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「マトリックス」って…?

いまの世界を見ているとつくづく「たが」が外れたんだなぁと思います。
DSとか、カバールとか呼ばれる人たちはまさしく、これまでの世界の体裁を保つ「たが」の役割を果たしてきたんだなぁ、と…。
でも、たぶんこんなこと、感じてるのは私だけなんだろうなぁ。
私独自の世界観なんて、特段、誰とも共有したくはないけれど。
せっかくなので今日は、これまでの世界の、私なりのイメージを言葉にしてみようと思います。

私はスピリチュアルな生きかたに目覚めて以降、私が体験しているこの現実は、私自身がつくっていると感じていて。
同時に、私以外のあらゆる存在たちもみな私同様、自分の現実をせっせとつくり出し続けていると信じています。
そして、ときには同一の環境を共有し、お互いがお互いの現実に登場し合ったりもする。
そうやって私たちは、自分がつくり出す現実に取り巻かれ、関わり合いながら生きているわけです。
ちなみに、私たちがつくっている現実とは、自らの五感を通じて感じ取れる範囲のことで。
ですから視線を移せば、移した先の現実ができ、それまで見ていた現実は消える。
このようなメカニズムで、誰もが常に「いまここ」をつくり出し続けることによって生きているのが、この世界だと私は考えているわけです。

ところがこの考えかただと、各人の現実は別個に、それぞれ存在しているだけになるので。
重なり合うことはあっても、互いの現実と現実のあいだを埋めるものは、何もないことになるわけです。
表現するのが難しいんですけど、時間にも空間にも縛られず、それぞれ存在だけがある状態ですよね。
そこで、私たちの現実の背後にさらに1レイヤー、背景となるものをプラスしたのがDSだと私はイメージしているんです。
つまり、私たち一人ひとりの現実に座標を与え、彼らがでっちあげた地図の中にマッピングしてしまったわけです。
それによって私たちは、「概念」という名の、閉じられたフィールドの中に押し込められてしまった。
これぞ「マトリックス」ですよねぇ。
時間と空間によって組み上げられた「三次元」という名のマトリックスの中に、私たちはこれまで、そうとは知らずに生かされてきたわけです。
伝わりますかねぇ?
これによって、私たちの現実創造は、DSのでっちあげた地図の中だけに限定されたものとなり。
DSサイドに取って、様々な操作がしやすい環境が整ってしまった。
そこから先はもう彼らのやりたい放題で、私たちの人生は常に不足感にさいなまれるよう、意図的にコントロールされ続けてきたんです。

ところがここに来てDSたちの力が弱まり、そのコントロールが解けてきた。
と同時に、私たちの現実をマッピングしていたピンも、緩んできて…。
いまや、力すら入れる必要もないくらい、カンタンに抜けるようになっています。
だから、冒頭の「たが」が緩んできたなぁ、って感想につながるわけです。
もはや、メディアもマッピングを強化し続ける役割を果たせなくなってきてるし、裏金を際限なく着服してきたことがバレてしまった政治家や官僚の言うことなど誰も聞かなくなっている。
ほら、三次元の現実をつなぎ止める「たが」が、ギシギシと音を立てて浮いてきてるのを感じませんか?
崩壊は、もうすぐそこまでやってきていて、それを止めることはもはや誰にも不可能なんです。
恐れようと、恐れまいと、私たちは新しい、よりよい未来に向かって進み続けています。
もう大丈夫、安心してください。
安心して、ゆっくりでもいい、この変化を受け入れてください。
私たちは、本来の私たちへと戻ろうとしているだけなんですから…。

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