見出し画像

箱の中

なんか、分ってきました。
「執着」が人を、箱の中に閉じ込めるんですね。
これもねぇ、これまでの教育のたまものだなぁと思うんですけど。
たとえば三次元のシステムに寄り掛かることに執着してると、その外側の景色を視界に入れないよう、無意識のうちに壁をつくっちゃう。
「トゥルーマンショー」っていう映画を見たことがある人は、想像しやすいと思うんですけど。
まさに四方八方が壁に閉ざされた、箱の中に入らざるを得なくなっちゃうんですよねぇ。
で、箱の外側の話を聞いても「そんなこと、あるはずないだろ」って、瞬時にシャットアウトしちゃう。
ホント、1ミリたりとも、自分の中に入れようとしないんですよ。
このときのガードのしかたはねぇ、マジで徹底してます。
記憶すら、自分の都合のいいように、上書きしちゃいますから。
で、順位付けに固執してマウントばっかり取ろうとする人は、こういうとき必ず相手を言い負かそうと突っ掛かってきます。
こうなったらもう何を言っても聞こうとしませんから、物理的に離れるしかありません。

私も、よくよく学びました。
もうこれからは、自分が攻撃される危険を犯してまで、相手には見えてない領域について言及するのはやめます。
やっぱり箱から出るっていうのは大変なことだし、覚悟がいるんですよねぇ。
そして覚悟っていうのは、本人にしかできないことなんです。
だから、外野がどんなにやいのやいの言ったって、言えば言うほど頑なになるだけ。
まぁ私「自分だけが幸せになっちゃいけない」っていう、ブロックがあったのでねぇ。
「自分が幸せになりたいのなら、周りの人も幸せにしなきゃいけない!」って、知らずしらず自分を追い詰めちゃってて。
なかなかここが、思うようにいかなかった。
でも昨日、ようやく気付くことができたので。
これからはムダに自分を傷付けることも、せずにすむと思います。

ただねぇ、やっぱり残念な思いも、私の中にあるんですよねぇ。
ここから先、どんなふうに棲み分けがなされていくのか分りませんけど、明らかに進む先が違う人を「置いてかなきゃいけない」って思いもある。
それって、ムッチャ傲慢だなって思うけど、そう感じちゃうんだから仕方ない。
これまでみたいに「なかったこと」にするんじゃなく、育つ過程でつくり出してしまったそういう思いと、共に生きてゆくしかない。
共に生きつつも、「楽しむこと」「満足すること」「幸せになること」を排除せず、少しずつでいいから意識的に受け入れていく。
そんなことできるのか分らないけど、やってみようと思います。
「新しい自分になる」とはいえ、これまでの自分を甘んじて、持ち越していかなきゃいけないこともある。
できなかったらできないで「あー、やっぱムリだったかぁ…」で、いいよね。
執着さえ手放してしまえば、私たちってどこまでも身軽な存在でいられるんだと思うから。

では、今日はここまで。
もしも最後まで読んでくれた方がいたなら、ありがとうございました。

いいなと思ったら応援しよう!