“焦り”と共存する
今朝、常に私の中に“漠然とした焦り”があることに気付いた。
どんな焦りかというと「お金が尽きて、食べるものがなくなって、死んじゃったらどうしよう?」などという、いかにもステレオタイプなもので。
イメージで言えば「道を歩いていて力尽き、その場に倒れてこと切れる」みたいな、“マッチ売りの少女”や“フランダースの犬”的世界観だ。
これって私だけでなく、多くの人が共通して持っているものなのではないだろうか。
言ってみれば、この世の支配者たちが、教育によって一律に刷り込んだ不安・恐怖と言っていい。
私はいま仕事をしておらず、預貯金を切り崩して生活しているので、不安・恐怖が「早くどうにかしなきゃ」という“焦り”へと発展してしまっているのだろう。
でもね、おもしろいなぁと思うのは、いつも同じ焦りが存在しているはずなのに、気分はその時どきで違うこと。
つまり私、焦りにフォーカスしてるときと、してないときがあって。
してないときには、それなりに気分よく過ごせてるってことなのよね。
ところが何かの拍子で意識が未来に飛んでしまうと、なぜか「貯金がなくなって道端で力尽きている私」がクローズアップされて、似たような未来が来ることしか考えられなくなっちゃう。
で、そうなりたくないから、余計に焦るでしょ。
そうすると、さらに「ひもじく、苦しい私」にフォーカスしちゃうから、しまいには動けなくなる。
へなへなへな…と、その場にへたり込んで、恐ろしい未来に打ち震えてるしかなくなってしまうわけ。
でも、ちょっと待って!
いつだって、未来は決まってないんだよ。
だったら、私が恐れてる“それ”って、いったい何なのよ?
来ると信じて疑ってない“それ”が、本当に来る可能性はどれくらいあるんですか?ってことよ。
だって、“いま”を変えれば、未来もいっしょに変わってゆくわけで。
焦りなんかにフォーカスせず、いまを気分よく過ごせていれば、気分のよい未来ができてゆくわけよね。
焦りになんてフォーカスせず、いまを楽しんでれば、それでオールOKってことよ。
つまり、私の一部である焦りを認め、フォーカスせずに共存してく。
「ああ、いたのね」くらいで、放っておけるようになることが大事なんじゃないかな。