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芸人文学(ニッポンの社長①)
「戦場の母子」(2021)
(概要)
戦場で銃を撃って敵と戦っている母親とその息子、子供はぬいぐるみを手にしてはそれを投げて取りに行ってしまうので、その度に母親は手榴弾を投げて閃光を走らせ、子供を連れ戻しにいく
***
ニッポンの社長さんの作品は命をテーマにしたものが多い。と言うより、全てのネタが基本それではないかと思う。
ケツさん演じる子供が泣いてぬいぐるみをねだる、母親から受け取ると、それを投げる、そして取りに行ってしまう、手榴弾で閃光を走らせ母親が連れ戻すを繰り返す。
母親を困らせるバカな子供、戦場の恐ろしさも理解せず、戦う母親の足手纏いになるだけ。それが、ぬいぐるみがなくなって、投げるものがなくなった時、母親の持っている手榴弾を投げて閃光を走らせる。
驚いた母親が「できる?」と聞くと頷く息子。
母親はさらに銃弾を身にまとい、両手に銃を抱えて前進していく。息子は手榴弾を投げ続けて母親をバックアップする。
衝撃だった。
子供は明確な意図を持ってぬいぐるみを投げていたわけではない、ただ、ぬいぐるみを投げていただけ。それでも、それが彼のトレーニングとなっていて、手榴弾を投げられるようになっていた。
無意識の中の生命への渇望なのだと思う。動物として、「生きたい」と願う本能が、脳みそでいちいち考えなくても、生きるのに必要な能力を身体に覚えさせるということを表現している。「覚えさせる」というより、「覚えさせてしまう」というネガティブな表現の方が正確だと思う。
3分半ほどのネタの中で。
子供だけでなく母親も同じだ。ぬいぐるみを渡せば投げしまうとわかっているのに、また渡す。渡さなければいいのに、と思うけれど渡す。これも無意識ではあるけれど、子供に必要なトレーニングをさせている。
途中、ぬいぐるみの無くなった子供に、多分亡くなっているであろう子供の父親の写真の入ったロケットペンダントを渡すと、もちろん子供は投げてしまう、でも、これは子供ではなく、母親が取りに行く。
これはつまり、最後の、子供が壁の後ろで母親をバックアップする場面と同じ絵になっている。
二人とも近所のスーパーにでも行くような出立ちで、到底戦場にいるような格好ではない。二人のやりとりも、日常のなんでもない場面のような、家のリビングで交わされるような会話。
この二人がこの後、戦場で生き延びるなど到底考えられない。それでも、1秒でも長く生きようとする本能が二人に戦うために必要なトレーニングを与える。
ニッポンの社長のネタで頻繁に見られる、同じような場面を繰り返すという行為には、本能に牽引された無意識の「成長」と「変化」の意味が込められているような気がする。大事なのは脳みそで考えていないというところだ。人間が意識して脳みそで考えていることなんて結局大したことじゃない。人間が本能に導かれて動いているからこそ、真の意味のコントロールなど人間自身にできるわけがない。
意識して決定しているものなど人間の中で大したものではない。意識して決定したなら意識してやめることできる。ただ、無意識に動かされているものは自分の意思ではどうにもならない。スーパーに行く途中でも、戦場に放り投げられると、無意識に生き残るための能力を身につけるようになる。それを知恵というのか、ロボットのように自分の意思を持たずに生きているというのか。
ニッポンの社長のネタは常に、結局は死ぬために生まれた人間の滑稽さを描いているような気がする。
いや、それともこれを人間の命を渇望する美しさというべきなのか、、。
(これがなぜ笑いになるのか?については、地獄人(芸人)の話で)