母がくれたもの
平均寿命よりもずっと手前で逝ってしまった母。
ここ京都の洛北で季節ごとに咲き誇る花々を見るたびに、北海道 函館のわが家の庭で若き母が丹精込めて育てていた“花園”を思い出します。
今、目の前に咲いている花が、60年近く前に眺めていた花と重なって、懐かしさと切なさで胸がいっぱいになります。
短い夏を彩るバラやナデシコやマリーゴールドに続いて、秋のダリアやコスモス。
何故か思い出すのは、私が4、5歳くらいの場面ばかり。
母が一つ一つ教えてくれる植物の名前を復唱するうちに、形状や色、その季節の陽射しや温度感、そして香りが混然一体となって記憶に刻まれたからだと思っています。
(語学の習得がまさにこれで、「音」「形」「意味」が脳のシナプスでつながったとき、記憶が定着しやすいと言われています。そこに嗅覚などへの刺激が伴うと、より強固に記憶されます。)
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大学進学を機に函館を離れて、そのまま神戸・大阪で社会人として働くうちに、花を眺めて心を潤す余裕すら無くしていました。
若き日の私は、必要な知識や技能を身につけること、より自分に合う仕事を求めて転職すること、生活や奨学金返済や大学院の学費のために働くこと、習得したものを仕事に還元することで頭がいっぱいでした。
そうして長い年月が流れました。
自己の成長(と信じていたもの)は、同時に心身の消耗であり、魂の曇りであったかもしれません。
私が44歳のとき、恩返しどころか、最期に感謝の言葉すら伝えられないまま逝ってしまった母。
その事実から逃避するように、再び仕事という大義名分と、自分の都合だけで生きてきた日々。
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記憶の底に沈んでいた 母の“花園”を思い出すようになったのは、10年ほど前に京都に転居してからです。
賀茂川に近い心地よい環境での暮らし、「勤め人」としてのゴールにふさわしい職場を得たことは幸運でした。
とは言うものの、仕事量(授業のコマ数)も多く、数値で成果を問われるものでしたし、母を失ってからの後悔と自責の念は続いていました。
ある日突然「レース編みがしたい」という衝動に駆られたのは、この頃のことです。
過去の記事で綴った際には触れませんでしたが、あれは母が促してくれたのだと信じています。
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さらに年月が流れ、退職した今、遅きに失して傷んでしまった身体を修復しながら(ミラクルを信じて)、魂の曇りの払拭が叶うよう、一日一日を大切に過ごしています。
母が生きていた年月から遠ざかれば遠ざかるほど、思い出は薄れるどころかより鮮明に濃密になり、季節ごとに蘇ってきます。
植物のエネルギーを絶えず受け取ることができるこの場所へ導いてくれたのも母ではないかと思っています。
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note を始めて約5カ月が経ちました。
多くの方の記事を読ませて頂いて、美しい文体や画像に感動したり、
考え方に心から共感したり、
悲しさや苦しさの吐露に自分の経験を重ねたり、
知らない世界にワクワクしたり、
知識が増えて嬉しくなったり、
ウィットに富んだ表現に思わず笑ったり…
こころのストレッチをさせて頂いています。
また、脈絡のない拙記事を読んでくださる方々にも感謝でいっぱいです。
ありがとうございます。
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