はじめに|『家族は他人、じゃあどうする?』|竹端寛
はじめに
芥川賞作家の川上未映子さんのエッセイを読んでいて、印象深い一節と出会った。
彼女のパートナーは、家事も育児も対等にしようと頑張っていた。ただ、食事だけが作れなかった。授乳中で体力も睡眠時間も奪われながら、でも食事を作らざるを得なかった川上さんは、自らの痛みやしんどさをパートナーにわかってもらえない、という孤独を痛切に感じる。
そんな授乳中のつらさを、深夜iPhoneに書き込むなかで生み出されたのが、さきほどの一節である。彼女の深い孤独が伝わってきて、至らない男子の一人として、「ごめんなさい」と謝りたい気持ちになる。
ただ、これからお読みいただくこの本では、もしかしたら「その先」を書いているのかもしれない、とぼくは思い始めている。
「もともと他人であったふたり」が、夫婦仲を深めるうちに、お互いが理解できた「つもり」になる。しかし、「かけがえのない唯一の他者」である子どもを迎えいれた後、「妊娠&出産に身体的にかかわった」母親と、「射精のみ(そんなの、いつもしていること)」の父親(前掲書、二五六頁)では、感じること・考えることが圧倒的に異なる。そのなかで、「さらに完全な他人になっていく」。もちろん、わが家もその危機に遭遇した。
そんなとき、妻と娘とぼくの三人で関わり合い、試行錯誤をしながら、「完全な他人」の先を模索してきたのかもしれない。
この本の中で、ぼくは娘や妻との関わりを、もっともらしく着飾ったり、ええ格好したりせず、等身大でさらけ出して書いてきた。ぼく自身の至らなさや失敗、身勝手な振る舞いがたくさん描かれている。たしかにそれはぼく自身の個人的な問題なのだけれども、よく考えたら、日本の多くの男性に共通する、ひいては日本社会の「生きづらさ」の元凶につながる課題でもある。そう掘り下げて考えてきた。
ぼくはいまだに、とっさに子どもをグイッと引っ張る癖がある。娘が服を着替えてくれないとき、靴のマジックテープを止めずに走り出そうとするとき、無意識にグイッと腕や足を摑んで、力ずくで止めようとする。娘は泣き出すし、横で見ていた妻は「無理やり引っぱったら、脱臼させるで! 自分が動いて、全身を抱きかかえなきゃ」とぼくに注意してくれる。そう言われてぼくは、時には「危なかったし、仕方なかったんだ」とカッとなって反論するときもあるが、たいてい妻の言うとおりなので、あとで「またやってしまった!」と後悔する。
これは一見すると、そそっかしい父と、注意深い母の対比に思える。
でも、ふと考えるのだ。なぜ、ぼくはそそっかしいままで、妻は注意深くあるのだろう?
「グイッと引っ張る」という日常の具体的な行動を、「力ずくでなんとか自分の思いどおりにしようとすること」と変換すると、どんなことが発見できるだろう?
そういえば昔、大学のゼミ生指導で、卒論間近で音信不通になった学生がいた。その当時は不真面目な学生だと思い込んでいたけど、それはぼくが「グイッと引っ張る」ような強引な指導のやり方をしたからではないか。……そう捉え直すと、ぼく自身の中に、この「力ずくで」という発想が、ごく当たり前のように埋め込まれていたと気づかされる。
子どもをケアするときに、そのような自己中心性や一方的な関わりは、子どもに百害あって一利なし。下手をしたら、虐待的な関わりになりかねない。それなのに、つい「危ないから」「そうするしか方法がなかったから」と自己正当化してしまう。この自己正当化する論理は、仕事で自己防衛するために身につけてきた論理である。
ぼくは、「完全な他人」である子どもや妻と関わりあうなかで、自分がごく当たり前だと思い込んできた、自分勝手な仕事中心主義とか、その奥に潜む「力ずく」のやり方(=この本ではそれを男性中心主義の論理と捉えている)と出会ってしまった。これらの論理としっかり向き合って、何とか言語化してみないと、ぼく自身の身勝手さとか、力ずくで○○する傾向は変わらないのではないか、と思い始めた。
その意味では、ぼく自身の身勝手な振る舞いを「まな板の鯉」にしたうえで、そこから見える日本社会の子育て環境だけでなく、この社会を回していく原理そのものを、考え直そうとしている。
この本は、子どもが三歳の夏から五歳の冬にかけて一年半、noteというウェブサイトの現代書館のページに書き続けてきた連載をまとめたものである。一回四千字程度の読み切り連載として、毎回一つのエピソードから浮かび上がってくることを、深めて掘り下げていった。ただ、書籍化するときに、テーマごとに並べ替えたので、子どもの成長具合や季節がバラバラだったりするのは、あらかじめお断りしておく。また、連載未掲載の原稿も何本か加え、連載分もかなりの程度書き直している。
なんとなく分けてみると、前半はぼく自身が「馬車馬の論理」という「自己責任論」にいかにはまり込んでいたか、や、子育てをし始めてその論理が通用せず、どのように追い詰められてきたか、その困惑を書いている。そして、半ばあたりから、これまで気づかなかった・避けてきた「ケアの論理」と向き合うことで、ぼく自身の価値観の捉え直しが始まる。すると、ケアに「喜び」を感じるようになり、関わり合いのなかで、他者の他者性や己の唯一無二性に気づいていく。それらを通じて、自分自身の「まなびほぐし」や「育ち直し」が深まっていく。そんな流れで書き進めている。
なので、前から読んでくださってもいいし、気になる箇所だけ拾い読みしてくださっても大丈夫です。
よかったら、この本を読んでみて、モヤモヤすることを教えてほしいし、あなたのパートナーや身近な友人などとシェアしてくれたらうれしいな。これが著者の願いです。