村自治 ---武士論を検証する(10)

 さて重要なことですが、武家による分割主義は最終的に自治体というものを日本にもたらしました。それは日本史上、画期的なことでした。それは江戸時代の村です。自治体の出現が重要事である理由はそこに現代版の<平等主義>が小規模ながら、そして不完全ながらも成立していたからです。それは現代社会に直結するものでした。
 大名は村を支配しています、それは古代以来の上下関係です。しかし大名は同時に村と双務契約を結んでいました。それは双方が対等な立場であったということです。それは主君と武士との関係と同じです。すなわち大名と村も(中世の)主従関係を築いていたのです。
 村は戦国時代において近隣の大名と双務契約を結びました。それは保護と年貢の交換です。大名は村を武士や悪党の襲撃から守り、安全を確保し、彼らの農耕を保障する。それは大名による保護です。一方、村は大名に年貢を毎年、納めて大名領国を経済的に支える。それは農民による保護です。この安全保障は農民の<成り立ち>を半分、もたらすものでした。
 残りの半分は桃山時代にもたらされます。秀吉が兵農分離を全国的に敢行し、村から武士を追放します。それまでは村に農民と武士は共に住んでいたからです。武士は皆、城下町へと移動しました。その結果、村は純粋に農民だけの住む場になります。さらに秀吉は太閤検地を断行し、農民一人一人に農地を与えました。それは農民の自立をもたらしました。
 農民は日本史上、初めて<成り立ち>ました。安全の確保と自立です。<武士の成り立ち>から300有余年、後のことでした。武士と農民との両者が<成り立つ>ことによって中世人のほとんどすべてが自立したのです。
 武士が成り立ち、素朴な分権統治が始まった時(鎌倉時代初期)が中世の始まりであるとすれば、武士だけではなく農民も成り立ち、分権統治が全国に広がり、<廃県置藩>が完成した時(桃山時代)が中世の確立期といえるでしょう。武家の日本支配が完成した時です。それは古代王朝の終焉の時でもあり、そして古代王が日本国の象徴と化した時です。
 それは武家が産声を上げた時から約400年後のことでした。すなわち日本史上、古代から中世への移行が全面的に完了し、武家が日本国の唯一の支配者となった。それは日本史にとっても武家にとっても画期的なことでした。
 農民の成り立ちは村の自立でもありました。村という自治体が誕生したのです。村は現代社会と同様、特権階級の生息しない場です。村には最早、武士はいません、そして村と双務契約を結ぶ大名も村自治を尊重し、村内部に介入しなかったからです。村は一種の治外法権の場となりました。村から上下関係が消えたのです、それは歴史的なことでした。その結果、村の住人はみな対等な立場となり、小型ながらも村は平等主義の成立する場となったのです。
 村の支配者は村法です。村法は村の憲法であり、村人の合意です。村法は農耕の手順や協力体制、年貢の納め方、近隣の村との付き合い方、農民の起こす悪事の取り締まりや処罰の方法などの合意事項から成ります。彼らは寄合を持ち、村法の下で村内の諸問題を討議し、そして解決する。そして物事は多数決で決められる。それは村自治であり、そして法治主義と民主政治の芽生えでした。
 村人は誠実さや自治精神を身につけることになります。誠実さは一朝一夕で手に入るものではありません。彼らは数世紀に渡り、大名との厳しい双務契約を履行する中で誠実さを身につけていったのです。契約義務(年貢の納入)を果たすことによって村の安全は保障されます。そのため彼らの前に現れる様々な困難、例えば日照りや長雨や悪意ある横槍、あるいは自己にとって不利な事態をも乗り越えて彼らは契約を果たしました。村人の精神は強く鍛えられたのです。
 同時に村人は自律を身につけます。彼らは村内の合意を得るため寄合を持ち、諸問題を自由に話し合います。というのは合意なしに村は先へと進みません。合意なしでは村が分裂してしまう。
 従って村人は主張もするが、<自制>もする。多数決の結果、敗れたとしてもその決まりに逆らわず、従う。彼らは個よりも公(おおやけ)を優先するという精神を身につけます。自治の精神であり、自律であり、そして自己抑制という強い精神です。自律は誠実さと並ぶ中世に培われた貴重な精神です。
 村は自由の地です。村の中には言論の自由があります。それは自治の特権です。それは中世西欧において都市の自治が出現し、都市の自由がもたらされたことと同じです。
 そして決定的なことですが、村自治や都市自治はやがて現代化革命を通じて<国自治>へと転じていきます。国自治とは民主政治のことです。それは国民が国法(憲法)の下、自ら国を運営することです。村人や市民が村や都市で自主的におこなってきた村の運営や都市の運営と基本は同じです。国自治は村自治や都市自治の拡大版といえます。ですから村は今日の法治国、日本の源であり、それ故、村自治の出現は実に歴史的なことであった。
 このように自治精神は自治体を数世紀に渡り、経験することで初めて手に入るものです。つまり現代の法治主義、そして民主政治は自治精神をもって初めて正常に機能する。言い換えればそうした中世の精神が無ければ法治主義や民主政治は正常に機能しないのです。それは非常に重要なことでした。
 尚、江戸時代の村が常に天国であったというわけではありません。村はしばしば地獄と化していました。大名が農民を虐げたからです。特に江戸時代後半において財政難に陥った大名は村との双務契約を破り、農民に重税を課しました。農民は農具を質入れしてまで飢えをしのいだ。
 中世人の<成り立ち>は不完全なものです。そうした権力の乱用は中世が武士という特権階級を抱える限り、そして上下関係が生息する限り、避けることのできないことでした。中世の世は依然として人治であり、しかし法治ではなかったからです。
 その点、<他者を認める>という中世の思想は中途半端なものであり、それが真の<他者を認める>となるには特権者がすべて消滅する現代を待たねばなりませんでした。すなわちその時が万民の<成り立つ>時であり、万民の平等の確立する時でした。(大名の圧政については別稿で説明します。)
―――(11)へ続きます

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