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小説『無原罪の一夜の宿』
『ねえ、1週間会えてないからソワソワしてるの私だけ?』
『なんで近くに住んでるのに2週間おきにしか会ってくれないの?もっとシフト合わせてよ、かーくん』
あんなに付き合えたことが嬉しかったのに。
勝司はもうめんどくさくなって、スマホをベッドに放り投げた。通知音が鳴り、既読をつけないよう覗き見していた彼女からのLINEにまた未読が溜まる。別にほったらかしにしている訳じゃないし、たまのデートやプレゼントにはしっかり金をかけているつもりだ。それなのに一体何が不満なんだろう。
『ayano miyaki: そういう問題じゃない』
ホーム画面にまた通知が載る。
そろそろ何か返信をした方が良いかと思いつつ、綾乃が求める同棲やその先の結婚をほのめかす内容に、返信内容は一向に思い浮かばない。遮光カーテンの作り出した暗闇で、ひとしきりウダウダした後でようやく適当にあしらう返事をした。
『あーね笑 てか電話やったらするからさ』
休みの日くらい自由に過ごさせてくれよ……。
夜勤明けの半身は、起き上がるだけでパキパキと音をたてた。LINEを閉じてマッチングアプリを開くとそこには、勝司に同棲や転職を無理に言ってこない女の子達で満ちている。俺は自分のペースを乱されたくないの。
低い座卓の上のスペースを作るため、奨学金未払いを知らせる封筒やら10ページ目で止まっている行政書士の参考書を払って床に落とした。
勝司には夢がある。
「行政書士とFPの資格勉強してさ、俺ビッグになるから。あ、ファイナンシャルプランナーね」
ついに2週間に一度会えば良いみたいになってる綾乃には語っていないが、友人にはよく語っている夢だった。カリスマホストや経営者の語るキラキラした世界を、小さな画面の動画でめいっぱい摂取すれば、夢想の世界では薄暗いワンルームも煌めく大豪邸のような気がした。
「男は野望とか夢の話もその過程も、女には話さないものなの!」いつか飲みの席で語った自分の言葉がリフレインする。
「仕事もやめてさ、ビジネスに専念しようと思う」
『お金の話や経営者の話がびっくりするほど新鮮でした、と嬉しい感想をいただきました!私は皆さんの金融リテラシーを上げるためにお話します!』
『私もビジネスをまだ学んでる段階ですが、その先にコンテンツ販売なども視野に入れています😊』
『もし良かったらイベントに参加してみませんか??この時代人脈が生命だと思っているので、情報交換ができればと!😆』
『勝治くんさあ、言いたくないけど舐めてるよね?同年代の子でも成功と成長のために200でも300でも喜んで払う子はいっぱいいる。自分への投資は惜しんじゃダメ』
『ほんと頼むわ。すぐ返すし何なら焼肉奢るからさー』
『ネットワーク、商談全然取れないしやっぱりやめたいです』
『勝司くん、ここまで来て諦めるの?』
『通話 2:34:51』
『ありがとうございます!もうちょっと追加投資して続けてみます!』
『は?舐めてんの?状況わかってる?今日中に払えてねえとやべえんだって』『すみません』『雀部さん、ありがとうございます!』『すみませんでした』
『ayano miyaki: ねえ最近連絡ないけどどした?何か怪しいことしてるってほんと?』
『どんなのありますか?来月までにまず50万返さなきゃいけなくて』
『タタキ、の仕事になります!消費者金融から借りたんですか?』
『いや友達からで。いつお金もらえますか?』
『1日でタタキやれば100万は即金ですよ!身分証とかあります?』
『画像』
『ありがとうございます。勝司さんですね。お住まい近くの関東地方のタタキ案件をご紹介します。』
『綾乃、元気?記念日だよね。えっとプレゼント。』
『ayano miyakiはこのスタンプを持っているためプレゼントできません』
『あれ?ごめん』
いつの間にか勝司は指定されたバンに乗って、強盗の現場へ向かっていた。
まるでその場に瞬間移動してきたかのように、よく読んでいた「異世界もの」で言う転生の瞬間のように、気が付いたら人生詰んでいた。
『今回は一撃100万案件です。70代のババア一人と20代の孫娘が一人。孫の方は外出中のはず。抵抗されても投資詐欺やっちゃってるババアなんで、遠慮なくやっちゃって下さい』
その無邪気な文面に身がすくみそうになり、勝司はなるべく目先の100万円に集中しようと車中の低い天井を見つめた。
「あの……、フェスのバイトって聞いてたんですけど!」
隣に座っていた青年が車内の沈黙を破る。大学生だろうか、勝司より少し若いくらいだろうか。「普通の……フェスの設営のバイトだと思って広島から来たんすよ!ぼ、僕、これから何やらされるんすか!」
運転手はずっと黙っている。どうやら「運び」で募集された者らしく、「タタキ」で募集された勝司たちとは面識がないし関わりたくもないのだろう。勝司はため息をついた。
「フェスの準備だけで、100万も、広島からの交通費も出る訳ないじゃん。これ、闇バイトだよ」
青くなった大学生の顔を見て舌打ちをする。自分がこれから何をさせられるかもわかってない可哀相な奴だ。こういう奴が指示役からはすぐに切り捨てられ、使い捨ての前科者になってしまうんだろう。
だがその点自分は違う。自分はある程度のリスクがあるのをわかった上で参加している。つまり払うべきコストを払って行動をしている。これが成功者だ。上手く捕まらずに逃げ切って、指示役だって逆に利用してのし上がってビッグになるんだ。
勝司はせわしなく貧乏ゆすりをしながら、バールを固く握りしめた。
立派な門を構えた平屋の日本家屋がそこに建っていた。ここが「現場」らしい。勝司と大学生の2人が降ろされた後、バンはあっという間に走り去って見えなくなってしまった。「作業」後にも迎えが来ると聞いているがあてにはならないだろう。大学生の方を振り向くと気の毒なほど顔が青くなって震えている。「無理ですって。聞いてないですって。」そればかりブツブツ言っている。そして。「おい!」
急に走り出した大学生は交差点を抜けて大通りの方へ逃げ去ってしまった。「まいったな」勝司は路地に隠れて指示役に電話かけようとするが繋がらない。証拠が残らないよう電話は禁止されていたことをすぐに思い出し、舌打ちしてテレグラムでメッセージを送った。
『同伴してた人がトびました。』
『あらら笑。勝司さんだけでタタキやります?報酬上乗せしますよ』
「笑、じゃねーだろ……」相変わらず軽い口調にイラつきながらも勝司は返信した。
『了解です。やります笑』
あの逃げ出した大学生、身分証バレてるだろうが上手く逃げられると良いな。それなら俺は一体どこで間違えたんだろう。勝司はぼんやりと回想していた。思えばほんの3年前だったか。勝司は彼女持ちでそれなりに充実していた。さらなる冒険と上昇を求めて怪しげなビジネスの世界に足を踏み入れたが、口座の金は減っていくばかりだし、華やかな女の子とは深い関係にはなれなかった。大半の友達を失った。ああ、綾乃は今頃どう過ごしているだろうか。恐らく他の男を受け入れることはないだろう。俺のことを恨めしく思っているに違いない。もう一度会えないだろうか。今なら本当の幸せが何かわかる。何をすべきだったかがわかる。もう俺も闇バイトなんてやめよう。人生をやり直そう。綾乃に許しを請い、連れ戻し、できる限りの償いをしよう……。
もう辺りは薄暗くなっていた。
ふと玄関にかかっていた表札が目に入る。
「宮木」……。
まさか綾乃の実家なのか?
確かにここは郊外の方だが、宮木綾乃の実家はこの辺りにあったと彼女の口から言っていたような気もする。綾乃、実家に戻っていたのか。
バールを引きづって、土にジャリジャリという音がする。意を決して中に入ってみると、広い屋内は明かりが点いておらず真っ暗だった。物音も聞こえない。留守、ということだろうか。古い家特有の長い廊下を歩き、暗さに目が慣れてきた頃、一番奥の部屋からぼんやりと、薄明るい光が漏れている。思い切って勝司はその扉を開けた。「誰?」
綾乃は暗い照明の中でパソコンを叩いていた。恐らく彼女が事務職で働いていた会社の持ち帰り残業だろう。
「綾乃……。」「かーくん!?」
言うが早いか2人は抱き合っていた。「ごめん。本当にごめん。」「うん…うん…」そんな資格はないと思いつつも、昔そうしていたように勝司は綾乃の髪を撫でた。艶やかで美しい髪だった。彼女は変わっていなかった。記憶の中の通りに美しく、笑い泣きする顔は少しあどけないところが可愛かった。「今まで……綾乃を置いていってしまって本当にごめん。そしてこの3年間で俺がやってしまった酷い事を、残らず話さなきゃいけない。」
「うん。ちゃんと聞かせて。でもかーくんが無事で、ちゃんと帰ってきてくれて嬉しい。」彼女の歌うような声は、どんな思い出よりも甘く、勝司は喜びに満ち溢れた。何度も彼女を抱き寄せてキスをした。
勝司は彼女の傍らに座って、一切を話した。どれほど深く自分のわがままを恥じたか。「人脈」やビジネスで自立した人間に憧れ、怪しげな情報商材を買わされたこと。自分でもそれが何なのかわからなくなった「成功」を追い求めて足掻くうちに4桁万円の借金を作ってしまったこと。ただ目先の金欲しさに闇バイトに応募し、取り返しのつかない事をしようとしていたこと。どれほど綾乃がいない日々が不幸であったか。どれほど償いができればとおもっていたことか。どれほどやり直せたらと思っていたことか。
そしてこうして再会できたことは本当に奇跡であること。
綾乃は軽く目を閉じながらじっと話を聞いていた。そして勝司が心から願っていた通りの優しさでゆっくりと答えた。
「かーくん、自分を責めないで。私は本当にかーくんと付き合えて良かったと思ってるよ。一緒にデートした時、かーくんは優しかった。楽しかった。連絡が来なくなっても、どこかで無事でいてくれたらってずっとずっと思ってた。もう謝らなくても良いよ。かーくん。だって帰ってきてくれたことだけで十分なんだもん」
勝司は嗚咽した。あまりに自分勝手な振る舞いの全てを受け止めてくれた。ああ、一生彼女を大事にしたい。もう過ちを繰り返しはしない。
「たとえ一瞬でもこうして会えて嬉しいよ。かーくん」
「一瞬じゃない!もう離れないでずっとそばにいるから!」涙でぐしゃぐしゃになった勝司を、綾乃はそっと撫でた。
「明日からでも真っ当な仕事を探し始めるよ。そして少しずつ借金を返す。綾乃が嫌じゃなかったら将来のことだって沢山話し合って決めよう!」ほとんど悲鳴のような声で勝司は唸った。「今夜はただ、綾乃に会ってこの気持ちを伝えたくて、こうして……!」
「ありがとう。」
綾乃は微笑んだ。
それから、今度は彼女の側で起こった3年間の出来事を話してくれた。
ただ綾乃自身の悲しみについては口にすることは無かった。2人は夜通し語り合った。彼女が敷いてくれた布団はすこしカビ臭かったが、それすらもいつかのデートで泊まった旅館のことなどが思い出されて、語りたいことが次から次へと溢れだした。2人は横になったが眠らなかった。
眠れないほど話すことがたくさんあった。過去と現在、そして未来のことを話し合った。勝司は久しぶりに心から幸福だった。安心の中でやがてまどろみ、眠った。
目覚めると勝司は床の硬さと異臭に気が付いた。
どうやら固い床に直接、上布団だけをかけて寝ていたらしい。そして身体がベタベタする。この臭いは何だ?彼女に声をかけようときょろきょろと見渡すが中々視界に入らない。夢を見たのか?
あっ。
起き上がろうとしていた勝司の腰が砕けた。
そこに転がっていた女性は、綾乃とはにても似つかない老婆だった。頭から流れた血は既に黒く変色し、顔は腫れあがり、息をしていない。生命が喪われたそれはもう物言わぬ遺体となっていた。
「あ、あ、あ、綾乃!綾乃、」
必死でその名前を呼ぶが、徐々に冴えてきた勝司の頭脳は、その行為が無駄であることに自分で気づき始めていた。
昨日の晩、この家に綾乃はいなかった。そしてこの老婆は俺が殺した。
強張った両の掌を開くと、バールを握っていた感覚がありありと思い出された。そうだ、俺は窓を割った。明け方の日が差す廊下の奥の玄関には、荒い破片が飛び散り、大穴が開いている。そしてこの一番奥の部屋にババアがいた。ババアに金の在りかを訊いても答えなかった。
勝司は徐々に顔じゅうから血の気が引いていることに気が付いた。
ババアは投資詐欺で儲けた金を隠し持ってると聞いていたんだから、当然だと思って……。胸倉を掴んで右こぶしで殴った。
知らない、知らない、と何度も言っていた。顔を蹴り、何度も何度も殴った。ババアが動くなくなった後に家中を探したが、僅かな額の通帳以外に大したものは無くて……。
『お疲れ様です。タタキ終わったんですが何も出てこないスよ?』
『あちゃー笑 おつかれした』
『投資詐欺でたんまり貯めこんでる悪徳ババアだって…』
『その方が気持ちノるでしょ?w ま、今回は運がなかったですねー』
全てを思い出して勝司は絶叫した。では、昨晩の綾乃は俺が作り出した幻だったのか?いや、俺は綾乃の祖母さんを殺して……。
部屋を見渡すと、箪笥の上に写真立てが置いてあった。そこに老婆と一緒に写った若い女性は、……綾乃とは全くの別人だった。
遠くからパトカーのサイレンが近づいてきている。
綾乃……。綾乃はどこにいるんだ。綾乃……。
ここが全くの赤の他人の宮木さん宅だとすると、綾乃はどこへいるんだ。
荒い息をしながら、勝司は血の付いた手で携帯をスワイプする。
唯一縁が切れていなかった、綾乃との共通の知人だった沖田うるまという人物の電話番号を知っている。震える手で五十音をスクロールし、彼女に電話を掛けた。家のどこかの窓から赤色灯の明かりが入りつつある。
『え、あんた勝司?今どこで何してんの!?』
『……あ、ああ。なあ綾乃って、宮木綾乃って今どうしてるんだ?』
『はぁ?あんた連絡取らなくなってからマジで知らんのな。いいか?綾乃ちゃんはもう結婚して苗字も変わってるし子供もいるわ!
アンタとは二度と会いたくないって。今更何か謝ろうとか来ないでほしいって!』
はは……。はは。
電話が切れ、勝司はその場にがっくりと崩れ落ちた。玄関が開き、警官と捜査員が廊下に上がる音がする。
(終)
原案:『今昔物語』巻27「人妻死後旧夫語」12世紀
『雨月物語』「浅茅が宿」上田秋成(1776)
短編集『影(Shadowings)』「和解(Atonement)」小泉八雲(1897)