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せっかくの『美しきエレーヌ』をよく観るために—160年前のオペレッタにピントを合わす「コツ」(その2)

伊藤靖浩/Yasuhiro Ito
1994年、東京生。学術修士(東京大学)。社会科学高等研究院(EHESS)修士課程在籍。専門はフランス文学、20世紀の作家コレットを研究対象とし、最近は彼女の作品における翻訳、あるいは声の問題に取り組んでいる。研究と並行して、若手オペラカンパニー Novanta Quattroでドラマトゥルクを務めるなど、活動の幅を広げている。

(その1はこちら↓)


絵に描いたようなリンゴの話 — セザンヌからパリスへのメッセージ


 「絵に描いた餅」という言葉があります。実物なしには何の役にも立たぬものを喩える慣用句ですが、絵なんて見ても腹は膨れぬ、せいぜい棚から牡丹餅が落ちてこないかしらと願った昔の人々は、ずいぶん食い意地が張っていたのかもしれません。しかし、逆のこともあるでしょう。実物は大したものじゃない、ごくありふれたものでも、実に巧みに、生きているかのように描かれると、人は驚き、喜ぶものです。たとえば、セザンヌのリンゴに私たちが魅せられるように。

 「たったひとつのリンゴでパリを驚かせたい」……セザンヌの名言をご存じのかたも多いでしょう。秋口からはどこのスーパーに行っても山積みされているリンゴ、神頼みせずとも棚から転がり落ちてしまうありふれたリンゴを、そのありようのまま絵にしたセザンヌ。彼の言葉は20世紀の絵画の変容を告げる挑発として、美術史に燦然と刻まれているわけですが、同世代の人々はこの言葉にくすりと笑みをこぼしたかもしれません、『美しきエレーヌ』のあるシーンを思い浮かべながら。 

クイズ大会を制した「リンゴ男」をめぐって……

セザンヌ、《リンゴとビスケット》、1880年

 そのシーンというのは、いよいよ一幕も佳境というところにあります。エレーヌの相手役、羊飼いパリスがクイズ三番勝負を見事制したのち、その正体を明かす場面です。本来、恋仲になる二人が出会うわけですからドラマチックになりそうなところ、そうした期待は徹底的に裏切られます。エレーヌが前段から噂話をしていたところへ(「神秘的な森、三美神、そしてリンゴと羊飼い……あの羊飼いのことばかり考えてしまうの……」)、待ってましたといわんばかりに登場する羊飼いのパリス、彼は神官カルカスを相手に長々と自己紹介をするので、ネタバラシはすっかり済んでいる。そこに来てのクイズ三番勝負、揃いもそろって愚かなギリシャの王たちが珍回答を連発し、緊張の糸はとうに切れてしまっているのです。そうして彼が名を告げたときも、周囲の反応はこのうえなく滑稽です。 

アガメムノン
いったい何者だ、あの誰かさんは?
 
パリス
誰かさんの正体はパリス、プリアモス王の息子だ!
 
エレーヌ、度を失い、傍白で
なんてこと、リンゴの男なのね!
 
パリス
リンゴの男さ!
 
全員
リンゴの男だ!

 馬鹿のひとつ覚えとはこのことでしょう。オッフェンバックはこの「リンゴの男だ(l’homme à la pomme)」という言葉だけでワンシーンを作りあげました —— シリアスでスピード感のある合唱をバックに、エレーヌの技巧的なソロを際立たせて。劇的な音楽に乗せられる言葉があまりに貧弱なので、そのギャップに笑ってしまうというわけです。

 しかしなぜパリスと聞くと皆そろって「リンゴの男だ」と繰り返すのでしょう。もちろん、パリスはリンゴを片手に突っ立っていただけの男ではありません。彼の波乱万丈な人生が、どうしてたったひとつの小道具との結びつきに切り詰められ、一問一答クイズ的な常識として人々に共有されているのでしょう……実はパリス自身、そのわけをよく知っていて、自己紹介がてらこんなふうに歌っていたのでした。 

神秘の森を若者がとおる、
溌剌たる、美しい若者が。
彼の手にはリンゴがひとつ、
皆さま、絵でご覧のようにね。

ルーベンス、《パリスの審判》、1632-33年
セザンヌ、《パリスの審判》、1862-64年

「絵になる光景」が「常識」になるとき:西洋絵画とクイズ

 そう、誰に聞いても「パリスといえばリンゴ」と答えてしまうのは、絵画の力のなすところ、正確にいえば《パリスの審判》という画題が西洋絵画史上、繰り返し描かれてきたからなのです。ルーベンスの作品がとりわけ有名ですが、セザンヌも『美しきエレーヌ』と時期を同じくしてこの主題を描いています。両者は、スタイルこそ異なれど構成要素は共通している……森、三美神、リンゴ、そして羊飼い……この画題の刷り込みが人々の常識を成していたわけです。

 絵画はある効果的な一瞬の場面を切り取ることで、その前後の物語をも想起させる力を持ちますが、それは観る者に教養あってこその話。せいぜい会話についていけるだけの常識さえあればよいという人々にとっては、絵画の前後などどうでもよく、画題さえ知れば満足してしまう。美術館でじっくり絵を眺めることもなく「ああ、あれが有名なあの絵か」と見ればさっさと立ち去る人々 —— それは今も昔も変わらぬ光景なのかもしれません。オペレッタのなかで「ギリシャ人には教養が足りない」という危機感ゆえに開かれたクイズ大会は —— にもかかわらず景品は経費削減のため貧相極まりないという点まで含め —— 実のところフランスの世相への当てつけ、当時の教養、教育の貧しさへの諷刺だったのです。パリスといえばリンゴ、リンゴといえばパリスという答えしか出てこないギリシャの人々に、観客は己が社会の愚かさを認め、それゆえいっそう可笑しくて笑ったのでしょう。

 さて、セザンヌの言葉に立ち返るとどうでしょうか。「たったひとつのリンゴでパリ(パリス)を驚かせたい」という洒落は、「パリスといえばリンゴ」というパリの人々の常識を下敷きに、しかしその些細なアトリビュートで常識をひっくり返してみせるという野心的なメッセージにほかなりません。あるいはまた、『美しきエレーヌ』のパリス —— なにもかも物知り顔で、ヴィーナスに守られた美青年 —— 正直なところ鼻につくこの若者を、何でもないリンゴであっと言わせてやりたいという痛快な放言でもあります。1860年代にパリに来て《パリスの審判》を描いたセザンヌ、夕日のように漠たるリンゴを描いた若者が、そこから数十年、同じ対象を描きつづけた末に放った言葉は、軽やかでいて、しかしリンゴのようにずっしりした説得力があります。なんといっても「リンゴ男」といえば今ではパリスというよりセザンヌなのですから。

(その3へ続く)


【公演情報】

◆◇◆◇
東京芸術劇場コンサートオペラ vol.9
オッフェンバック/喜歌劇『美しきエレーヌ』
演奏会形式/全3幕/フランス語上演/日本語字幕付
◆◇◆◇

日時:2024年2月17日(土)14:00開演
会場:東京芸術劇場コンサートホール


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