Hachi-Bey
例年より頻繁に出現するカメムシを見つけるたびに頭によぎる「カメムシが多い年は豪雪」仮説を無視し続けていたものの、そうはいってもやはり身体は正直であり、一晩にしてバカ雪が積もった日の翌朝、路肩の雪壁に「クッ」つって擦ったと思ったその瞬間に私のノート・イー・パワーのハンドルはただの飾りとなってしまい、キュルキュルとアイスバーンの上で滑りながら「死んでしまう!」とハンドルを右に左に切りまくって「対向車がいたら逝ってた!」と、奇跡的に無傷な車の中で胸を撫で下ろしたところ、その日の昼過ぎに祖父が逝った。大往生だった。
数十万払ってあげてもらっているお経をBGMにM-1の敗者復活戦の動向を予想しながら、歳を重ねるにつれて人の生き死にに鈍感になるのを痛感していると、金属音が2,3発なったところで数十万のBGMが止み、「『倍返しだ!』ではないですけれども、えぇ、昨年の分まで降ってきたような雪で、えぇ、ニュースでは『高速道路では立ち往生が…』なんてぇ話題も聞かれまして、えぇ、そもそもこの『立ち往生』といいますものは元々は仏教用語でございまして、時は遡ること平安は末期、武蔵坊弁慶が…」と始まった。
私は古典落語の「…といいますのは、人間生きていれば誰もが通る道でございまして、『へい旦那!』『おっ、八兵衛じゃねえか』…」というような、「導入から急に演題の内容に入る瞬間」が好きで、今回の坊さんも同様の手法をとってきたため非常に興味深くお話を聞いていたところ、なんとなくオチの着地がしっくり来なくてかなりムズムズしてしまったけれど、帰りの車で立川志の輔の名題目「死神」を40分かけて再度視聴したおかげで気持ちよくなることができた。人生は、そういうもんなのである。
パワハラやモラハラ、アルハラなどのハラスメントや働き方改革などの最近の社会に対する考え方の変化には「目に見えないよくわからないものを排斥しようとする」思いがあるような気がしており、つまるところなんとなくでやってきたことの意義を再考してスマートに効率よくしていこうという思考が主流となったために、今回のコロナ騒動において「飲み会や長時間の対面会議の意義が見直されるようになった」ことが、コロナがもたらした唯一のメリットとしてあげられたりする。
そう考えると葬儀の類いもいずれ失われていくのではないかと思ったが、昔なんかのサイトだかテレビだかで耳にした「葬儀は故人の成仏だけでなく、遺族の心の安定のためにもなんたら」という情報にその心配はかき消され、そもそもそこまで心配はしていないことに気付いたところで、敗者復活戦の勝者はインディアンスに決まった。インディアンスはそこまで好きじゃない。
天国や地獄を信じているわけではないけれど、目に見えないものとか不確定なものを「信じる」ことは良くも悪くも大きな力を持っていて、「死んだじいさんがきっと応援しているはずだ」と信じれば少しだけ力が湧いてくる気がするし、かに座が1位だった今朝の占いを信じればなんとなく足取りが軽くなる気がする一方で、人が傷つけられる原因というか根っこの部分には「信じていたのに」があることが多い。でも、信じることで人生が豊かになるのは確かな気がする。
趣味やこだわりにも同じことが言えるような気がしていて、趣味やこだわりが無いことがコンプレックスの私にとって、アイドルの追っかけとかミュージシャンのファン、毎日決まって筋トレをしている人が、全くの皮肉なしに羨ましいのであるが、それはきっとその人たちの「何かを信じてやまないスタンス」に憧れているのだと思っていて、それは、「人はどこか盲目的に生きていた方が豊かな人生を送っていける」と勝手に決めつけている節があるからである。
しかしながら、その豊かに生きるための盲目さというか貪欲さというか野性的な思想みたいなものはもう自分にはもつことができないと諦めている節があり、それは何か自分にどハマりするような魅力的なものにこれまで出会ったことがないからではなく(そうかもしれないが)、ハマりうるようなものに出会ったときにいわゆる「○○が好きな自分が好きなのでは?」となり、途端に冷めてしまうからだと思っている。俗に言う「生きづらい人」である。
「嫌われる勇気」みたいな本がバカ売れすることからも分かるように、今世間でよく耳にする「生きづらさ」というものはつまるところ「考えすぎ」とか「気の使いすぎ」に起因すると思っており、自分も考えすぎてしまう方だと思うが、もう生きづらいだの思うことはほぼ無くなった。というより、自分で生きづらさを訴えることがかなりキモくなってきたのかもしれない。
「シャワー中に絶対に後ろに人がいるなんて思ってはいけないよ」という都市伝説があるが、そんなことを聞かされたらむしろ、シャワー中の脳みその中は背後にいる人のことでいっぱいになってしまうわけであり、考えすぎてしまう人に「考えすぎない方が人生楽しいよ」と言ったところで、その人は今度考えすぎないことを考えすぎることとなり更に大変なことになってしまうから、何を言いたいかと言うと人の話や自己啓発本は都合のいいところだけ聞いたり目を通したりして、信じたいことだけ信じればいいということである。
何はともあれ、じいさんは死んで、マジカルラブリーの優勝でM-1は幕を閉じた。じいさんが死んだ翌週には姪っ子が産まれ、「生まれ変わりだね」だの持て囃されていたが、子どもはいつも大人の手のひらで転がされている。でもそういうことをどう思おうが、人生はそういうもんなのである。大抵のことは、どうでもいい。
葬儀の後に立ち寄ったすき家では、「すき家レディオ」というやたらいい声の兄ちゃんがMCを務めるラジオ風の店内放送が流れていた。その兄ちゃんが「私事ですが、先日結婚しました!これからも私たち家族と、すき家をよろしくお願いします」みたいなことを言っていた。あまりにも私事すぎる、と思った。
でも、人生はそういうもんなのである。大抵のことは、どうでもいい。