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5月某日 学ぶ理由を比較検討してみた
何のために勉強するのか、についてもう少し深く考えてみることにした。自分だけでなく、身近な例として夫の勉強動機からアプローチしてみる。
夫は私が出会ったときから勉強に励んでいた。仕事に関わるものではなく、自分の興味ある分野を選んで学んでいる。なぜ勉強したいと思ったのか、と聞いてみた。
――3.11があって、自分もいつか死ぬんだと考えたときに、やりたいことの1つが勉強だった。したいときにできなかったという記憶が無意識にあったのかもしれない。けど、なぜという答えはわからない。勉強したかったからしている、それだけ。強いて言うなら欲があったんじゃないか。食欲とかと同じ、知識欲が。
以上が夫の回答(要約)である。"知識欲"という言葉が出てきて、私は「おや?」と思った。知識欲なら私にもある。だが、彼の言う"知識欲"とは少し違う気がした。なぜなら、興味の幅がまるで違うからである。
彼の興味は主に、経営や経済、法律など、社会が回る仕組み、世の中のルールにある。そのことを指摘すると、社会に興味があるのは確かだと認めた。彼の"知識欲"は、社会規範に対して働くもののようだ。
私はと言うと、文学や歴史、言語など人間の創作物に興味がある。そのものが好きなのではなく、背後にいる人間の思想を分析するのが好きなのである。社会規範にもある程度興味はあるが、どのように社会が回っているかというより、なぜその仕組みができあがったのかが気になる。つまりは、社会や文化を形作る人間の方に興味があるのだ。
私が勉強したいのは、思想をより正確に読み取るためであり、さらにはなぜそのような思想になるのか思索するためである。そういえば答えのない問題についてぐるぐる考えるのが好きだった、と思い出す。私にとって知識や思想は思索の材料に過ぎないのだ。
このように、比較すると自分の立ち位置が見えてくる。同じ「勉強が好き」でも、向かうところや動機が全然違っているのが大変面白かった。勉強や読書をしている、もしくはしていた人の話を聞いてみたい、という思いが強くなった。身近な人でこれなのだ、きっともっと面白いに違いない。問題は、私の思索の材料になってもいいという人が存在するかがわからないということである。いるかなあ、そんな希有な人……。