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芸人文学(ツートライブ①)

「深夜に納豆」(2024)


(概要)
深夜、家族を起こさないように気を遣いながら納豆を混ぜるのは結構手間がかかる。それでも納豆が好きということは、実は納豆が大好物の寿司より好きなのでは?と考える。”本当に好きなもの”とは一体なんだろう?

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2ヶ月に一度の舞台、漫才状態は、ツートライブ、デルマパンゲ、空前メテオ、ぐろうの四組によるユニットライブでネタ二本づつという硬派なライブである。芸歴を重ねた二組と、10年以上芸歴の若い二組という珍しい組み合わせで、ツートライブの周平さんがこの四組を引き合わせたのだと聞いた。

全員しゃべくりで、空前とぐろうは関西の芸歴10年目以下限定の賞レースであるytv漫才新人賞の昨年度の優勝と準優勝でもある。

とにかく、この舞台を観たあとは脳みそが疲れるほど色々考えさせられる。

周平さんが、深夜にパックの納豆を買って家路に着く。ご家族の寝ている時間なので、大きな音を立てないように気をつけながらパックの納豆を混ぜる。手が汚れるし、カラシはうまく袋から出ないし、結構な手間を乗り越えてやっと食べることができる納豆。

そこで周平さんは自分の大好物である寿司と比べて、手間がかかる分、大好物でない納豆の方が好きなのでは?と言い始める。

漫才はそのあと、本当に好きなものとはなんだろうと、食べ物だけでなく、いろんなものを比べていく。

周平さんが観客に

「本当に好きなものがわかってないって怖いことよ」と問いかける。

こういう時は表にしてみるのが一番わかりやすので、私はipadをとってnotesに寿司と納豆を棒グラフで書いてみた。


棒グラフのメモリ0より上を好き度とすると、寿司の好き度が納豆より高い位置にあるはずだ。で、寿司にはマイナスの部分がない。でも、納豆には0より下の手間がかかるネガティブな要素がついてまわる。

こうやってみると、棒の長さだけで言うと、ネガティブな部分のあるものの方が長い。ただ、「普通」は、このネガティブな要素を「好き」の要素してプラスすることはない。なので、問題は、どうやったら、または、どういう条件で、このマイナス要素がプラス要素のように変換されるのだろうか、ということになる。

まず、好き、という感情は一体何なんだろう、と考えてみる。好きをconscious (意識的)、で、consciousというものは現世の記憶であると考える。嫌い、という感情はunconscious (無意識)、で、過去の記憶と置き換えてみる。

これはもちろん、人間は過去の記憶を背負って生まれるという大前提を受け入れているという状態での話である。

人間には二種類いる。現世の記憶だけを受け入れる人間と、過去の記憶と共に人間は生きているのでは、と感じている人間。

前者であれば、好き、の定義は0より上だけになる。0より下は存在しない。後者であれば、人間のunconscsiouの感情、0より下が上と同じように存在する。0より下をマイナスと見るか、0より下は過去の記憶というプラスとして見るかで違ってくる。

「愛の深さ」という言葉は面白い言葉だと思う。なぜ、愛の高さではないんだろう?深さというのは0より下、マイナスの部分を示す。ただ、ネガティブな意味ではないはずだ。

現世の記憶だけ、つまり、表面的な「好き」という感情しかわからない人間なら「深さ」もわからないことになる。

実は周平さんとは直接お話しさせていただく機会が一度あって、この「過去の記憶」という考え方をお伝えした際に、共感していただけたと理解している。なので、周平さんが過去の記憶、マイナス部分を現世の記憶にプラスとして乗せるという考え方をされるということに矛盾もない。

自分の中のunconsciousな部分に気づけるのか、unconsciousの声が聞けるのか、が、本当に自分の好きなものをわかるかわからないかが決まる。

周平さんの言った、

「本当に好きなものがわかってないって怖いことよ」は本当にそうなのだ。

自分の中のunconsciousに気付けないということが、例えば炎① で説明したような、コントロールできない差別を永遠に生み出すことにも繋がる。それが本当に恐ろしいことであると、周平さんならわかってくれる。





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