今日、この自分
「黙って聞いてるのは、その場をやり過ごすためでしかないから、ちっともあなたのためにならない」
そうね、そんなふうにできたらいいな。
右の耳から左の耳へ、聞き流すことができるようになりたいな。
でも残念ながら、私にはそれができない。
テキトーに聞いてることはできないし、過去の自分が瞬時によみがえってくるのを止めることもできない。
少なくとも、私の中のキズがまだジクジクしてるうちは、“起きたとき”同様の痛手を何度でも受けずにはいられない。
これって多分、私の“感性”と同一のものなんだと思う。
諸刃の剣、自分が振り回した刃物で、結果的にいちばん傷付くのは私自身ってこと。
いつだって、そうだった。
もう、やめるけどね。
サヤから出さずとも、あるだけで、感情の同期ができることは分ったから。
もう、振りかざす必要もない。
創作するとき、必要な間だけ、あることを思い出しさえすればいい。
そうか、母親は私の、その能力を鍛えてくれたのかもしれないなぁ__。
昨日、ジムに行って身体を動かしたことで、だいぶ落ち着いた。
“こと”が起きる前の、私に近づいた。
いろいろ、分った。
ちょっとや、そっとじゃ、説明できない。
ただ、ひとつだけ書くと。
私は私自身に対しても、人に対しても、「自分を大きく見せよう」としてきた。
自分に対してそうしてきたのは、自分を信頼できてなかったから。
小さい自分を、誰よりも私自身が、認識したくなかったから。
人に対してそうしてきたのは、身の丈の私じゃ、人に認められるはずがないと信じてきたから。
だから自分の中にできる限りのアンコを詰め、同時に身を縮めて、なるべくアンコの影に隠れようとしてきた。
そして皮肉なことに、そうすることが「人から認められなかったらどうしよう」という、私の原初の恐怖を増強することにつながっていた。
身を隠せば隠すほど恐れが増すという、悪循環にハマっていたわけだ。
それが分ったから、もうそれも、やめる。
自分を大きく見せようとせず、等身大の、“今日、この自分”で生きてゆく。
すぐには無理かもしれないけど、少しずつでも自分を大きく見せるフィルターを外してゆく。
等身大の私は、いいときもあるし、悪いときもあって。
ときと共に、変わってゆくけれど。
いつだって“今日、この自分”を、大事にして。
否定せず、疑わず、ともに寄り添い合って楽しんでゆこうと思う。