須賀敦子との出会い
アッシジでフランチェスコという聖人を知った日は私の30才の誕生日だった。マルタから北上してオランダまで行く3か月の旅の途中だった。当時はイタリアが最も興味がなく、お目当てはヴィム・ヴェンダースの映画で舞台になったドイツとオランダだった。イタリアなんて、ブランド好きな日本人が行く流行りのトコでしょ、と思っていた。無知だったのだ。
結局イタリアが一番好きな国になって帰国することになるのだが、もちろんイタリア語なんて全く分からない。情報は『地球の歩き方』アッシジのページのみ。早く帰国してフランチェスコについて調べたい。何した人なの?日本でも有名なの?せっかく現地にいるのにボンヤリとしか分からない。バジリカのお土産コーナーに日本語の写真集があったり、日本人向けのパンフレットはあったので少しは分かる。でも私が知りたいのは世界での、また日本での知名度や位置づけみたいなところと、聖人そのものの扱いというか…聖人とはキリスト教にとってどういう存在なのか、という、細部ではないところ。
今はこうやってなんとか言葉にできるけど、あの時は自分が何を知りたいのかも分からず、フランチェスコがすごく気になるけど疎外感ばかりが強くてじっと佇むしかなかった。さらに言えばアッシジに来るまでに見たイタリアとマルタだけでも、キリスト教の存在が思ったより幅をきかせていて、宗教なんて考えたこともなかった私は自分のあまりの無知さに困っていた。キリスト教を知らなかったらヨーロッパを旅しても何も得られないんじゃないかと。お金と時間の無駄じゃないかと。
とりあえずせっかく仕事を辞めてまで旅してるんだから、最後まで計画通りに行こうと思って(それでもアッシジには2週間も滞在したのだが)、そわそわしながらアムステルダムまで行って、帰りのチケットをちょっと早めて、帰国した。
さっそく図書館へ。フランチェスコは、ものすごく、有名だった。
アッシジはフランシスコ会の総本山。わお!そうか!フランシスコ会のフランシスコね!自分の頭の回転が悪いことは知っていたがほんとに…という嘆きを傍らに置いといて、それは後で考えることにして、調べていく。
しかし資料が少ない。地元の図書館にあったフランチェスコの本は2、3冊。そして検索すると必ず「須賀敦子」という女の人が出てくる。
なにこの人。
何回か無視していたのだが、他にフランチェスコに関する資料がないため本を借りてみた。『ミラノ 霧の風景』。素敵だった。記憶を頼りに紡いだ文章。自分の感覚に正直に、当時思ったこと、今思うこと。私の知らない街の、知らない時代の話。たちまち須賀敦子の世界に取り込まれ、のめりこんだ。はじめはエッセイだと思って読んでいた。なのでところどころ虚構が混ざっていると知った時は少しがっかりした。でも少しだけ。嘘がまじっていると言われても、あの誰もが「瑞々しい」と評する文章の魅力は変わらない。
何回か読んでいるうちに、自分が内容を本当には理解していないことに気付いた。再読するごとに新事実が現れる。こういう作家はもう一人いて、それは村上春樹だ。その世界に入ってしまうと気持ちよくて、ついメロディに酔うような感覚で読み進めてしまう。須賀敦子の芯にあるのはカトリックなのに、それに気づくのが遅れたのはそのためだ。あと須賀敦子がカトリックを前面に出していないのも理由のひとつ。注意深く読むと、静かで優しい文章の奥に、強い信仰心と、それによる野心、焦燥、もがき、など、熱いものがたぎっていることが分かる。
須賀敦子については後に入った通信制大学の卒論のテーマにするほどの熱の入れよう。未だつかみきれてませんが。
その次の年に、今度は3か月、アッシジに滞在した。語学学校に入って、アパートを紹介してもらって、そしてシスター(の卵)との出会い。
シスターは須賀敦子を知らなかった。「どういう方ですか?」
イタリアに日本文学を紹介した人で、戦後にカトリック左派と呼ばれた団体に属してて…「ふーん。」
ものすごい違和感。シスターにとって須賀敦子は他人なのだ。それどころかカトリックの歴史の細部なんてあまり関心がない。シスターにとって大切なのは今の信仰。シスターとして今、自分に何ができるか。キリストとの婚姻、とまで言っていたような。
この時の違和感は帰国後にはっきりと言葉にされた。
「信仰と宗教を学ぶことは全く違いますね。」
3か月のアッシジ滞在の後、私は帰国して通信制の大学に入学した。宗教科というのがなかったので、哲学科。そして隣の県のカトリック教会にフランシスコ会の在世会があることを知り、車を2時間とばして行ってきた。そこで神父さんに上の言葉を言われたのだ。ちょっと困った顔で。だからといって悪いことではないですよ、教会にもいつでもいらしてくださいと、神父さんは言ってくれた。
信仰と宗教を学ぶことは違う。そりゃそうだ。ちょっと考えれば分かることだ。私の考えはいつも浅い。しかしもう入学してしまった。そしてどうやら私の興味は信仰の前に宗教みたいだし(そしてこの選択も少しズレていたことに気付くのは実際に大学の勉強が始まってからのこと)。