今更ながらアナ雪2読解―なんでこんなに複雑なのか、三つの視点から解説してみた
よーやく観た。
ムズイ。アホなので、1の時点で口をポカーンと開けて混乱していたが、2はそれに輪をかけて複雑である。
当然、映画館ではもうやっていないので、ディズニープラスで観たのだが、Twitterが気になって二分くらいスマホをいじっていると、もうストーリーが分からなくなっている。まずスマホをいじりながら映画観るなよ。はい。
なぜこんなに複雑なのか? それはこの作品が、以下の三つの視座を重ね合わせて構築されているからだ。
三つもあるのか。三つもあるんです。よくこれを百分の映画に収めようと思ったよな。ちょっとディズニーが本気出しすぎてて怖いです。
この記事では、上記三つに焦点を当てて、アナ雪2が何を描きたかったのかを解説してゆく。「1」「前作」と書いてあれば、『アナと雪の女王』を、「2」「今作」と書いてあれば、それは『アナと雪の女王2』を指している。
①前作におけるアナとエルサの不健全な依存関係の解消
まずは①。本作では、導入となる子ども時代の両親の物語を挟んで、幸せなんだけど、何となく違うって気がするわ、もっと私が生きるのに相応しい場所がどこかにある気がするの、そんな日常生活に虚無感を抱く丸の内OLっぽいエルサの居心地悪さを提示するところから、物語は始まっている。国民には氷の力のことはカミングアウト済なんだけど、どうも女王陛下は、アレンデール王国にご不満な様子である。
結論から言うと、この違和感は正解で、彼女には本当にもっと相応しい居場所があったのである。かといって、「笑いの国は結局自分の家でした、よかったね、てへぺろ」というアトラクションもあるので、自分探しのために荷造りするのは慎重に考えてからの方がいいです。
さて、アナ雪1で描かれるエルサは、レリゴーで気持ち良さそうに力を解放した後にアレンデールに帰還し、国民たちと平和にスケートなんぞで戯れていたが、2の本作でのエルサは、まじでトンズラしたまま帰ってこない。1と違って、2は、「行ったっきり」の物語なのだ。
なぜそんなラストにしたのか?
それは、1の批判として挙げられた、共同体の在り方にある。
1では、エルサの圧倒的な力――2の作中で「ギフト」とも呼ばれた――は、すったもんだあった挙句、大衆に受け入れられて初めて意義を得る。かいつまんで言うと、雪山で自作のお城に引きこもってロンリーハッピースローライフを満喫するのはいかん、せっせと大衆のためにスケートリンクでも作りなさい、そうしたらここにいるのを許してあげるから、ということだ。要は、マイノリティはマジョリティに「認めてもらう」ことで、初めて存在価値があるという結論に繋がりかねないのである。
これは、『ソウルフル・ワールド』においても似た構造が見受けられる。つーかよく考えたら、ディズニーって、そういう流れって多くね? ……というのが、以下の記事にあったので、一緒に読んでください。いい記事だなあ。
すごく良くできている作品だが、社会性がありすぎて…『ソウルフル・ワールド』(配信)
上記を踏まえたのかどうかはよく分からないが、本作では、以下の三つの描写により、共同体の権力の解体を図っている。
一つ目は、そのまま、エルサを既存の共同体から離脱させること(要するに、アレンデールからトンズラさせて彼女を自由にすること)。これはストーリーのラストで補完される。
二つ目は、アレンデールを流れゆく時の流れの中に配置することで、共同体の強固性を剥奪し、流動的なダイアグラムへと捉え直すこと。カッコよく言っているが、要はエルサがトンズラするだけでは、共同体の権力は保存されたまま何も変わらないので、共同体は絶対的な正義ではない、という事実も、同時に作品内で示さなければならない、ということだ。これは、アレンデールは必ずしも輝かしい歴史だけを積み重ねてきたわけではなかった、というメインストーリーによって補完される。
そして、三つ目。共同体の権力が、個人から分離するのを明示すること。一つ目、二つ目は、共同体の外部から提出された解決策に過ぎない。共同体の内部においても、変革を起こす必要があるのである。そんな描写あったっけ? ないよ。だけど、似たようなラインをなぞる人物は存在する。それがアナである。
シスコン極まる妹、アナ
哀しいサブタイトルだ。
1でレリゴーしてしまったエルサを連れ戻したのはアナであり、徹頭徹尾、アレンデールに戻るように催促する。城を出たこともないお姫様が、文字通り、海を越え山を越え説得しにきてて、ちょっとこの熱意にはビビりました。
それが王家の一員としての責務であると同時に、エルサへの愛の証であり、「絶対に見捨てないよ!」であったわけだが、その努力がもしもエルサの真の幸福に繋がらなかったとしたら、どうだろうか。アレンデールでの生活に違和感を覚えるエルサの目からすれば、彼女はどのような存在に映るのであろうか。
けして間違ったことを言っているわけではないのだが、姉のことが好きすぎて、振り切ったテンションと距離感でベタベタしてくる。頼む、たまには一人の時間をくれ。そう、愛という名の感情でこっちを束縛し、安全の範疇へと引きずり込もうとするめんどくせー女。1では、愛によってエルサを救済したアナだったが、2では、まさにその依存関係によって、エルサを既存の居場所へと縛りつけてしまう人間として映ってしまうのである。
スティグマを持つがゆえに強力な者、エルサに対して、何も持たざる者、アナ。孤独だった姉妹の幼少期は、実はエルサ以上に、アナの人格に深刻な影響を与えていたのだった。1で描かれた通り、ある時から突然、理由も分からずにひたすらに姉から拒絶され続け、唯一の愛情の源泉であった両親は、事故であっという間に亡くなってしまう。この国はこれからどうなるのか、果たして姉と和解できる日は来るのか、そして何より、自分には愛される価値があるのか、それらの疑問は、すべての根本原因を知っているエルサよりも、何も打ち明けてもらえないアナにこそ、不安という形で重くのしかかっていったのだろう。
そんな彼女が、自らの愛情をトリガーとして姉と和解できたのであれば、エルサに依存するのは当然だ。1から三年後を描く2では、依存っぷりに磨きをかけたのか、そのベタベタ感はさらなる輝きを増している。すぐにエルサの手を握ってくるし、「あたしも行くー」と、駄々っ子のようにめんどくさい発言満載だし、恋人を置いて山を越え谷を越え、どこまでもエルサを追ってゆく。ちょっと怖い。それはやはり、彼女に自信がないからこその行動なのだ。扉を閉ざされ続けたトラウマを抱く彼女にとって、言わば心の扉を開いたエルサは、アナにとっての復活した「居場所」なのであり、同時に、ふたたび扉を閉ざされやしないかという恐れの源泉にもなっているのである。大丈夫、大丈夫、落ち着いて、たまーに遠いところを見つめているみたいだけど、エルサはいつだって、あたしのことを愛してくれてるの。だって、だって、エルサは、あたしの愛を受け入れてくれたんだもの。だから安心して、エルサが、あたしのことを置いてゆくはずないって!
悪意ゼロというのは、時に悪意があるより、一層のこと厄介だったりする。この姉妹は確かに、互いを大切に思い、愛しあっているのだが、しかし根底は別グループに属しており、それを隠して相手に尽くそうとするがゆえに、互いの意思が噛み合わず、空回りしてしまうのだ。それは冒頭のジェスチャーゲームからもうかがえる。先攻を取ったオラフとクリストフが、最高のコンビネーションで全問正解したのに対し、アナはポキポキ骨を鳴らしつつ、
とフラグを立てて、いざエルサのジェスチャーゲームへと臨む。しかし次の瞬間、映し出されてきたのは、今いちゲームにノレずに照れまくるエルサのへっぽこジェスチャーと、彼女に気を遣いまくったアナが、気まずい沈黙を回避しようとして、的外れの答えを矢継ぎ早に口にする光景であった。うわあああ。観ていて辛くなるからやめてくれ。もうお分かりだろう、アナは、エルサの意図することを理解してあげることはできないし、エルサはジェスチャーでもって何かの「真似」をして、自分以外の者になりすますことはけしてできない。挙げ句の果てに、ゲームの最中に聞こえてきた別の歌声に気を取られ、
とイントゥジアンノウンしてしまうのだから、うーん、まあやっぱり、エルサはアレンデールを出た方がいいんじゃないかな。
要するに、愛と、帰属するべき居場所がどこかという話は、それぞれ別の問題ということだ。しかし姉大好きっ子のアナは、その事実を受け入れることができない。
アナにとっては、これが「変わらないもの」、いや、そうであってほしいのである。ゆえに変わることをおそれ、エルサを既存の関係に繋ぎ止めることで、前作のような孤独に陥るのを回避しようとする。ええっと、ねえアナ、今回は私一人で、魔法の森に行こうと思ってるんだけど……?「でもあたし、ノースマウンテンを登って、凍った心を溶かして、エルサを元カレから助けた、魔法なしで! だからいい? 一緒に行く!」……はい。
だからこそ、アナとエルサの二人は離れて、自立しなければならなかった。二人が依存関係に陥る限り、それぞれの自立は叶わない。けれども、1で描いた姉妹愛も否定せず、互いに心は通じ合ったまま、触れ合える位置にいなければならなかった。冒頭の「みんな一緒」という願いも虚しく、一人、また一人とばらばらになってゆく中で、最終的にアナは「今、なすべき正しいこと(The next right thing)」を見つけ、エルサへの執着ではなく、自らの使命を悟って行動してゆく。この自立性の描写こそ、姉妹二人にとって、どうしても不可欠だったのだ。愛することが「依存」や「馴れ合い」になるのを防ぐためには、他人を尊重すると同時に、自己に対する自信も持たねばならない。オラフは消えてしまったし、エルサも遠くへ行きすぎてしまった、クリストフは特に思い出されもしなかった、けれどもそこで立ち止まるのではなく、「自分にもやれることがある。やらなきゃいけないことがある」という使命を悟って、アナは新しい一歩を踏み出してゆく。
彼女の歌う、「わたしにできること」の初めの方の歌詞はこうだ。
今まで知っていた人生が終わってしまった? なら未知の人生を始めるしかないじゃない! そして心の声にしたがって、自力で進み始める、これこそアナ版の「Into the unknown」なのである。それはアナにとってもまた、他人に委ねることのない真の居場所を見つけた一瞬だったに違いない。エルサの高らかな「I am found!」という宣言は、未知の世界の中に自己の心の声を発見した感動であり、それはそっくりそのまま、エルサのいない世界で王家の責務を果たそうとするアナにも適用されるのである。
これによりエルサは、自己の力を大衆向けにチューニングすることなく、最大限解放できる真の居場所へ向かって、安心して故郷を離れることが可能となったわけである。愛と、帰属するべき居場所がどこかというのは、それぞれ別の問題。ならば反対に、それぞれの生きる場所が変わっても、姉妹の間に横たわる愛は変わらないというわけだ。この姉妹の「持つ者と持たざる者」のテーマはそのまま、その優位性を反転した形で、『ミラベルと魔法だらけの家』へと引き継がれてゆく。ちなみにミラベルはどう見てもカルト宗教に染めあげられた家族の話なのに、最終的には「家」に回帰してゆくんだから、私にはよく分かんないです。
②キリスト教徒とサーミ人の歴史的問題の可能性模索
さて②である。
様々なところで論じられているが、本作のノーサルドラの人々のモデルとなったのは、サーミ人だ。精霊を信仰する北欧先住民だが、キリスト教の布教とともに弾圧され、徹底的な同化政策が取られた。この前提知識がないと、本作は理解しがたいだろう。作中にはその精霊信仰をなぞって、五つの精霊が出てくるが、これは四大精霊に、後付けでエルサの氷属性を足したものと思われる。
しかし本作で重要なモチーフは、「氷」以上に「水」である。つーか、被ってるじゃん、氷と水って。エルサ必要なんですか? もちろん製作陣は、被りに意味を持たせてエルサを配置したのである。
この映画で繰り返し説かれるのは、「水は記憶を持っている」ということだ。オラフのホメオパシーに通じるこの発言には爆笑したが(つーか単純にやばいだろう)、いったん彼の主張を飲み込んでみると、この作品における水の特性は、
不変ではなく、流れ、移り変わる
移り変わっても、かつての記憶を保持している
という二点になるだろう。読者のみなさまには、「ああ、ディズニーはきっと、祖先や民族の血みたいな、集団の中で受け継がれてゆく記憶を表現したかったんだなあ」と思っていただければ、それで構わない。
そして、この水と対極に位置するモチーフが、ダムや、氷(エルサの力)なのである。それぞれのモチーフがどういう立ち位置なのか、順番に見てゆこう。
ダムってなんだよ
オープニング、エルサたちの両親が物語る神秘的な二つの民族の昔話の中で、満を辞して放たれた「ダム」という現代的な言葉。他に言い方なかったんか?
世界観の差異が明らかすぎて、ダムはどうせろくでもない何かであることがモロバレだったのだが、筋書きは観客の予想を裏切らない。ノーサルドラの指導者によると、ダムの正体とは、こうである。
抽象的で分かりにくいが、ここでの「水」は、「民族の血」とでも捉えれば良いか。「森」は、四大精霊の力に育まれている、ノーサルドラの民族の魂そのものである(だからこそ、民族の魂は「This forest is beautiful.」と賛美されなければならない)。重要なのは、「cut off」、つまりノーサルドラを世界から切り離し、隔絶の方向へ導いているということだ。どことなく民族浄化を連想させるような言葉選びである。
ダムは治水の役割を持つ。ダムによって、本来、自然に移り変わりながら流れるべき水は堰き止められて、孤立したまま、身動きの取れない状態である。これはそのまま、澱んだ霧(とはつまり、空中に凍りついた微小な水の粒だ)に閉鎖されたノーサルドラの現状、そして過去の記憶に囚われて動けない人々の心情ともリンクしているわけだ。
ダムは、「太陽の民」を自称するノーサルドラの人々のアイデンティティを、その霧(よー分からんが、ダムから発生してるんか?)で剥奪してしまい、人々は過去に拘泥して、外部に助けも求められぬまま、明日へと進めない。要するに、夜が明けないのだ。ノーサルドラには、生まれてから一度も太陽を見たことのない子どももいるという。呪いの記憶は世代を超えて続いてゆくがゆえ、例え子孫であろうとも、過去の影響から逃れることはできないという、過酷な現実認識の表れである。
しかもダムは、対外的には、アレンデールから贈られた「平和の象徴」なのだ。実際は、その正反対の意図が含まれていたわけだが、加害者側にとって都合のいいように、「歴史」が作り替えられているのだ。実際、アレンデールの国民どころか、アナやエルサであろうとも、この秘密を知りはしなかったし、両親がポロリと「魔法の森」のことを漏らしてくれなければ、このアレンデールの汚点とも言える事実は、闇に葬られるばかりであったろう。また、霧があるゆえに「ここ(=アレンデール)は安全ね」と呑気に語る母の言葉は、加害の過去を黙殺することで安寧を手に入れる、加害者側の子孫の欺瞞性をも感じさせる。本作はここにメスを入れてゆくのである。
氷ってなんだよ
氷とは、言わずもがな、水を凍結させたものだ。そして水は、過去の記憶を保持している。しかしその水は流れ、移り変わり、その記憶を完全に再現することはできない。ならば反対に、「変わらないもの」として、水の中に眠っている過去の記憶を、純粋な形で結晶化したものが「氷」ということになろうか。
冒頭の一曲、「ずっとかわらないもの」の中で、エルサはこう歌っている。
さらーっと歌っているが、この数行の中に、重要な概念が全部詰め込まれている。これを見逃すと、またストーリーが訳が分からなくなってくること請け合いである。ツイ廃にはなかなかキビシイ。
さて、まずは「時間」の動詞として、水と氷のそれを用いて表現していることに気づくだろう。これを裏返すと、水と氷は、時間に関する重大な関連性を持っているということだ。
次に、slip awayとfreezeは、この作品では対義語で、「時が過ぎ去る」「時がフリーズする(止まる)」ことを表す。前者が水、後者が氷だということを加味すると、水は時とともに移ろいゆくし、氷は時を封じ込めて停止するものというわけだ。
そして最後に、私たちが時の流れに対して、何か操作を加えることはできない。できるとしたら、時ではなく、「I(私)」が何か行動を起こすことだけだ、ということ。ちなみにこの「go out」は、ラストでエルサが国外へとトンズラする伏線となっているのだろう。
変わるものが水、変わらないものが氷。どちらも元は同じ、そして同じ記憶を分かちあっているはずなのだが、「水」に囲まれた環境で鮮やかな秋を謳歌するアレンデールと違って、ノーサルドラやアートハランは霧や氷に囲まれ、いかにも寒々しい。これらの土地の間には、同じ過去の一点に対して、決定的な認識のずれがあるのだ。
「変わらないもの」は、常に素晴らしいものとは限らない。1を通じて表現した人間間の愛だけでなく、2のテーマとして取りあげられた、民族の受け継ぐ憎悪の記憶もまた、変わらないものなのである。移りゆく季節を楽しむアレンデールとは対照的に、ノーサルドラは惨劇の記憶に膠着している。これは悲劇的な面での「変わらないもの」である。
だがエルサがノーサルドラへと赴き、氷に触れ、記憶を追体験することで、初めて事態は進展する。同じ過去を追憶するにしても、水を通じてその記憶に触れることとは、意味合いが違う。なぜならば水は、移り変わってゆくものの象徴なので、過去を slip away、つまり「もう済んだこと」として押し流してしまうのだ。ハクナ・マタタ風に言うと、それこそが今を楽しく生きるコツであるとも言えるのだが、それが許されているのは、過去に特に拘泥する必要のない、恵まれた者に限られるであろう。
霧に閉ざされた世界にたたずむノーサルドラの人々にとっては、そうではない。過去とは、どんなに足掻いても、けして水に流し得ないものなのだ。例え加害者は気軽に忘れたとしても、被害者の脳裏にはこびりつき、けして忘れることができないのだ。彼らの記憶の中に凍結している、痛いほどに生々しく冷酷な過去の瞬間に触れること、歴史上のただ一点を、すでに過ぎ去ったこととして眺めるのではなく、まるでまさに「今、ここ」に繰り広げられている出来事であるかのように引き受けて想像すること、それが氷のうながす意義なのである。えー、なんで氷の中からいきなり過去の人たちが飛び出してきたり、死んでいるはずのお母さんがまるで生きているかのようにエルサに歌いかけたりしたのか、お分かりになりましたでしょうか。例えるなら、氷河が時に何万年も昔の空気を閉じ込めたまま、現代まで延々と凍りついているのと同じことなのである。
そして、加害者の方から被害者へと接近し、歴史を認識し直す姿勢を強調しているのも、見逃せないポイントだ。けして加害者の方から被害者に、「過去の赦し」を迫るものではない。アクションをするのは、あくまで加害者側なのだ。これは「喧嘩両成敗」的に加害者と被害者を裁いてしまった『ポカホンタス』の結末から、明らかに一線を画していると思われる。
そこから一気に過去の記憶の中へ潜り、祖父のもたらした災禍を知って衝撃を受け、エルサはその場に凍りついてしまうのだが、「わたしにできること」の歌を経たアナがダムを決壊させると、エルサは氷解し、ふたたび、国を守るために奔走する。自分でも書いてて、意味が分からなくなってきたな。でも映画ではそうなってるんです。ホントだってば。表面のストーリーをなぞっただけでは「?」となるが、これも暗喩と捉えれば、意図は明白だ。レリゴーのように「過去は過去」と似非・ポジティブシンキングで切り捨てるのではなく、また母親の口ずさむ子守唄が警告するように、過去の重さに立ちすくんで絶望し、そのまま水の記憶の中で溺れてしまうのでもない。変わらない過去に触れた上で、そこからさらに現状を変革してゆき、未来へと踏み出す覚悟が必要だということを物語っているのだ。
ちなみに、過去の奥深くへと潜る、という下降の運動は、今作では、太陽の上昇する運動と各所で対比されている。アートハランの奥地で、暗闇に飛び降りて隠されてきた過去に立ち会うエルサや、「わたしにできること」で、
と、文字通り光に向けて上昇してゆくアナの歌詞や動作と対応している。
という、子守唄に秘められた母からの警告は、奥底へと潜りすぎたエルサを引き上げる、このアナの上昇運動を示唆する。季節が秋(fall)なのも、この下降運動の暗喩のライン上にあり、最終的には物語ラストにおける、
というエルサの発言にまで繋がってゆくのだった。閑話休題。
過去の真実を知ったら、必ず、現在に戻ってこなければならない。死者の歌声に呼ばれて遠い過去へと旅するエルサを、生きているアナは、「わたしにできること」を歌うことで、生の世界へと繋ぎ止める。母の子守唄とアナの「わたしにできること」は、エルサにとって、対の関係だ。アナがエルサを呼び戻す――けれども、もうあの頃のベタベタひっつき虫の妹としてではない。自立心と責任を兼ね備えた、今を生き抜く王家の一員として、エルサの心にまで「立ち上がれ」とメッセージを届ける、というのは、この映画の中でも一、二を争うエモポイントであろう。そして、これは同時に、「加害者の子孫は謝罪の証として死ね」という過激な報復論からも、作品を守り抜いている。過去と心中するのではない。我々は過去を背負いつつも、それに沈むのではなく、「現在、何をすべきか」を考えて生きねばならない。そういった意志が、この歌には込められているのである。
そしてラストへ
ダムの決壊は、加害者が蓋をしてきた過去と向き合い、堰き止められていた記憶を、現在へと解放することである。加害者たちが過去の罪を認めることで、被害者たちの感情(=ダムの水)は一斉に加害者たちへと向かうこととなるが、しかしその粛清的な報復もエルサの力が否定し、両者和解という未来を模索してゆく、という道に希望を託す。
そして堰き止められていた過去から解放された人々は太陽を仰ぎ見、クリストフとアナは将来を誓いあう。解放されたノーサルドラのトナカイたちは、アレンデール側のトナカイであるスヴェンとともに歓喜に酔い、草原をぐるぐると駆け回りながら、調和の象徴たる円環を描くのである。言わずもがな、季節は一巡すること、太陽は落ちてはまた昇ること、過去に潜っては現在へと回帰すること、自然界の普遍的な運動曲線、そのすべてが、トナカイの描く円環には込められている。冒頭の昔話の中でも、ダム(という名の罠だが)を贈られた喜びに、トナカイが円環を描いていて、ラストにおいてふたたび、二つの民族を調和させる秩序は回復したものと思われる。
③ディズニーの今後の意思表明
さて、最後に③だ。
これは作中の「わたしにできること」の歌詞を聞けば充分なのだが、要約すると、過去の大ヒットに甘んじることなく、時に過去に背いたとしてもディズニーは変わり続けますよ、という意思表示であろう。もっと言うならば、アレンデールのように過去を黙殺して得た欺瞞的安寧よりも、残酷かつ勇敢な変革を追いかける、ということになるかもしれない。
1を観た方ならお分かりの通り、前作が提示した真実の愛の正体は、姉妹愛だった。過去のプリンセスシリーズでさんざん謳われてきた異性愛のアンチテーゼとして採択された姉妹愛だったが、しかしすでに記載した通り、却ってそれは不健全な力学を働かせている。そう判断するなり、ディズニーは早速、メスを入れる。
あれほどの大ヒットを飛ばした映画のヒロイン、アナですらも、断罪(……といってしまうには少し言葉が強いので、「反省」くらいか?)の対象となるのだ。そして当然、サーミ人への弾圧者は、キリスト教文化圏の人々――当然、自分たちアメリカ含む――なのである。自らの基盤を崩し、血を流してでも正当なものを追い続ける、それがディズニーから私たち観客へ捧げた誓約というわけだ。
これがいかに固い決意なのか、お分かりになるだろうか? 1では、ディズニーの歴史の中で、素晴らしいものの象徴として扱われてきた「魔法」は、(ラストまでは)エルサを孤立させる負の要因としかなりえなかった。そして2は、さらに「魔法」という抽象的な表現を超えて、自分たちの黙殺してきた過ち、非常にセンシティブで具体的な負の歴史まで掘り下げつつ、変革の意思を示すという、1を上回る覚悟を込めて制作された作品なのだ。
興行的にこちらも大ヒットに達したものの、二匹目のドジョウを狙ったという目的が根幹にあるわけではない(と、信じたい)。……ですよね、ディズニーさん? この今後の作品作りに対する意思表明という点で、今後、本作は重要な位置を占め続けるだろうし、ディズニー作品群の批評でも、たびたび触れられることだろうと思う。
で、お前の感想は?
エンタメで、かつたった百分で、これだけの問題を描くのはすげえな。
純文学とかは、もう少し作品で取り扱う範囲を限定しがちで、それは何より、センシティブな問題を粗雑に取り扱うことを恐れているからである。無論、こうしたテーマを描くクリエイターは、細心の注意を払わなければならないのだが、翻って今作について考えてみると、いや、まずもって数世紀続く侵略問題の過去から現状、未来までを、百分の作品に収めようと思う? これ子ども向けアニメっすよ? 無謀というか、勇敢というべきかは難しいが、まずはその決断を下した勇気に敬意を表したい。
一瞬でも見逃したら訳わかんなくなるというストーリー、前作見ていない人用のオラフの一人芝居がしんどい、いきなりサラマンダーに氷をぶちまけ続けるエルサが怖い、罪の発端を祖父一人に負わせる、ダムがもたらす実利的な面の無視、数秒であっさりとダム破壊に賛同する兵士たち、ダムの建設場所はちゃんと検討したか? 放水したら国終了ってやばくね? そしてアレンデール、割とあっさり切り捨てられたけどええんか? そしてエルサ、よく放水に追いついたな、などなど、問題点や不明点、重要な矛盾も散見されるが、大枠では相当にチャレンジングなテーマを、ほぼ瓦解させることなく描き切っている。
無論、「よくできている」ことと個人的な好き嫌いは別のことで、繰り返し観たいか? と聞かれると、個人的な趣味としてはうーん……という感じなのだが、それを考慮しても、壮大かつ難しいテーマに果敢に挑み切った名作であることは間違いない。頭が冴えている時に観ることをおすすめします。
なお、犠牲的な死を経て復活するエルサはキリストだ、という読解をちらほらと見かけたが、物語の形態としては一見、イエスのそれと合致するけれども、それは単なる符号であって、積極的に採択したわけではないと思う。というより、そう解釈すると、ダムや水の記憶がよく分からなくなるし、過去に溺れずに未来へ踏み出すというメッセージも弱くなる。それにキリストとして扱いたいならば、エルサの"死"をもっと劇的・象徴的に描写するはずだと思う。
いやまあ、どう読むかは観客の自由だし、キリストとして読めないこともないんだろうけど、せっかくキリスト教徒の犯してきた罪に触れている本作なので、あんまりその読み方は推奨しないです。
おわり