金村詩恩「『在日特権』『中韓の不都合な真実』…かつて“韓国人差別をしていた友人”に対面したときの話」を読んで
タイトルに「かつて“韓国人差別をしていた友人”に対面したときの話」とあるように、金村詩恩が先日公開したこのエッセイ、「『在日特権』『中韓の不都合な真実』…かつて“韓国人差別をしていた友人”に対面したときの話」は、その昔に、
そんな高校生であった人物との交感を骨子とするものである。なお、念のために紹介しておくと、書き手である金村詩恩は、著書『私のエッジから観ている風景 日本籍で、在日コリアンで』(ぶなのもり)も刊行するエッセイスト、ブロガーであり、『私のエッジから観ている風景』には、
とある(太字は引用者による)。
さて、繰り返すが、今回紹介する金村詩恩のエッセイは、かつてヘイターだった人物との交流を主軸とする文章である。表題にも選ばれているトピックなのであるから、読み手も、当然、そうした展開を予期して読むことになる。
だから、少し、戸惑う。
”本題”が、なかなかに始まらないのだ。
冒頭で、その昔にヘイターであった人物との最初の出会いについて触れたあと、「空港」にあった「源泉掛け流し」の「足湯」の話や、「上司」へのメールの話などが差し挟まれる。そしてその人物に会いに訪れた別府の地で「別府冷麺」を食したエピソードのところでは、
などと、述懐されてもいる。
以前から思っていた。金村は、とにかく日常を細やかに描く。些細なことでも、本題から多少は──場合によって大きく外れてしまうような出来事でも、あえて言えば執拗なほどに、日常を書き込もうとする作家なのだ。そして実は、金村の文章を読む際に最も大切なことの一つが、この、溢れんばかりの日常の描写をも丹念に読み込むことにある。
なぜか。
それは、例えば金村の会ったこの人物がかつてヘイト・スピーチを行っていたことも、そして今、この現在において、誰かがどこかで憎悪表現を口にしたり、電脳空間へと投稿したり、そうした行為をしていることも、すべては日常、誰もが生きている、この日常のなかで起きていることだからだ。
どこか、非現実的な抽象的空間、あるいは平べったいスマートフォンの画面の中ではなく、皆が息を吸い、飯を食い、怒り、喜び、起きては寝ているこの現実の日常において、すべては起こっている。差別も、それによって心を砕かれた人々の悲しみも、絶望も。
金村による日常の描き込みは、読み手の私に、こうしたことを意識させる。すると、例えば、金村が元ヘイターの人物に謝罪された際の以下の言葉に目を通して、私は思わず息を飲んでしまうのだ。
金村が、この言葉を、私も生きるこの日常のなかで発しているという事実。そして、金村をしてこの言葉を言わしめる日常が、確かにこの社会に存在するという現実。
あるいは、温泉で一緒になった見知らぬおじいいさんに「おクニは?」と聞かれた際の、以下の心中はどうか。
さらには、
この、「別にいいか。おなじ風呂に入っているひとたちで」という言葉の圧倒的な重さ。そして、民族性や国民性、あるいはクォーター、ハーフというステレオタイプの呪縛について、
と吐露する、その思いは……。
繰り返すが、これらの言葉、許しも逡巡も怒りも悲しみも、すべては日常、皆がこうして生きる、確かな、この日常のなかで抱かれ、発されたものである。それをひしと胸に感じながら読むだけで、金村の一つひとつの言葉もまた、よりいっそう具体的な輪郭をもって迫ってくることになるだろう。
自らの骨を筆として、自らの血によって刻まれた記憶。
私は金村の文章を、そのようなものとして読んでいる。