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純粋な欲求
昨日、とても大切なことに気付いた。
それは、自分の欲求に正直でいる、ということ。
私はどうやら、ものをつくるのが大好きで。
フツーに生きていれば自然と、つくりたい欲求がわいてくるようにできているらしい。
私にとって“なにかをつくること”は、“息をする”とか“生きる”に匹敵するほど、どノーマルなありかたで。
放っておけばたぶん、当たりまえのように日常の中にあり続けるはずのこと、なのだと思う。
何のバイアスも掛かっていない、本来の私でいられさえすれば__。
ところが、残念ながらこれまでの私は、本来の自分では生きてこられなかった。
生育過程で最低限、必要な受容を、誰からも与えてもらえなかったので。
いまに至るまでずっと、知らずしらず、他者からの受容ばかりを求めてしまい。
そのせいで、「これを使って失敗したら、もう後がない」と。
いちばん得意で、いちばん好きな“ものをつくること”を自らの手で封印し、それ以外のフィールドだけで生きてきてしまった。
かつて勤めていた広告関連の制作会社に入社しようと決めたのは、たぶん封印している好きなことを、少しでも身近に感じていたかったから。
それでも、自分本来のあり方を開放することには、抵抗し続けていたので。
生きるに従って、どんどん自分を歪めていき。
日を追うごとに、斜に構え。
いつの間にか、ものごとをありのままに受け入れることができなくなってしまった。
さらに。
仕事のうえで、大好きな“ものをつくること”に触れる機会があっても、好きなことをただ、するのではなく…。
“作品”として仕上げ、それを拠り所にして、他者から受容してもらうことが目的となってしまうので。
どうしても慎重になってしまうし、結果を恐れて動けなくなってしまっていた。
つまり私、飛ぶことを自分に禁じてきた鳥みたいなもんだった。
鳥は大空を自由に飛ぶために生まれてきたのに、知らずしらず、それを自分に禁じて。
見えない箱に、自らを押し込めてきた。
でもそんなことは、もう、やめる。
これからは、自分の欲求を止めず。
欲求だけに、目を向けて。
死ぬまでずっと、つくりたいものをつくりたいときにつくりたいようにつくって、生きてゆく。
子供みたいに。