中世の本質(16)石高制
桃山時代の日本が分権国であることをさらに説明します。それは石高制の解説を通してです。秀吉は土地制度と税制度を全国的に統一しました。それが太閤検地と石高制です。それは荘園制にとって代わるものであり、武家にとって初めての武家独自の土地制度、税制度です。
秀吉は全国の土地を測量し、それぞれの田におけるコメの生産高を求め、それをもとに税を決めました。さらに秀吉はコメを作る農民とコメを受け取る大名とを直接、結びつけました。つまり農民と大名との間から悪質な中間搾取者を排除することでした、それ故、納税方法は簡素化、透明化されて桃山時代以降の納税を巡る紛争は激減しました。
このような全国的な検地も新しい税制度も強権のなせる業です。秀吉以外の者にそんな大胆なことはできません。
中世室町時代死亡説の論者は歴史を区分するに際し、石高制をその根拠としました。―――石高制の出現によって日本の土地制度と税制度が一変した、 それは日本社会の一大変化です。秀吉は日本の諸制度や諸組織を見事に統一した。旧い日本は消えて、新しい日本が誕生した、ですから秀吉は新しい専制君主であり、それ故、日本は秀吉を頂点とする中央集権国と変じた。日本は最早、分権国ではない、と。
従って荘園制下にあった室町時代の日本と石高制下の桃山時代の日本は全く異なる、それは歴史の大きな節目である、と。―――その結果、研究者の方々は室町時代を中世、そして桃山時代を近世と処理したのです。
しかしそれも皮相的な見解です。石高制は歴史を画するほどの重要なことでしょうか。しかし(すでに述べましたが)土地制度は一つの歴史の中で幾度も変転するものであり、歴史を画する資格を持ちません。つまり石高制はたかだか土地制度、税制度の変更でしかないのです。
決定的なことですが石高制を制度化した秀吉はだからと言って全国の税を独り占めしたというわけではないのです。秀吉は自分の領国である近畿地方の田から上がる税をのみ徴収します。伊達氏は仙台の地から上がる税を得ます、そして島津氏は薩摩の地から上がる税だけをとる。
すなわち日本の課税権、徴税権は200名以上の封建領主たちに明確に分与されていたのです。秀吉は石高制を確立しましたが、国家権力(課税権や徴税権)を独占しませんでした。彼は伊達や島津の税を奪い取らない、伊達や島津の領地経営に介入しません。
秀吉は強者です、しかし彼は大名たちの領主権を尊重しており、それは典型的な分権統治です。<土地制度の日本統一>と<国家権力の集中>は別物です。つまり日本統一と日本征服は違うのです。土地制度が荘園制であろうと、石高制であろうとそんなことは国家体制に何の影響も与えない。制度の統一と国家体制の変革は別次元の話です。つまり桃山時代は分権制であり、室町時代と同じでした。
にもかかわらず、多くの研究者の方々は土地制度を変更したからと言ってそれを拡大解釈し、秀吉を強権の持ち主ととらえる、そして短絡的にその強権を集権化と結びつけ、秀吉を専制君主として祭り上げ、彼の大阪政権を中央政府と偽り、桃山時代の日本を中央集権国と騙る。それは実に粗っぽい印象判断です。
その結果、中世室町時代死亡説という曲説が生まれたのです。従って中世室町時代死亡説を唱える三つの中世論、400年説も800年説もそして500年説もすべて誤りです。国家の支配主体はいかなる諸制度にも優先している。このことは歴史学の基本です。