Komm süsser Tod
一連の新型コロナウイルス騒動に、強く触発されて書きました。今、自分にできることは何か、という一つの答えでもあります。少々物悲しい雰囲気ですが、最後まで読んで頂ければ幸いです。
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「えっ、授業また延期になったんだ……」
自分の高校のホームページは、普段は絶対に自分からアクセスしない。子供じみたフォントでダサくて、いかにも学校のホームページという感じだからだ。でも夏美はこのところ毎日、高校の公式ページの緊急事態掲示板にかじりついていた。
リビングのソファに寝そべって夏美はスマホをいじる。11時過ぎに起きてパジャマを着たまんま。そんな姿を見ても、もう母は何も言わなくなった。おそらく今では、全国の家庭で同じような光景が繰り広げられているだろう。
「じゃあ、お母さん買い物行ってくるから。圭一とお留守番お願いね。」
「はーい。」
「外危ないから本当に出ちゃ駄目よ。もし出かけるとしてもマスク付けて。それと……」
「わかってるって。お札でしょ、お、ふ、だ。」
「そう。でもお札付けてても完全に安全じゃないんだからね。『穢れ』は身体に蓄積されていくんだから。人間が外で活動できるのはもう15分までだってテレビで言ってたでしょ。じゃ行ってきます」
「行ってらっしゃーい」
夏美がお尻を掻きながらの生返事だったから母は不満げだったが、諦めてすぐに母は玄関に消えた。玄関の二重隔壁の分厚い扉を重そうに閉じる音が残る。いつも中で防護服を着こんでマスクを着け、与圧・消毒をしてから外出する。ちなみに母が行くのは家から徒歩5分のスーパーだ。
冷静に考えて異様極まりないこの光景に、夏美や家族はもう順応していた。
「でもそろそろ学校に行きたいな」
「やばいよね、また冬休み延長だよ。いや休みってか懲役。自宅謹慎でしょこれ」
口には出さずに夏美はケータイに打ち込む。
「絶対夏休み削られるってー」
「はは、間違いないわ。でもこの騒ぎが夏までに収まってればだけど」
事態は刻一刻と変化している。
二月の終わりに全国の学校がいきなり休校になった。明日からもう来なくていい。そう突然に言われて、早めの冬休みを喜ぶよりも困惑が先に来た。そんな突然に言われたって。学校に置いた荷物を全部持って帰らないといけないし、どっさり宿題も出た。家に帰った後で普通の冬休みの倍くらいの宿題と解かったときはさすがに頭にきた。
「来年は受験だからってさ、そんなに出すなよ。生徒の事も考えろよね。」
最初はそんな事をケータイのチャットで呟いて笑っていた。夏美も一緒に、
「家に閉じこもってそんなに宿題やってたら逆に病気になるよね。」
と打って笑っていた。
三月は陰惨な月だった。テレビが毎日、
どこかの国の首都が閉鎖された。
穢れは今や全国に広がっている。
スーパーにはもう何もない。
パニックが起きている。
なんてニュースを流し続けた。仲間内でも、さすがにもう笑ってられないよね、という雰囲気になった。
「せっかく学校が休みになったんだし、みんなで映画でも行こうよ」なんて余裕ぶっていたけど、肝心の映画館が閉まっていたり、外出を親に止められたり。やがて夏美は完全に外出しなくなった。
夏美は閉め切っていた部屋のカーテンを少しめくって外を伺う。今しがた外に出た完全防護の母が小走りに道を歩く姿が見えた以外、外には見渡す限り誰もいなかった。
「外は危険です。不要不急の外出は控えてください。」
つけっぱなしにしたテレビからは何度目かの警告が流れたが、夏美は自分で点けたテレビだということも忘れ、ぼんやりとしていた。
三月のある日には外出の際にマスクとお札の着用・携帯が義務化された。そんな状態でも人が世界中でばたばた倒れて、たくさんの人が死んでいるのだ。つくづく現実離れしていると夏美は思う。世界規模の「穢れ」なんて。
「姉ちゃん、公園で遊びたい」
「ダメに決まってんじゃん!今の状況わかってんの?」
思わず叫ぶ。こんな時に一体何を言ってるんだ、という顔で弟を見る。
圭一は不満顔だ。春から小学二年に上がるはずだった、元気いっぱいのこの現役小学生さんは、よほど動き足りないと見えていつも外に出たがっている。せっかく学校行かなくていいんだからじっとしときゃいいのに。まったく。
でも、と夏美は思う。拗ねる圭一の事を自分も言えない。流石に期間が長すぎる。
昨日だか、一昨日だか、
「人間は、終わりが決まっている長期休みが好きだが、いつ終わるかわからない長期休みは苦痛に感じる」って誰かがテレビで言っていた。
ほおっと重い腰を上げて夏美はコーヒーを淹れる。誰も責められない故の、いがいがした気持ちの悪い理不尽さが腹に溜まる。
このところ政府が何をするにしても批判が凄まじい。特に野党やネットからの批判の醜悪さは目も当てられなかった。政府が一世帯あたり二枚の守護符の配布を決めた際には、全国民から批判が集中した。遅すぎる、少なすぎる、現金を配ってほしい。馬鹿だ。アイツじゃだめだ。スーパーから守護符が消えた。国の陰陽師は何をしている。普段払っている税金はこういう穢れが満ちた時のためだろう。お前が穢れにやられて死んでしまえ。
環境保護者は穢れを勝手に人類の悪と決めつけ、
移民排斥者は穢れを外国人のせいと決めつけている。
みんな誰かを責めたい。誰かわかりやすい悪が欲しい。敵は見えない「穢れ」だ。姿のない敵ほど恐ろしい。
去年の年の瀬に、隣の国で突然たくさんの人が死に出した。インターネットを通じて溢れる現地の状況は暗く、活気がない。夏美を含む全員が直感的に良くないものを感じた。良くないもの、「穢れ」という他ないものがその動画から感じられた。
「穢れ」としか言いようのない災厄が地球を覆いつくした。
「穢れ」に長時間触れると人は死ぬ。
気が付くと日に十何時間もネットを開いている。ここのところ毎日だ。
あれこれ見て生まれる、負の感情そのものも「穢れ」を生み出す、という事がなかなか収束しない一因なのかもしれない。
夏美はチャンネルを変えつつ、また外を見る。スーパーの向かいにある小さな公園に生えている桜が、大輪の花を咲かせていた。見る者のいない公園中を花びらが埋め尽くす。毎年この時期には花見客でいっぱいなのに。何年か前には家族で花見したことだって。
あの桜の木にとってはそんな事、どうでも良かったんだ。
カーテンを閉じると再放送のテレビの音が殴り込んできた。何もかもが煩くて、夏美はスマホを放り出し、テレビを消した。
「外に出たい。」
気が付くとそう考えていた。
単純明快にもう限界だ。外に出たい。
死ぬかもしれない。外に出たら本当に死ぬかも。防護服を着た母でさえ往復10分のスーパーが限界なのに。出歩いたら死ぬかもしれない。
でも防護服ならある。母が着て行った防護服の他に、予備が一つ。
どうする。
やるなら今だ。さっき母が出て行ってからもうすぐ10分たつ。行きに5分、買い物に10分と考えると、まだ時間の猶予が10分残されている。
がたがた震えだす足を押さえて夏美は決めた。
「お母さんごめん、わたし外に出ていく。」
夏美は無意識に声に出していた。
「え、姉ちゃん外出んの?」
ドタドタという音が響いて小学生が駆け寄ってくる。
「すぐ帰るから。お母さんが帰ったらそう言っといて」
「今のジョーキョーわかってんの? 今のジョーキョーわかってんの?」
弟は姉の言葉を繰り返してぴょんぴょん飛び跳ねている。
「行くから。」
圭一の顔は、今度は驚きと恐怖で大きく歪む。
「姉ちゃん死んじゃうよ、まじで死んじゃうってテレビで言ってるじゃん」
玄関の二重隔壁まで来たところで、圭一は後ずさった。
「……ほんとに死ぬよ?」
「死なない。すぐ帰ってくる」
化粧は……する余裕もない。
夏美は防護服のマスクに手をかける。こんなに重いものを母は毎日着ていたのか。
「何しに……行くの?」
「友達に会いに」
重い扉を閉めて服の継ぎ目のボルトをしっかりと閉め、政府支給の守護符を防護服越しに胸に貼る。隔壁の外側をしっかりと減圧する。穢れを除去するフィルターは、紙みたいなぺらぺらの網で、これをマスクの内側に貼る。
これが家庭用で性能が悪いために、外気の元で活動できる時間は限られているのだ。
厚い手袋でノブに触れる。玄関側の、外に直接通じる薄い扉だ。
久しぶりに見た。外側の扉。
無骨な鉄の隔壁に比べて木目の浮かぶ玄関扉は好きだ。
隔壁の曇りガラスごしに心配そうな圭一の顔が浮かぶ。いや、泣いている。泣き叫んでいる。拳でドアを叩き、必死で自分を呼び止めている。
声が全く聞こえないからこそ、その光景に夏美は一瞬ひるんだ。自分は今から取り返しのつかないことをしているんじゃないか。
理屈から遅れに遅れて、その深刻さをやっと全身が理解した。
いや、でもここで出なかったらまた後悔する気がする。そうだ、私は生半可な気持ちで外に出ようと思ったわけじゃない。もしかしたら一生外出は無理かもしれないのだから。
自分への言い訳を沢山用意して、沢山鼓舞してやっと玄関のドアノブをひねることができた。
外気。……は防護服ごしでわからなかったが、家の中から全く違う雰囲気に変わったのははっきりわかった。
知った街並みのはずだが明らかに色あせて見える。空に浮かぶ雲の数は少なかったがまるで曇天の様に見えた。それも今まさに大雨が降らんとする直前のように空が暗い。
これが、穢れ。
急に恐ろしくなって足を引きずったが、意を決して夏美は歩みを開始した。
母が帰ってくるまでもう時間はない。無理やり家に帰されてしまう前に急がなければ。
目的地は夏美の町の最寄り駅だ。ローカルの小さな路線しか通っていないこじんまりした駅だが、30分で市の中心の繁華街に行ける。そして、夏美の友達の家にだって行けるのだ。
夏美は友達に会いたかった。
この二か月、チャットの会話文の文字越しからでしか友達と話していなかった夏美は、彼女たちが本当にいるのか信じられなくなってきたのだった。
楽しい会話を装って毎日チャットをしていたが、実際、夏美は限界だった。段々ケータイの中の友達がただの人工知能に見えてくる。一緒に遊んだり、旅行に行ったり、笑いあったり、そんな彼女たちとの思い出は紛れもなく存在するはずなのに、家の分厚い隔離防壁で遠ざけられていると思い出はかすんでいく。
朝、布団の中で虚しく夢の残滓を探すように、必死に記憶を手繰りよせればよせるほど、手のひらから友達が零れ落ちてしまう。
スーパーに通じる道を小走りで駆け抜け、ほっと安心する。
駅までは単純な一本道で、まっすぐ走り抜けるだけでいい。
時間にしていつも10分以内には確実に行けたし、急げば5分弱だろうと思っていた、がどうやら甘かったようだ。
「っ……、」
足がやけに重たい。まるで重りを付けて走っているようで、……いや、実際この防護服は重りでしかないのだが、きっと長い引きこもり生活で筋肉が委縮したのもあるのだろう。うまく走れない。
「ああ、はあ、はあっ」
息はすぐに荒くなり、外出したことを本能が全力で後悔し始める。それを懸命に理性が引き留める。
町には誰もいなかった。
後ろのスーパーに通じる道で数人が往復しているぐらいで、他は誰もいなかった。直線状の道をただ行ったり来たりする数人は、さながらRPGゲームのコマンドを思わせて不気味だった。
子供のはしゃぐ声も、主婦の会話も、学生の楽しそうな声も聞こえてこない。
道はあるところから急にびっしりと雑草が生え始めた。それどころかある家はびっしりとツタと何だかわからない巨大な緑の塊に覆われている。たった十数メートル進んだだけなのに。たった二か月みんなが閉じこもっているだけなのに。
町が町の形でいるのが疲れた、とでも言いたげな荒れ具合に、夏美は立ち尽くした。
「しっかりしなきゃ。弟泣かしてまでここまで来たんだから、進まなきゃ。」
呼吸が明らかに辛くなっている。防護服のフィルターはもう限界を迎えていると考えた方が良いだろう。でも、でも、電車に乗ってしまいさえすれば、中は密閉されていて穢れから身を守れるはずだ。電車にさえ乗れたら、駅にさえ辿りつけば。
何十年も放置されていたかのような雑草の生え放題なタイルの床が見えてきた。
やっと、駅までたどり着いたのだ。
駅名の書かれた建物を見て、思わず声にならない歓声を上げる。
頭に運ばれる酸素はもうかなり薄くなっている。
夏美はほとんど気力だけで歩いていた。みんなと会える。みんなと直接会って話せる。
とっくに期限の切れた電子定期を自動改札におぼつかない手で付ける。何度かの失敗の後に、絞り出したような電子音が夏美の耳に届いた。
ホームへ続く階段をよろよろと下りながら電子掲示板を見ると、画面は吸い込まれそうな真っ黒だった。
……一本、一本ぐらいは走っているかもしれない。
そういえば全国規模で電車の本数を減らすとか何とか言っていたかもしれないな。
その瞬間猛烈な目まいに襲われて階段を踏み外す。
「あっ」
危なかった。すんでの所で夏美は手すりを握りしめて助かった。なんとか電車までたどり着かなくちゃ。
階段を一段ずつ見つめながら下った夏美は、ホームに降り立って顔を上げた。
誰もいない。
ホームにも駅にも誰もいなかった。
「結局、誰にも会わずにここまで来ちゃったな。」
ここで、ここで待ってさえいれば……。
夏美はホームの点字ブロックの上に立つ。たとえ何時間か後だとしても電車に乗れるのならそれでいい。私はそれだけみんなに会いたいという事の本気を示せば……。
あ、
ホームの奥に、錆びついた車両が止まっていた。きっとほんの先月まで元気に動いていたであろう電車が。
車両には黄色いテープが巻かれていて、一般人に対する無言のけん制をしている。一人の駅員もおらず、その電車は二度と動き出す気配もなかった。直感でそう感じた。
ぱたり、と夏美はベンチに座り込んだ。終わりだ。
どうせ、もう助からないんだ。そう考えると何だか笑けてきて、少し笑うと息が苦しい。
もともと電車の中の防護スペースに駆け込むことを前提に無理をしていたのだ、このままだと5分ほどで死んでしまうだろう。
あ、私はこのまま死ぬのか。
クラス替えに、最後の部活、お別れ会に受験に、進学……。そこから恋愛したりして、また友達とバカ騒ぎしてさ、これからも私の人生は普通に続くと思っていたのにな。
老人のように夏美はもうベンチから動けなくなっていた。
死が、怖い。
急に自分が小さい頃の記憶が際限なく浮かんでくる。死にたくない。でももう指先は冷たくなっている。ごわごわした防護服ごしの自分の手は、もう他人のように冷たくなっていた。
どうせ死ぬならゆっくりと死ぬよりも、パッと死んだ方がいいな。
そう思った夏美は防護服のヘルメットに手をかけた。
「あの子です! 電車に乗ろうとしていたんです!」
大きな叫び声がぐわんとこだまして、何かが近づいてきた。
「早くしないと、もう意識を失いかけている」
人……。二人……? 夏美の意識はもう限界だった。
目を覚ますと、身体が軽く、温かった。
私、生きてるんだ。何故だかそこが死後の世界だとは思わなかった。死後の世界ならきっと温かくなくて、もっと寒いはずだ。なぜだかそんな確信があった。
いつのまにか掛けられていた毛布を払いのけて、ここがどこか確かめようとする。どこか建物の中で、清潔で、穢れに対しての防護設備があるようだ。
「ここは駅長室だよ。まだじっとしてなさい」
パリッとした制服をまとった初老の男性が笑顔で答えた。机に向かって何か帳簿を書いている。この人が私を……。
「あの、助けていただいてありがとうございました。」
「礼なら、この子に言ってやってくれ」
駅員さんが顎で示した先には夏美と同じ高校生ぐらいの男の子が心配そうに座っていた。
「その、家の窓から君が駅に向かうのが見えて……。歩き方もふらついていてヤバかったからさ、思わず防護服着て走ってきて、駅員に伝えたんだ。」
夏美はにわかに恥ずかしくなった。
「ごめんなさい、助けてくれて本当にありがとうございました」
「まあ、無事でよかったよ……」
赤くなった顔を上げて男の子をよく見ると、パジャマに学校の制服を羽織っているという奇妙な恰好をしていた。
「その、急いでてさ、この格好の上に防護服着ちゃったよ。」
彼は笑う。
「あの、あのその制服、私と同じ高校のやつです。」
「え、まじで? 何年? 俺、この春で高3……になるはずだったんだけど」
「君のお家の人に連絡するから連絡先教えてくれるかな。」
駅員が冷めた目でこちらを見て訊く。
「あ、はい……」
国民識別番号を伝えている後、夏美は男の子に訊いた。
「どうしてあなたは私を助けてくれたんですか。自分だって危険だったかもしれないのに」
「だってほっとくと君は死んでたかもしれないんだ。そのままにしておける訳ないだろ。」
「ああ、そっか。人間の死はもっと大きな穢れを呼び起こしますからね。」
「そうじゃなくて。」と、彼は頭を掻いた。
「ほっといちゃ駄目だろ。人として」
その瞬間、夏美の耳を爽やかな風が吹き抜けたような感覚がした。何か清らかなものをみたような感じがして、夏美はもう一度
「ありがとうございます」と言った。「私、園田夏美っていいます。」
「ああ、俺は大野誠。本当に同じ高校なのか。って言う事は、もしかして今年同じクラスになっていたかもしれないね。」
誠はどこか寂しげに微笑んだ。何日ぶりかに突然家から出た割に、彼の顔は綺麗だった。
それに目鼻立ちがくっきりしてなかなかの美男子だ。同学年にこんなカッコいい男の子がいたなんて知らなかったな。
「電車。もう一台も動いていないんですか。」
「ああ3日前にな。先月からダイヤは大幅に減ったんだが、とうとう全部止めることになっちまった。」
駅員が背中で答えた。帳簿を閉じてやることが無くなったのか暇そうだ。
「あの電車はゆるやかに死んでいくんだよ」
誠が呟く。
「たった3日なのにあの電車はもう錆だらけだった。見た感じ10年前に廃線になった車両みたいだった。きっとあのまま穢れに飲み込まれていくだけだろう。あの電車も、この駅も、この町も、この国も、いや世界中が。」
夏美はぞくりとした。
「残念ながら、それは事実だ。このままだと経済が死に、人間社会そのものが死ぬかもしれない。」
ゆるやかに、死んでいく。
それは、駅員の持ち込んでいるラジオからかすれた様に鳴っている、過去の競馬実況。
それは、今年の日付が書かれていながら色あせたポスター。
それは、とうに動かなくなった自動販売機。
その言葉は、夏美のお腹の底に深く溜まっていった。
「夏美…!」
「お母さん!」
ちょうどその時、駅員室のガラス窓に防護服姿の母が現れた。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい!」
減圧して駅員室で防護服を脱いだ母に、夏美は飛び込んでいた。
「勝手に家を抜け出してごめんなさい!」
母は泣きながら抱きしめてくれた。力いっぱい怒られる覚悟をしていたのに、母は何も言わなかった。夏美は駅員も誠もいるのも忘れて泣き出した。力いっぱい泣いた。
泣きながら、ふふ、と夏美は心の中で笑ってしまう。
大の高校生がたかだか家から駅に出ただけで大号泣して謝るさまは、とてつもなくシュールだった。滑稽だった。まるで大掛かりなコメディだ。まるで「はじめてのおつかい」だ。
もちろん、そんな事は口に出さなかった。母には本当に申し訳ない事をした、という気持ちは本心なのだから。情けなさと、やるせなさと、申し訳なさがぐちゃぐちゃになって、淡く打たれ弱い思春期の心を打ち砕いた。
「じゃあ行こうか」「うん」
「お世話になりました。」
「娘を助けていただいて本当にありがとうございました。後日必ず礼に参ります。」
「そんな、こんなご時世ですし、結構ですよ。お気持ちだけで」
「その、とにかく夏美ちゃんが無事で良かったです」
通り一辺倒のやり取りが続いて私は誠の顔を見た。たったこれだけのやり取りで、もう一生誠に会えなかったらどうしよう。そんなときの為に彼の顔を焼き付けておかないと。
連絡先の交換はしたくなかった。彼の存在は実感を伴って感じたかった。彼が他の友達と同じように、チャット上の、人工知能みたいな接し方になってしまうのが怖かった。
だから、「いま連絡先を交換するのはやめにして、世の中の騒ぎが収まって、学校が再開したら直接顔を合わせて、再会しよう」と夏美は言いたかったけれど、結局交換してしまった。
「毎日連絡するよ。そのうちオンライン授業も始まるだろうから、その時に話もできると思う。」
家に帰るまでのごくわずかな道のりで、夏美は察する。
「これは私にとって最後の自由なんだ。」
遠慮しつつ、母の手を握る。やはりごわごわした防護服ごしには母の温もりも何もわからない。
あれほど私を突き動かしていた衝動は、もう消えていた。駅員と誠くんの二人に会えて安心したからだろうか。世界にはまだ私たち家族の他に人が生きていることがわかって良かった。
満開の桜が夏美と母の2人の頭上を包み込んで優しく見送る。桜は誰かのために咲いている訳ではない。夏美は玄関の前で何度も振り向いて、最後の外の景色を目に焼き付けようとしていた。
無人の春が来た町は、ただ甘い死の訪れを待つばかりだ。
灰色にくすんだ世界の中で、桜だけが妙に美しかった。