は全部復習みたいなもので、成績が良かったのも当たり前と言えるかもしれません。4歳年上の姉が参考書で勉強しているのに、とても憧れていました。小学校1年生のときから参考書をねだり、父に「まだ、1年生は参考書がないんだって」と言われたのをよく覚えています。2年生からは買ってもらいました。
父は勉強のできる人で、わからないことがあると喜んで教えてくれました。父は休みの日はすべて数学の勉強に当てているような人で、私に数学の話を喜んでしてくれました。「ハルちゃん、1+1が2であると認識できるのはすごいことなんだよ。人間は数を数えられるんだ。0という数字もインドの人が発見したんだよ」と、とても楽しそうにわかりやすく話してくれます。私は父と勉強の話をするのが大好きでした。家には毎月『Newton』という科学雑誌が届き、私はそれを読んでは、宇宙の秘密、ブラックホール、多次元宇宙、相対性理論、量子力学などに思いを馳せていました。『Newton』という雑誌は、そういう理論をカラーのイラスト付きで載せ、小学生にもイメージしやすくしてくれるのです。いずれは自分もそういう難しい偉大な知識がわかるようになるのだと思い、毎日の勉強をしていました。
病む母を持つ私にとって、学校や勉強は唯一の救いだったのです。学校の先生には、母が精神病であるとは言っていませんでした。父も事情を話そうとしなかったし、私も先生には何も言いませんでした。ただ一人の小学生として生活できるのが何よりの恵みだったのです。家に帰ってくると一万年の子どもになるしかないのです。
しかし、時に子どもらしいアイディアによってそんな日常が冒険になることがありました。母は夕食を作れません。父も帰りが遅く、私と姉はどうにかして夕食を調達していました。歩いて3分のところにスーパーがあるので食材の調達には困りません。
ある日、私と姉は玄関先の石段でバーベキューをしたらどうだろうと話し込みました。当時、二人で料理ごっこが流行っていました。互いがシェフになり、近所の草木を調達する材料探しから始まって、調理、そして互いに料理の説明と披露、食べ合う真似をするのです。それが実際に食べられたら、どんなに楽しいでしょうか。夜ご飯がバーベキュー! なんとわくわくする響き。さっそく、スーパーであじを買ってきます。そして、割り箸を薪にしてもうもうと火を起こし、竹串で串刺しにしたあじを焼きました。夕暮れが迫ってくるなかの玄関先での調理。日常生活が遊びでいっぱいになります。私と姉は玄関先であじを食べ、夕食を済ませました。
あとから聞くと、母はなんとなく私たちの様子を察知していたようで、「何か危ないことをしているけれど、止めようと起き上がることができない」と思っていたようです。大人がいれば、子どもだけで火を起こすなんて危ないし、絶対止められていたでしょう。事実、火遊びは危ないです。でも、子どもだけの世界で生活も遊びになるのは、とても楽しい思い出でした。
そんなふうに楽しく過ごせるうちはよかったのですが、やがて学校でも子どもでいられなくなるときが来ます。
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運動会の開催をつげる空砲が、地域一帯に響きました。体育の日の空は、快晴ではありませんでした。薄いみずいろの空にレースのような雲がかかっています。私は体操着を着て、赤白帽を被りました。もう、姉が中学生になっていたので、小学校4、5年生頃の話だと思います。体育の日は祝日なので、姉と母は二階で寝たままです。父はスーパーの雇われ店長なので、祝日も関係なく働きます。今朝も早くに自転車で出勤していきました。私は万年床で眠る母を揺り起こしました。けれども、強い薬で眠る母はなかなか起きません。小さな頃、夜中に目を覚まし、暗闇が恐ろしくなったり、トイレに行きたくなったりしたときに、隣で眠る母に本当に小さな声で「ママ」と呼ぶと、母はすっかり目を覚まして、「どうしたの?」と答えてくれました。私は今目の前で泥のように眠る母を、昔の母とはすっかり別人なんだと思いました。
「今日は、運動会なんだ。給食でないから、お弁当持ってきて」
「ああ、そおなんだぁ」
母は呂律の回らない声で答えると、また寝てしまいます。私は不安でした。なんで、運動会は給食がないんだろう。他の子どもたちはお父さんやお母さんが来て、シートを広げて、豪華なお弁当をみんなで仲良く食べるのでしょう。でも、今の母にそれは期待できません。どうにか、お弁当だけでも持ってきてくれればと思いました。玉入れ、ダンス、大縄跳び、と午前中の種目は次々終わります。私の心配はお弁当のことだけでした。競技の様子を見守るみんなのお母さん、お父さん、おばあちゃん、おじいさん。ぐるっと見回しても当然、母の姿はありません。
「それでは、お昼の時間になります。競技開始は1時間後です」
というアナウンスが響き、とうとうお弁当の時間がきました。私はみんながそれぞれの弁当を食べるシートを一つひとつ確認してまわりました。どこかに母や姉が来てないものだろうかと。もう、三回も巡った頃でしょうか。それほど親しくない磯辺さん家族の前で声をかけられました。
「ハルちゃん、お母さんいないの? ここで一緒にお弁当食べていきなよ」
磯辺さん家は近所にありましたから、もちろん母の病気のことも知っています。近所では有名なのです。私はそのことが恥ずかしくなりました。
「いい、待ってる」
それだけ言い残すと、さっと走っていきました。もう、学校内を探すのはやめよう。いないことはわかっているのだから。家から近い学校の門の前で待っていることにしました。じっと目を凝らして立ちんぼうします。来るはずがない、でも、もしかしたら……。淡い期待と絶望的な気持ち、孤独感。みんなには家族があり、お弁当を食べている時間なのに、自分は一人です。
人の流れは多くあっても、母の姿はありません。時間だけが虚しく過ぎていきます。校門にある桜の花には、6月と10月になると決まって毛虫が大量発生するので、油断なりません。今も毛虫がたくさんいます。大抵、何もしらない年少の生徒が数人犠牲になり、首から背中にかけて真っ赤に腫れ上がり、早退しました。毛虫にやられた色白の少年のぐったりした姿は痛々しくも美しいものがあり、私は見とれていました。首筋に毛虫が滑り込んで泣く男の子を保健室に連れて行ったこともあります。危険に鈍い彼らの白い肌がぶつぶつと赤くなって、震えて泣くのを、なぜか私は残酷にも美しいという気持ちがしていました。
昼休みの残りが15分を切ると、私は諦めて教室に一人戻りました。校庭にいては、また礒辺家のような家族にお弁当を食べていないことが見つかると思ったからです。誰もいない3階の教室から、校庭を眺めます。一陣の風がお弁当を広げる家族たちのシートを翻しました。校庭にある小学校の象徴とも言えるアスレチックツリーの天辺を、銀杏の黄色い葉が飛んで舞います。それは、どこか非現実的な光景でした。私だけがこの小学校で唯一、完璧な意識をもった気持ちがしました。また、一万年の心が立ち上がります。不思議とお腹は空きません。私には黄金の体があるのです。一食抜いたくらい、なんでもないことです。担任の先生にお弁当がないということを言おうという気は全くありませんでした。言えば、母が精神病であることもバレてしまいます。学校は私が唯一、子どもらしくあれる貴重な場所なのです。私はそれを失いたくありませんでした。私は教室にひっそり隠れ、人間界に舞い降りた神に近い気持ちで、大人や子どもが弁当を食べる様子を見守りました。私はあの一群には入れない。でも、それは一万年生きる子どもだからなのです。
そして、私はお弁当なしで、午後のリレーのアンカーをつとめました。もちろん、一番にゴールしました。私は生まれもって足が早いのです。お弁当がなくても走れるものだなと思いました。同級生たちにはお弁当を食べていないことを隠しました。誰も何も知りません。ひもじい気持ちもしません。それどころか、少し安心しました。
精神を病んだ母が小学校に来て、好気の目にさらされるよりはきっとましなのです。お弁当を一緒に食べようと言っていた磯辺さんとて、油断なりません。彼らの目は二重ガラスのようになっていて、表面の眼球はシャボン玉のように光を反射して真意を悟られないようなしくみになっているのです。どんな親切な大人も、油断ならないのです。
ふいに空が重苦しい黄色い雲で覆われて、大きな雨粒が落ちてきました。運動会では、教室の椅子を校庭に並べて見学します。教師たちが「雨が降ってきたので、先に椅子を持って教室で終わりの会をしましょう」と生徒に声をかけます。
その時、椅子をつかんだ私の目の前に小さな竜巻が現れて、あっという間に校舎と同じくらいになりました。周りの子どもたちはなぜか竜巻に気がつきません。くすだまの花吹雪を巻き込んで、私は巨大な竜巻に目を奪われました。ゴミ袋、枯れ葉、テープ、いろんなものが空に巻き上げられていきます。
その年、近くの小学校の校庭で練習をしているブラスバンド部の前に大きな竜巻とかまいたちが表れて、子どもが一人死んだという噂があったのを思い出しました。隊列の練習をしている最中の「前に進め」という教師の指示に、従順すぎる子どもが従い、竜巻とかまいたちの中に入ってしまったというのです。
従順すぎる子どもたちを不憫に思いました。私ならきっと、教師の指示を無視して竜巻から逃げることができたでしょう。
誰も気がつかない竜巻。それは、私が見た幻想だったのでしょうか?
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家に帰ると、母と姉は万年床で寝たままでした。私は「どうしてお弁当を持ってきてくれなかったの?」と言ったか言わないか、記憶がありません。言ったところでどうにもならなかったでしょう。ただ、私が運動会にお弁当なしで挑んだということは特に話題にもならず、終わりました。運動会で埃っぽくなった体の感覚ばかり覚えています。あとは、ただ、眠る姉と母。私は一人でした。外は雨。
一階の薄暗い台所に座り、じっとしていました。学校から帰ると、とたんに重苦しい日常になってしまいます。私にとって学校が唯一の救いだったのに、運動会というイベントによって私の苦しい日常の延長になってしまいました。誰でも元気な家族がいて、仲が良くて、お弁当を持ってきてくれるわけではないのです。そのことが普通の大人たちにはわからないのでしょう。幸福な人たちには精神病の母と生きる私の不幸など、思いもつかないのです。そして、わかったとしても、精神病というだけで奇異の眼差しを向けるだけです。大人になった今では、それが差別だとわかります。しかし当時は、自分が特別な子どもであることを、ただただ噛み締めました。
学校でも家と同じような空気を感じるとは、こんなにも辛いことなのか。そして、学校でも一万年の子どもになったことを、よくよく考えました。私はどこまでも無力でした。
(『REDDY』での連載に加除・修正を加えています)
ナガノハル……1979年、神奈川県生まれ。双極性障害II型という障害をかかえながら、日々の苦労をまんがにすることをライフワークとしている。著書に『不安さんとわたし《当事者研究的コミックエッセイ・総ルビつき》』『不安さんとはたらく』(山吹書店)がある。
『不安さんとわたし《当事者研究的コミックエッセイ・総ルビつき》』