地獄人(芸人)の話
1. なぜ笑わせたいのか?
なぜ、誰かを笑わせたいと思うのだろう?
自分のした話で場がウケることが気分がいいのはもちろんわかる。それは誰でも思うことではあると思う。ただ、それを職業にしようと思うのはまた違う話だと思っている。
「芸人になりたい」と思う時、「自分で考える」モチベーションはそれぞれだと思う。有名になりたいとか、クラスで一番面白いと言われるから、とか、ただ、ネタを書くという行為は、また全く違う能力を要求される。
子供の時から将来は「小説家」になるのだと自分のことを思っていた。物語を作り上げる仕事、物書きとして、当時は、それ以外に選択肢がなかったと思う。言葉を操る仕事しては、コピーライターみたいなものが注目される時代でもあったけれど、芸人という仕事を「物書き」として認識したことはなかった。漫才師という仕事は「世襲制」みたいなものだろうと思っていたし、人前に出る仕事なんて、物書きを目指す人間からしたら対極の位置にあって、職業の選択肢に入ったことさえなかった。
ただ、今の芸人さんは皆さん明かに優秀な作家さんで、昔だったら作家を目指していた人たちに「芸人」という選択肢が加わったんだろうな、と思う。
それでも、物書きとも違う。彼らには「笑わせたい」という欲望が、物語を作りたい、の上にある。
なぜ?
子供の頃は、テレビという箱の中だけに存在していた架空の生き物だった「芸能人」という存在が、今はSNSや動画チャンネルの生配信なので身近に存在していて、その人の人となりがいろんな方法で感じ取れるようになっている。
そうやって観察していくと、私が「面白い」と感じる人たちが優秀な物書きであると同時に、「笑わせたい」というミッションのようなものを背負ってきているように見えてきた。
笑う、というのは幸せな気持ちになる瞬間だと思う。つまり、誰かを笑わせて幸せにしたい、しかもその対象が不特定多数になるのが「笑わせる」職業になる。対象が自分の知り合いだけだったらそうはならない。
「もっと大勢の人数を笑わせて注目を浴びたい」から、という理由もあって当然だと思う。ただ、そこがスタートでは作家として漫才や台本を書くのは至難の業のような気がする。物語が作れて、それで笑わせたい、でなければ、賞レース必至の今のお笑いという世界では生き残っていくのが難しい。
ネタを見ていると、皆さんの作家としての発想や能力は凄まじいと思う。複雑な言葉の担い手で、思いもつかない発想の物語を作られる芸人さんに敬服するばかりだし、作家以外の選択肢があったということに関しても羨ましいとも思う。ただ、作家とは違う。彼らには「笑わせる」という目的がある。
私が好きな芸人さんを観察していると、笑わせたい、より「笑わせなければいけない」というようなミッション感が強いような気がする。というより、笑わせなければいけないというミッションを背負っている人たちに惹かれている。
笑わせるということが幸せにするということなら、普通は自分の家族だったり身近な人たちにその力を向ける。ミッション感の強い芸人さんたちは脅迫でもされているかのようにネタを書いて笑わせるに集中する。
そういう人たちを勝手に「地獄人」と呼んでいる。何かすごい痛みや苦しみを経験した人じゃないと不特定多数の人間を笑わせようとは思わないのではないかと思う。ここでいう「経験」とは現世のことではない。大前提として人間が過去の記憶を持って生まれているとする。で、人間には過去の記憶を存在しないものとして生きている人間と、過去の記憶と対峙して生きている人間がいる。過去の記憶なんて楽しいものだけであるはずがない。どちらかというと苦しいものの方が圧倒的なはず。
過去の記憶に対峙しているなら、自分の過去の苦しみを感じているなら、他人を笑わせて幸せにしたいと思っても当然のように思う。ただ、ミッション感の強い芸人さんはそれ以上の何か、地獄(過去)のような苦しみを超えて、さらに地獄で何かを約束させられたのではないかと感じるようなものさえある、なので、ミッションとしてお笑いを生業としている人たちを私は地獄人と呼ぶ。
2. 笑うという感情
笑うという感情は何か?楽しいとか幸せな気持ちの延長線上にあると考えられているのは当然だと思う。
ただ、笑うという「行為」は楽しい時だけに起こるものではない。怒りが頂点に達した時、悲しみが頂点に達した時、笑ってはいけない場面で笑いが込み上げてきたりする。
それが何を意味するのだろう?と考えた時、人間には悲しみすぎないように、怒りすぎないように、という自動制御のようなものが備わっているのではないか、ということだ。
人間や動物の仕事は生き残ること、子孫を増やして種を絶やさないことが本能としてプログラムされているのは否定できない。結局はそのための法や国家というシステムで、結婚制度や家族愛など、種を守ための法律やそれに基づく道徳なのが自然に形成されていく。もちろん種を守ために多種を支配するというような命を絶やすような逆の行為も行われていくので、またそれを守ための法や道徳が意識的ではなく、無意識、本能をモチベーションとして作られていく。
一つ一つの感情に対しても、本能として制御装置が付いていてもおかしくはない。ネガティブな感情に歯止めが効かないことが人間として生き続けるという使命の中で有効に働くわけがない。
なので、ネガティブな感情のキャパを超える時、「笑い」が止めに入る。ただ、これは多分、悲しみや怒りという感情のものだけではきっとない。
ある芸人さんが、観客に対して「イラッとさせる」ことを芸風としていた。気付いたのは、イラッとさせられ続けるとやはり笑ってしまうということだった。
ここで、人間は感情のキャパを越えると「笑う」と仮定する。そして自動制御装置が働くようにプログラムされていたとしても、それが正常に働かない人もいるだろうし、限界に到達するまでに「笑い」というストッパーが引き起こせるなら、その方がいいに決まってる。
まずは、芸人というのは、限界前に笑いを引き起こす、つまり、人間が苦しみの限界に到達して自動制御装置が働くのを待つ前に救う、という作業をする職業なので、ミッション感が強いと感じるということ。そして二つ目は、笑うという行為が「感情のキャパ超え」なら、笑いを起こすために、なんらかの感情のキャパ越えを促せばいい。
私の好きな漫才・コント作家の皆さんの作品を見ていくと、自分の中の何かしらの感情が揺さぶられているような気がする、で、それが、いわゆる、一般的に言う「面白い」と感じる部分ではないのもわかっている。
例えば、ニッポンの社長さん、辻さんの書かれた「戦場の母子」のネタ、アイデアを考えた段階で「面白さ」はないのではないかと思う。もちろんケツさんのコミカルな演技で笑う、はある。ただ、そこだけではない、とはいえ、言語化ができない。
これを、「感情のキャパ超え」で笑う、という視点で考えた場合、辻さんの台本には、もしかしたら、人間がまだ意識的には発見していない感情を揺さぶる何かがあり、その未発見の感情を辻さんがこれも無意識に「キャパ越え」するように持っていっているのではないか、と。
辻さんが地獄人で、その未発見の感情を揺さぶる能力を地獄で授かった、もしくは地獄のような経験を通して理解しているとするなら、辻さんがそれを揺さぶる台本を書いて、私たちが「笑う」はあるのではないか、と。
「心の奥の何かが揺さぶられる」はなんとなく理解できる人もいると思う。何かわからない、わからない何かに響くネタ。もちろん辻さんがそれを意識して操っているとは思わないし、私が「地獄人」と思う他の芸人さんもそれを意識してやっているとは思わない。
笑いとは、「未知の感情のキャパ超え」で、
地獄人とは、「未字の感情のキャパ超えを促す台本が書ける」芸人のことである。
そして、私は地獄人たちを尊敬している。