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せっかくの『美しきエレーヌ』をよく観るために—160年前のオペレッタにピントを合わす「コツ」(その1)

伊藤靖浩/Yasuhiro Ito
1994年、東京生。学術修士(東京大学)。社会科学高等研究院(EHESS)修士課程在籍。専門はフランス文学、20世紀の作家コレットを研究対象とし、最近は彼女の作品における翻訳、あるいは声の問題に取り組んでいる。研究と並行して、若手オペラカンパニー Novanta Quattroでドラマトゥルクを務めるなど、活動の幅を広げている。

笑っていいの?—すっかりネタにされたギリシャ神話を前に当時の人々の反応は……

 こうしてお読みくださる皆さまがきっと東京芸術劇場に足をお運びになるのだとして、開演前にプログラムをご覧になれば、エレーヌ、パリス、メネラオス、アキレ……呆れるほど豪華な名前が目に入ることでしょう。ホメロスの叙事詩に歌われる、それぞれが重厚なドラマを背負う登場人物ばかり、しかし、ひとたび幕が上がれば、軽やかな音楽の運びと、羽目を外した冗談の連発にきっと楽しいひとときをお過ごしになるでしょう。いや、いくらか拍子抜けされるかもしれません。「これが本当にトロイア戦争の前日譚かしら」……余計な心配とは思いつつ、このオペレッタが初演された当時も、拍手喝采の客席のなかにいくらか困り顔のお客様が混じっていたものですから。

 劇評から見えてくる、初演当時の客席の反応

 見てきたかの言いぶりをしましたが、当時の劇評から窺えるパリの光景をお伝えしたにすぎません。今から160年前のクリスマスイヴ、1864年12月24日の『娯楽新聞(Le Journal amusant)』に掲載された『美しきエレーヌ』評を取り上げてみましょう。ちょうどその一週間前の12月17日、ヴァリエテ座の初演が大成功を収めてからというもの、オッフェンバックの新作にパリ中が浮かれていたようで、劇評家もやや興奮気味に読者に呼びかけています。 

皆さんは、愉快で、機知に富んだ良い音楽がお好きですか?
でしたらここに!
笑って、気を晴らし、お楽しみになりたいですか?
きっと笑われるでしょう、楽しまれるでしょう!
綺麗な女性たちを大勢、舞台でご覧になりたいですか?
ヴァリエテ座にお行きなさい!

 

 軽薄な調子でなにも考えなくても良いと宣言したあと —— 艶やかな女性たちを観に行こうという「あけすけさ」については後に立ち返りましょう —— 元ネタとなったギリシャ神話についてはあれこれ説明しないと断りが入ります。なぜならそれは「分析するには及ばない」ことだからだと言うのです。

現代的な駄洒落に彩られた古代ギリシャ、あるいは、ドーミエの筆によって描かれた人物たちと言えよう。聞こえてくるのは偉大な人物たちの名だが、舞台上にいるのは破滅的に滑稽な人々である。

 ここでうっかり神話について講釈を垂れようものなら私も野暮のそしりを免れなかったわけですが、当時の人々の言う「現代的な駄洒落」の雰囲気を掴むためにも、ここで名前の挙がったドーミエについてごく簡単に触れておきましょう。

ドーミエの描く「平場」のエレーヌとパリス

 19世紀フランスで最も有名な風刺画家ドーミエは、諷刺新聞の『シャリバリ』紙に《古代史》(1841-1843)というタイトルで連作カリカチュアを連載しました。おそらくこの劇評家は、オッフェンバックのオペレッタを観て、連作のなかの一枚「エレーヌの誘拐(L’Enlèvement d’Helene)」を連想したのでしょう。

エレーヌの誘拐(L’Enlèvement d’Helene)

 衣装からも明らかなように、煙草をくゆらすパリスをエレーヌが担いでさらうという図で、役割がすっかり逆転しています。下には「恋にじりじり焦がれたパリスも/もはや煙草をくゆらすばかり/それを承知のエレーヌは 前触れなしに/丈夫な腕でパリスをさらった」という戯言めいた詩が付されていて、パリスとエレーヌを演ずる現代の役者たちの、とても悲劇的とは言えぬ、卑小で滑稽な舞台裏風景といったところでしょうか。『美しきエレーヌ』の場合、二人の関係は逆転こそしませんが、「運命の出逢い」とは名ばかりの現代不倫コメディですから、ドーミエの強烈なパロディ精神は確かにオッフェンバックを先駆けていたと言えます。

さすがに憤慨した人々も……

 劇評にお話を戻すと、先ほど読んだ箇所で「これは駄洒落に過ぎない」とくり返されていたのには、それなりに理由があります。「冗談だよ、冗談」というのは冗談が通じなかった相手にかける言葉で、偉大なる古代ギリシャをネタにする風潮に憤慨した人も少なからずいたわけです。劇評家はそうした人々に向かって「『美しきエレーヌ』を上演するヴァリエテ座で古代史の講義をしてほしいなどとは思わない」と反論します。「誰ひとりシュナイダー嬢[初演時のエレーヌ役]が古代ギリシャについてレクチャーするとは思わない[……]ギヨン氏[アキレ役]がパリジャンの隠語を話すのだって重々承知しているはずだ」と。まあ、それはそうかもしれない……とどのつまり難しいことを考えず、荘重な主題と軽薄なドラマのギャップを楽しもうではないかというのが、劇評の主意だと言えそうです。
 とすると、難しく考えなくてもいいとはいえ、ギャップを楽しむ以上は古代ギリシャ神話をある程度知っていたほうが面白いということにもなります。当時の人々は当然のようにホメロスやアイスキュロスを読んでいたのでしょうか、さもなければ楽しめないのでしょうか……おそらくそうではないはずです。このオペレッタを楽しむにあたっては、文学でもなく音楽でもなく、絵画の世界を経由するのが近道なのです。

(その2へ続く)


【公演情報】

◆◇◆◇
東京芸術劇場コンサートオペラ vol.9
オッフェンバック/喜歌劇『美しきエレーヌ』
演奏会形式/全3幕/フランス語上演/日本語字幕付
◆◇◆◇

日時:2024年2月17日(土)14:00開演
会場:東京芸術劇場コンサートホール

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