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「ホー・ツーニェン エージェントのA」レビュー

執筆者:森田唯衣花
京都市立芸術大学総合芸術学科4回生

はじめに
 シンガポールを拠点に活動するアーティスト、ホー・ツーニェンの個展が東京都現代美術館で4月6日から7月7日まで開催されていた。
 彼は、東南アジアの歴史的な出来事、思想、個人または集団的な主体性や文化的アイデンティティに独自の視点から斬り込む映像やインスタレーション、パフォーマンスを制作してきた。作品を生み出す基盤は「いかなる言語、宗教、政治体制によっても統一されることのなかった東南アジアの相対性を持たせるのは何か」という問いを起点にしている。
また、本展覧会は政治や歴史の媒介者に対するホーの継続的な関心と、あらゆるものの存在と性に根源的に関わる「時間」に関する新たな探求に焦点を当てている。
 筆者は東南アジアの政治についての知識を持ち合わせていなかったが、ちょうど東京に来る機会があったので足を運んでみた。研究テーマとはほど遠い展覧会であったため、新鮮な気持ちで展覧会を見ることができた。

 本展覧会は章立てはなくほとんどがインスタレーション作品であった。
  時間のT:タイムピース
  CDOSEA
  ヴォイス・オブ・ヴォイド ー虚無の声
  時間のT
  ウマタ ー歴史に現れたる名はすべて我なり
  一頭あるいは数頭のトラ(リダックス)
  名前
  名のない人
 以上8点のインスタレーション作品が展示されていた。筆者は特に気になった「時間のT:タイムピース」「CDOSEA」「ヴォイス・オブ・ヴォイド ー虚無の声」「名前」の4つについてピックアップしたいと考える。

1.時間のT:タイムピース (2023)
 

時間のT:タイムピース 全体の様子

展示室各所に置かれている42点の映像は異なる種類やスケールの時間を表す。特に目を引いたのは「コーヒーの渦」「談笑する3人」「生地をこねるシーン」「りんごの皮むき」の4点である。

「コーヒーの渦」「談笑する3人」「生地をこねるシーン」「りんごの皮むき」

最初のブースに置かれたこの4点はどこかノスタルジーを感じさせるシーンである。アニメーションの表現方法もひと昔前の日本のアニメーションを彷彿とさせる描き方である。どの4点も「繰り返す」といったところで共通していると考える。コーヒーの渦を眺める、談笑する、生地をこねる、りんごの皮を剥く...。人によってそれを行うとき、感じる時間のスケールが異なるといったところも面白い。没頭しながら生地を捏ねていたら時間が経つのが早いだろうし、めんどくさいと思いながらりんごの皮を剥いていたら時間が経つのが遅いだろう。3人の談笑している人の中には面白いと感じて時間が経つのが早い人もいれば、退屈していて遅く感じている人もいるだろう。

2.CDOSEA (2017-)
アルファベット順に東南アジアを想起させる言葉とそれを連想させる映像を組み合わせた作品。「アナーキズム」のAといった具合に早口で繰り返されていく。戦争時代のグロテスクな映像も多く、早口でボソボソと流れていく男性の声も相まって非常に居心地の悪い作品であった。「東南アジア」という名称は第二次世界大戦中、連合軍が作戦上の用語として定着したが、東南アジアから思い起こさせる地域にはそこに存在していた文化や言語、国家体制などの培ってきたものを思い起こさせない。筆者が感じた居心地の悪さは、東南アジアという名前がついておりそれが世界中で認識されているが、そこに本来あった文化などは知られていないという居心地の悪さを表しているのだろうか。

CDOSEA

3.ヴォイス・オブ・ヴォイド ー虚無の声 (2021)
 ホー・ツーニェンと山口情報芸術センターとの協働で制作された本作は、京都学派に焦点を当てている。京都学とは、京都帝国大学で教えていた西田幾多郎と田辺元を中心に形成された哲学者たちのネットワークである。1940 年代初めにかけて、西田の「絶対無」 を基軸に戦争の倫理的意義を説いた彼らの哲学は、思想界を超えて大きな影響力をもった。本作は「京都学派四天王」と呼ばれた高坂正顕 (1900‐69 年)、西谷啓治(1900‐90 年)、高山岩男(1905‐93年)、鈴木成高(1907‐88 年) が座談会を行った「左阿彌の茶室」、田辺元の講義が聞こえる「空」、三木清(1897‐1945 年) と戸坂潤(1900‐45 年)が収容された「監獄」、 そして西田の思想空間ともいえる「座禅室」という4 つの空間から成るVR(仮想現実)が軸となっている。鑑賞者は、「左阿彌の茶室」「空」「監獄」 を仮想カメラで撮影した映像を映し出す同名の 3 つのインスタレーションを巡り、そこに登場する哲学者たちや彼らのテクストについて、背景にあった出来事や人物と合わせて知ることができる。京都学派の朗読が続く中、なにやら大きなロボットが数体飛んでいる巨大なスクリーン二つに挟まれた空間は正直理解ができなかった。そのスクリーンは同じものをうつしているわけではなく、絶妙に違っていたり、片方は朗読している人々が映し出されて片方は「空」の空間が映し出されていたり、さまざまであった。

仮想現実全体像

この「左阿彌の茶室」「空」「監獄」はVR体験をすることができた。入口の受付で30分後の予約をとり案内されたのは、広い空間に四つの畳が敷かれ、板で四分割されている空間であった。そこで靴を脱ぎ畳に上がり、VRのゴーグルとヘッドフォンを装着した。初めに自分がいたのは「左阿彌の茶室」であった。サラリーマン風の男3人とお坊さんのような男が1人、談笑している。皆箸を片手につまみを食べている様子である。よくある昭和の飲み会のような雰囲気を感じた。自分自身はというと、机の端に座りペンを持ち何かを書く準備をしている。4人は飲み会をしているのに自分一人だけペンを握っている状態は不思議ではあったが、こちらのことは見えていないかのように4人で会話を続けている。数分経つと談笑をやめ、4人全員が無言でこちらを見つめてきた。そして全員の顔が半分に開き、真顔のままこちらを見つめる不気味な時間が流れた。そして、立ち上がるとその茶室を天井から抜け、「空」へと飛び上がった。ペンを持っていた自分は数体のロボットに擬態していた。周りのロボットと同じように空を飛んでいる。特にどこかにいくわけではないがいつまでも空を浮遊していた。
下を見ると先ほどの茶室が見えた。そして座ると、また茶室に戻る。


監獄

今度は寝転がってみると下の「監獄」に入った。どこまでも続いているような監獄は暗く不気味であった。そのまま横になっていると一つの部屋にすり抜けていく。直前に「監獄」のインスタレーションを見ていたのだが、そこではすり抜けたところにびくとも動かない人の顔が急に現れたので驚いていたのだが、VRでもその顔がいるかと思ったがいなかった。その監獄は床にうじゃうじゃと虫がいて気味が悪かった。

 これらの繰り返しの約30分間のVR体験であった。途中で仕切りの板にぶつかったり畳から落ちそうになってたまにVRを外すとその他の体験者が立ったり座ったりを繰り返しているのを見て、側から見ると面白い状況だなと感じた。VR体験を行って感じたことは、映像を見るだけでなく自分で体験できることでより不気味さを体感したということだ。ツーニェンが「不気味」「居心地の悪さ」を重視した作品づくりをおこなっていることが見てとれる。「いかなる言語、宗教、政治体制によっても統一されることのなかった東南アジアの相対性を持たせるのは何か」ということをテーマに制作している彼が京都学派を取り入れたのはなぜなのか。最初のブースの「CDOSEA 」では残虐な東南アジアでの戦争シーンを取り入れている。東洋でありながら西洋化した日本で、ただ西洋哲学を受け入れるだけではなくそれといかに内面で折り合うことができるかを模索し、それが大東亜思想に繋がった京都学派の考え方は、東南アジアの文化が西洋に壊されたことに通じて、彼には惹かれるものがあったのかもしれない。

4.「名前」
 筆者が一番好きだった作品である。 31本ものアメリカ映画とイギリス映画から、タイプライターをうつ男性の映像をサンプリングして繋ぎ合わせた作品。マラヤ共産党の機密文書に基づいて書かれた「マラヤにおける共産主義闘争」という本の著者、ジーン・Z・ハンラハンが正体がいまだによくわかっていないことについて表現している。タイピング音や人々が究明していこうとするその姿が、面白く感じた。最初のCDOSEA (2017-)に似ていて、さまざまな素材が素早く繋がっていく作品が多く、時間の速さを感じさせる。

おわりに
 現代アートは意味を汲み取ることが難しく、苦手意識があったが、今回も内容が重々しいものが多かったこともあり、最初は難しいなと感じていた。しかし、最後にVR体験をしたことで少しそういった気持ちが薄れた。やはり五感を使い楽しむこと、よりリアルで感じられることでワクワク感を感じれたことが大きいのではないかと考える。そして、ツーニェンの作品は明るい題材ではないが、ずっと見てられる作品が多いと感じた。ゆったりとした時間を感じさせる作品もあれば、流れが早い作品もありあらゆるものの存在と性に根源的に関わる「時間」に関する新たな探求に焦点を当てている彼の作品を通して、自分はどういった時に時間の速さの感覚が変わるのかと考えてみるきっかけとなった。


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