キュビスム展(西美・京セラ)感想
筆者は東京で昨年観ていますが、この夏まで京都京セラ美術館でも展示が続いているので、回想録として書きます。ポンピドゥセンターからの作品を中心に、キュビスムの多様な展開を追うものです。
概要
キュビスムの前史としてセザンヌの作品とアフリカの偶像が展示されています。「プリミティヴィスム」についてのキャプションが、今日的にアップデートされたおり、作品の単なる霊感源ではなく、植民地主義的な問題を孕んだ造形であることを正確に提示しています。
ブラックやピカソがずらりと並ぶのは、ポンピドゥセンターのコレクション様様というべきでしょうか。ただいつまでもブラック・ピカソ=キュビスムという構図ではない、という意図が感じられ、すぐにキュビスムの広がりという流れになります。
いつも2人の印象が強過ぎるのと、第一次世界大戦後にはそれぞれ別の画風に移行してしまい、その後の展開が見通しにくくなっているのですが、本展はそこからが本領のように思います。
特に看板作品のドローネーの大作は見応えがありました。近代への苦難や懐疑に終始するモダニズムの画家にしては、かなり素直に時代を肯定するような、エッフェル塔などの描き込みがあるのが面白いと思います。
それまで注目してキュビスムの追従者・後継者を見てこなかったこともあり、ほぼ初見だったことから新鮮に思え、やや過大評価気味に観ていたと思います。というのもよく考えてみたら、形態の多面的な真実を描こうとした(と説明される)キュビスムからは離れ、色彩の奔流のベクトルへ早々に向かっていっているからです。
ほぼドイツの表現主義絵画とみなした方がいいような、原色の荒々しい対比が鮮烈でした。実のところ世界大戦前夜の愛国主義の高まりに際し、それらはボッシュ的(ドイツの蔑称)と呼ばれていたそうで、もう誰もピカソやブラックの目指したものとして覚えてないのだなと思いました。
派生はイタリアやロシアなどでも膨らんでいき、ル・コルビジュエあたりのピュリズムで締めくくりといったもの。それ以上突き進むと、そもそも画家の個性など識別不能なところへ行き、芸術としての臨界に至ってしまったようです。
感想
①ブロックバスター展、万歳
界隈では大手マスコミが企画宣伝し、〇〇美術館展のコピーでやってくるものへの反感が根強くあります。パッケージされたコレクションを言われた通り並べただけという事で、キュレーションなどあったものではないという批判です。
ただ円安や保険料の高騰によって、そもそもキュレーションが成立するくらいの作品群を日本に持ってこれないという事態が既に起きています。キャプションではこう書いていても、それを視覚的に提示するための作品はない、みたいなケースが増えてきているので、相対的にブロックバスター展はいいと思えてきました。
今展はポンピドゥセンターが修繕のために貸し出されているものです。ありがとうございました。
②新しい見方の提示
総論として、手垢のついたキュビスム観をアップデートしようというのが随所に伝わってきて、しかもその意図が分かり易いので、日仏の担当者や学術協力者の聡明さを感じる内容です。
・「ブラックとピカソ」で終わらない多国籍なキュビスム。
・「多面的な形態の真実」だけでなくキュビスムの色彩的な達成を考えさせるもの、
・「難解で芸術至上主義的な」イメージを当時の社会情勢に着地させる
など多くのことが試みられています。図録を読むとさらに明快になりますが、名品展ではなく新知見を提示する意欲に感銘を受けた次第です。
筆者のキュビスム観も塗り替えられました。
③結局キュビスムとは何だったのか
現代美術に繋がっていくのは抽象表現主義でありダダであって、キュビスムは美術史に何をもたらしたのかということは疑問符のままです。
旗振り役が早々に離脱したこともあってそのあたりの成果は曖昧です。今回でその後継と展開を網羅的に観られたとはいえ、キュビスムは局地的な精華であって、種を残さなかったのかなと思いました。
進化論的に単純な系統にしてはいけないのは分かっていますが、キュビスムがだんだん表現主義絵画と呼ばれるものと変わりがなくなり併合されていくか、先鋭化してもはや誰の作品かどうかが意味をなさないところまで行ってしまった風に感じます。
キュビスムがキュビスムとして実を結んだことはついになかったように思いました。こればかりは観た人によって感想が変わると思いますので、あくまで一意見として。
まとめ
新見地を積極的に提示して、かつそれを的確に作品を通じ紹介して見せる、キュレーションの妙を堪能できる優れた展覧会。西洋美術系のものでは近年でも指折りの水準なのは間違いないです。