ラヴクラフト「銀の鍵」と「アウトサイダー」を聴いた

久しぶりに文章を書くと、対人意識が希薄なためか「~だ。~である。」という文体になりがちということに気づいた。
しばらく書いていると、「~です。~ます。」調になってくる。
こういう文体の不安定さは文章を書きなれてないからだろう。
絵を描き始めの人の絵柄が安定しないのと同じですね。
まあ、こだわるなや。

ラヴクラフト作、「銀の鍵」と「アウトサイダー」を聴きました。
これは小説ですが、朗読動画で聞いたので読んではいません。
その2者の間でどんな違いが生じているかはわかりませんが、
なんとなく体験として違うものだなという気はする。
とにかく、私は聴いた。その感想を記します。
ネタバレを含みます

H.P.ラヴクラフトと言えば言わずと知れた「クトゥルフ神話」の創始者であり、これについて私はあまりよく知らないのですが、彼の作品群に共通する世界観を指してそう呼ばれている…のかなと思っている。
一番有名な作品と言えば「狂気の山脈にて」で、実際私もこれを含む他の作品をいくつか…「這いよる混沌ニャルラトホテプ」「ダゴン」「天蓋から」「ピックマンの」…以下略、聴いたのだけれど、このラヴクラフト作品に引き込まれたのは「狂気の山脈」の面白さで、以降どれも面白く聴いたのだが、上に挙げる2作「銀の鍵」と「アウトサイダー」が最も好きだったので、これについて書くことにする。
余談だが、「這い寄れニャル子さん」というアニメの名を聞いたことがあったが、これが上述のニャルラトホテプをパロディしていると、この度初めて知った。今更ながらクトゥルフ人気の高さを表す事象である。

ラヴクラフト有識者の方であれば、この二作が好きというのを聞いて「こいつ陰キャだな~」と思われるかもしれない。(そうだよ)
内容がそういった人物には非常に刺さるものとなっているのだ。

「銀の鍵」では、ある空想好きだった少年が大人になって、社会や生活の現実に揉まれた挙句にその空想を失ってしまった悲劇が描かれます。
彼はその自分の空想の美しさから、現実にそれ以上の価値を何ら見いだせず、しかし社会からの要求に応えるべく自らその空想世界を封印してしまったのです。
空想の優美さに比して現実や人間社会の空虚さ見苦しさが、ラヴクラフトによってかなり痛烈に描写されており、これはかなり情感が籠っております。
シーンというより本編大部分が独白による現実批判、社会批判、人間批判、宗教批判に当てられており、現実社会で勝手に疎外感を感じ生きている読者(私)にはこれが痛快であり慰めであります。
主人公の彼は空想と社会の折り合いを付けようと執筆活動を始め、その自身の空想を現代的に笑い飛ばして小説に著し大ヒットとなるんですが、彼にとっては洗練した結果もはや生命を失ったそれを見て、「頭が空っぽな下層民にウケるためにはどれほど空虚なものでなければならないか」を理解し、筆を折るという一幕があります。ははは。
自分も小説家なのに、ラヴクラフトさんはこんなこと書いていいんでしょうか。
自分は空虚なものなど書いていないという自信からこういうことさえ書いてしまえるのでしょうか。
それとも本気で心の奥で思っていることを書いてしまったのでしょうか。
晩年彼は何とか過去の空想を取り戻そうとした結果、夢に見た祖父に教えられ、先祖伝来の「銀の鍵」のありかを知ります。
そして執事?の協力のもとこの箱を開け、鍵の力で彼は生涯こがれ続けた幼年期へ戻っていくのです。
現実世界でそのまま行方不明となってしまった主人公ですが、
鍵の箱を開けた影響で彼の空想世界を共有するようになった執事が最後に、
その空想世界のある国に、新たな王が即位したという噂を聞いた…と語って物語は終わります。
このラストが自分はとても好きです。なんか全部報われた感じがするし、噂に伝え聞くってのが最高ですよね。彼は遠くへ行けたんだって感じがして。
誰しも空想世界の王になりたいものだ。いや本来誰しも自分の空想世界の王だったのかもしれない。
最近流行りの異世界転生ものとかは私は詳しくないですが、こういうファンタジーのすばらしさをある種体現しているから多くの支持を受けているのかな。
唯一つ引っかかる点を挙げるとするなら、この彼の空想世界というのは先祖伝来の鍵によって入り込める実在の異世界とも考えられるのかなということ。
それだと彼の思い描いた空想というより、幼少期に一度鍵の影響を受けたことによって垣間見るようになった世界ということだから、自分だけの想像力の産物って感じではないですね。
私は小説を聴いただけでいわゆる神話体系的な位置づけをよく知らないので、この彼の到達した世界がどういう設定なのかわかりませんが…どちらにせよ、好きな小説でした。

もう一つの「アウトサイダー」は、謎の古城に閉じ込められているように住む主人公が、外の世界を見たくて塔を登るというお話です。
暗くてなんもねえ遺跡のような死んだ城に、いつからか一人で住んでた主人公は本で得た知識から外の世界を見てみたいと思い、敷地に建っている高い朽ち果てた塔を登ります。
そこを登っていけば世界があるという気がするのです。
真っ暗でボロボロな塔を登るのは大変なことですが、彼は「美しいものをこの目で見る」ということを心に決めて登り続けます。
困難にぶち当たると、どうしていつも僕は美しいものに手が届かないのだろう、と思いながら。
そして登り切った先にあったのは…

本作もまたタイトルからわかる通り、疎外されたものの心情を描いたお話であり、非常にシンプルながらそれゆえに鋭い。
主人公の年齢はわからないが、「銀の鍵」の枯れ具合に比してよりティーンチックな純粋さやいたいけさを感じた。
radioheadのCreepに近い読み味と言えば伝わりやすいだろうか。

私は実際聴いてみるまでラヴクラフトに興味はあったものの、「神話」とか言うからなんだか難しそうな印象を持っていた。
しかし「狂気の山脈」は確かに神話的な荘厳さ、いわゆる「宇宙的恐怖」を十分に体現しながらもその面白さによってぐいぐい引き込まれるものだったし、今回お話する2作は神話体系的位置づけと関係なく感情的に楽しめるものであった。
ラヴクラフト、クトゥルフ神話というと、そこに登場する神や生物、また及ばないものを前にした人間の狂気というものが良く聞こえてくるように思うのですが、真骨頂はこの疎外者の心理描写ではないだろうか…などと思う。
最近芥川龍之介の「舞踏会」という短編を読んだのですが、これが鹿鳴館を舞台にした一夜の青春胸キュンストーリーでして、詳しくないですが芥川龍之介らしからぬ瑞々しい一作でした。
これはWikipediaソースの三島由紀夫の談ですが、芥川の純粋の最高傑作はこの「舞踏会」ではないかということ。こういう才能がありながら、皮肉屋の仮面がなければ彼は世間を渡れなかったのではないか、というようなことが書いてあった。
同じようにラヴクラフトも…あるいは多くの作家がそうなのかもしれないが、一番光る部分むき出しだけでは人口に膾炙せず、刀に柄が必要なように、付随するもっと手に取りやすい部分があって初めて世間に受け入れられるということがあるのかもしれない。
実際漫画家とかでも、ほんとはギャグやりてえんだけどホラーを求められる、とか、一番描きたいもので芽が出なくて、ひょんなことからそういえばこういうのも好きだったな…と描いてみたらハマったとか、そういう話も聞かないではない。
やりたい事、できること、求められること、色々あるし、人の才能も一つじゃないから、どれがその人の芯で本質かというのは客観的に断定することはできないと思うし、場合によっては本人にもわからないものかもしれないが、ともかくそういう作家の作家性と作品性の議論というのは割とカオス。
運と必然のいたずら。
ちょっと何言ってんのか分らなくなってきた。

ではまた。

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