ゲンバノミライ(仮) 第6話 鳶の石川親方
朝は晴れ間が見えてきたが、昼前からだんだんと空が暗くなり、先ほどからぱらぱらと雪が降ってきた。
こんな寒い中、ほんと嫌だよな・・・
石川浩介の周りから、そんなぼやき声が耳に入ってきた。
確かに寒いけれど、もっと北にある石川の故郷で、この程度でしばれるなんて言ったら、「何言ってるんだ!」と馬鹿にされる。だが、この子たちは、南の地域から応援に来ていた。感覚が違うのは致し方ない。
「おい、午後の作業を始めるぞ。雪がぱらついてきたから、朝より気温が下がるだろう。ベストとか防寒具のヒーターのバッテリーは確認したか?寒くないように頼むぞ!」
そう呼び掛けると、「はい!」「おう!」っという威勢の良い返事が返ってきた。何だかんだ頼もしい。
午後から、裏手側の足場解体が始まる予定だった。埋設管を切り回すためのバックホウでの掘削作業もある。高所作業と重機作業は、何度やっても油断ならない。天気予報通りに雪が降ってきたが、来週からの作業を考えると、今日のうちにある程度のめどは立てておきたい。
予定通り進めることは、昼休み時間中に現場監督の中西好子に相談して、了解を得ている。
午後も、気を引き締めていこう。
石川は、この国がものすごいスピードで経済成長している時期に高校を卒業して、鳶(とび)の職人になった。同級生の友人の兄が鳶職人で、給料が高いと聞いていたからだ。誘われた友人と二人でその会社に入って、見習いから仕事を始めた。
現場の職人というのは体を動かすだけかと思っていたら、作業手順や安全ルールなどが細かく決まっていて、頭を使う場面が多く、そのことが却って面白かった。友人は早々に挫折して辞めていったが、石川は先輩たちに可愛がられ、大きな現場にも出してもらえるようになった。名の知れたゼネコンの現場で、全国的に仕事をしている鳶・土工会社の親方に目を掛けてもらい、「うちに来て、大きな仕事をやってみないか」と誘われた。それが今の会社だ。
石川は不器用だったが地道に努力を続けた。下っ端を卒業すると、小さなグループを任されるようになり、次第に大きな現場対応ばかりになって、中核を担う職長へと育っていった。名刺では部長だし、登録基幹技能者やゼネコンのマイスターなど資格や肩書きが増えた。自分を引き抜いた親方は、社長として全国を駆けずり回っている。
あの災害の日、石川は南の地域の現場にいた。遠く離れていたため災害のことはまったく知らず、夕方に詰め所に上がったときにテレビを付けて、恐ろしい光景に驚愕した。その惨状が徐々に明らかになるにつれ、自分たちは被災地に向かうだろうという気持ちが強まっていった。
社長は、発災直後からゼネコンとそうした話をしていた。被災地に近い都会の職人たちはすぐに応援に入った。
だが石川は、今の現場が終わらなければ身動きができなかった。そのことが歯がゆかった。
がれきの山に立ち向かう自衛隊の姿をニュースで目にした。社長に、「なんで俺たちがやらないんですか!」とかみついたら、実際には建設会社が先頭に立って重機を動かすケースも多いようだった。自衛隊だけの活躍のように報じられるのが悔しく思ったが、どう見られるのかよりも、どう動くかが大事だ。
実際に復興の現場に向かったのは、災害から3年目の春だった。希望が叶ったというよりは、被災地の現場がきつくなってきて、石川が投入されたというのが本当のところだった。
石川の会社に限らず、建設業では現場で働く人間がどんどん少なくなってきている。被災地の各地で進む大規模な復興工事を、限られた人員でしっかりと進めなければいけない。ベテランの作業員から、石川のような生きの良い職長クラス、これからを担ってもらう若手。どの層も危険水域の状態になりつつあった。
石川は怒鳴られて育ったが、大声で𠮟りつけるような指導方法では、育つ前に辞めてしまう。そういう時代になっていた。かと言って優しく教えてだれもが一人前に育つほど職人の世界は甘くない。
どうしたら良いのか分からなかった。そういう時は、考えても仕方がない。
被災地は激務だという噂だった。家族にもそう伝えた。妻は「あなたの活躍の機会じゃない」と笑顔で見送ってくれた。本当に頭が下がる。
妻も会社勤めを続けていて、転勤で2年ほど家を離れたことがある。あの時は、子どもの食事や洗濯など家事と仕事に追いまくられて、パンクしそうになった。でも、子どもたちとの時間は幸せだった。
あの頃は母親がいないと泣き叫んでいた子どもたちも、ずいぶんと大きくなった。石川が出発する時には、「お父さん、しっかり稼いできてね」と言われる始末だった。
そういう家族に囲まれているから、被災地で思い切り働くことができた。
もしも自分たちが被災していたら、どうなっていたのだろう。
そんなことを思う時もある。
その時には、同じように全国で働く技能労働者の仲間たちがきっと助けてくれるはずだ。
だから、自分もやるのだ。
石川が入った復興の現場では、建物本体の鉄筋や型枠の組み立てが本格化していて、これから作業が始まる場所の足場構築や終わった部分の解体などが同時並行で進んでいた。雪で思うように進行しないこともあり、一つの作業のずれが全体にじわじわと影響するような状況がずっと続いている。元請けゼネコンの監督たちも余裕がなくなっているのは、その表情から伝わってきた。
石川たちの作業もギリギリの状態に近かったが、こまめに現場を回って、自分の頭で先行きを想像しながら、どの作業にいつ誰を充てるかを采配していた。石川の読みは的確で、足場の後に続くほかの作業に迷惑を掛けることなく仕事を進めていった。
そうした現場回りの際にはできるだけ、もう一人連れて行くように心がけた。
今日は、昼休みに寒いとかぶつくさ文句を言っていた高野守を選んだ。
「職人は、自分のやっていることだけを見ていては駄目だ。足場っていうのは、鉄筋屋とか大工とかが作業する舞台なんだよ。踊るのはあいつらだ。あいつらをきれいに躍らせるために、どんな舞台が必要かを考えるのが大事なんだ。
腕のいい大工とかは、そういうことをしっかりと分かってるから、いい足場を作る鳶には一目置いている。口に出さないけどな」
「そういうものっすか」
「あいつらだって、自分らが作った建物とか橋とかが、そこを利用する人たちにとっての舞台だって知ってるんだよ。次に渡す相手のために仕事をしてるんだ。
それは、回り回って自分とか家族とか、お前だと故郷にいる彼女とかが使うんだよ。デートに行ってしょぼくれていたら嫌だろ」
「そうっすよね。誰がこんなの造ったんだよって突っ込んじゃいますよ」
「だろ。それって、もしかしたら、筋の悪い鳶がいい加減な足場を作ったせいかもしれないんだ」
「確かに。そうれだったら、もっと腕上げろよって、思っちゃうっすよ」
「だからな、自分の仕事をちゃんとやるのは当然だし、それだけじゃなく、周りがどうなってるのかを観察するんだよ。次はあそこに足場がいるなとか、あの計画じゃちょっと足りないかもなとか、そういうのを考えるんだよ」
「難しいっすね。できんのかな、俺に」
「俺でもできるんだから大丈夫だよ。頼むぞ」
毎回、同じようなやり取りをする。高野にこういう話をするのは、もう10回以上だろう。どこまで分かってくれているかは心もとないが、根気よく若手をもり立てていくのも自分の仕事だ。
思えば、自分も何度も失敗して怒鳴られてはいた。そういう日は、仕事上がりに飲みに連れて行かれて、「石川だったらできるって」と鼓舞されていた。あの頃の自分を教えることを考えたら、楽な物だ。
感染症のせいで若手と飲み歩けないのがもどかしいが、今の若手たちは、そもそも誘っても付いてこない。高野は、宿舎に帰るとスマートフォンで世界の仲間とつながって話しているらしい。どういうことか何度聞いても石川には理解できないが、そういう楽しみがあるから不便さが強いられる被災地での仕事でも我慢できると言っていた。
「感染症が落ち着いたら、1年くらいかけて、世界を旅したいっすよ」
「世界旅行か、すごいな。俺なんかからしたら、ちょっと怖いけどな」
「全然問題ないっすよ。スマホがあれば通訳してくれるし、最新のスマートグラスなら、文字と音声で同時に翻訳してくれるから、何なら仕事もできるって、海外にいる仲間が言ってたっす」
「じゃあ、鳶の仕事しながら、旅行すればいいじゃないか」
「そうか、そういうのもありっすね!世界を股にかける鳶職人か。恰好いいっすね。俺、頑張っちゃいますよ!」
素直というか、単純というか。高野は満面の笑みで、そう応じた。
職人が腕だけで世界を旅しながら仕事をしたいと思えるなんて、すごい時代だ。
頑張るためのスイッチは人によって全然違う。それでいい。
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