『三体Ⅱ 黒暗森林』に出てくる200年後の中国語を言語学的に考察してみる。
数年前から中国SF小説のすこぶる良い評判を聞くことが多くなった。
私自身は普段はそもそもフィクションを読まないので素通りをしていたのだが、ここ2年間のコロナ禍の在宅勤務で四六時中ずっと自宅にいることが多くなり、持て余した時間を悶々と過ごさないためにも何かしらの気分転換が必要になった。下手に外にも出にくい時期だし、それなら普段は読むこともない小説、しかも中国のSF小説で名高い劉慈欣『三体』を読んでみようと取り寄せた。読み始めてあんまり面白くなかったとしても、いつか対面授業に戻ったら雑談のネタには使えるだろうと軽い気持ちでページをめくっていった。そして、見事にハマった。
『三体』を読了した時の感想は「なんでこんな面白いものを今まで読んでなかったんだ!」、この一言に尽きる。とにかく面白い。特にVRゲーム「三体」内に出てくる秦の始皇帝の人列コンピューターとかは物理学と中国文化という一見交わりそうもないものが見事に融合していて、なんというか今まで全く知らなかった新しい世界が開けた感じがした。何回でも繰り返すがとにかく面白い。
普段から仕事や家事育児に追われているのでシリーズ全体を一気には読み切れないけれど、『三体Ⅱ 黒暗森林』も読了して今は『三体Ⅲ 死神永生』を読み出すところである。
そんな感じで三体シリーズにどハマりしているのだが、言語学者として『三体Ⅱ 黒暗森林』に200年後の中国語の描写があることが気になった。言語学では昔の言語のありさまを研究することはあっても未来の言語を予期することはまずない。だけど今回は実験的試みとして『三体Ⅱ 黒暗森林』の力を借りて200年後の中国語について考察してみよう。
考察前提としてのあらすじ(以下ネタバレ有り)
第一巻『三体』の最後で三体星人の艦隊が4世紀後に地球に到着することを知った地球人。三体星人が先に送り込んだ、文系読者にはよく分からんけど11次元に展開できるらしいすごいもの「智子(ソフォン)」の妨害によって量子レベルの科学技術の発展が臨めないという地球の緊急事態の中で国連は「面壁計画」を発動。主人公の羅輯を含む4人が面壁者として三体星人を撃退する策を考えることに。その後、わちゃわちゃすったもんだがあって殺人ウイルスのせいで危篤状態になった羅輯は緊急的に冬眠状態となり、200年後に目覚めるのであった…
羅輯が目覚めたのは21世紀から200年後、その頃の人間は「大峡谷時代」を経て地下で生活をしていた。そんな地下中国の言葉を小説はどのように形容していたのか、原作を見ながら言語学的に考察していこう。
21世紀人、羅輯から見た200年後の言語印象
羅輯が冬眠から目覚めた時、まず言葉を交わしたのは200年後の医者であった。その言葉に関する描写はこちら。
それ以外にも、病室に送られた後の羅輯の面倒を見た看護師の言葉についても原作では描写がある。
以上の引用の中で言語学的な考察にとって重要な情報は以下の3つ。
① 普通話(標準語)の音韻変化はそれほど大きくない。
② 大量の英語の単語が混ざっている。
③中国語の単語は古語扱いで使い慣れない。
まず①の音韻変化、言い換えれば子音や母音や声調は今の普通話(中国語標準語)とは違いがあまり無いようだ。これはさして不思議なことではなく話者が多い大言語が急激な音韻変化を起こすためには200年という時間は短すぎる。とりわけ普通話は21世紀の段階で中国政府による規範化が既に整っており、話者も10億人はいるため200年で大規模な音韻変化が起きる可能性はきわめて低いだろう。
それに対して②のほうは解釈が難しい。「大量の英語が混ざっている」というのはどういう状態なのだろうか?言語学の知識に照らすと、以下の可能性が一番高いと思う。
例1は現代の日本語にもビジネスの世界でならありえそうなフレーズである。一方、例2は19世紀ごろの上海などで実際に使われていた「洋涇浜英語(Chinese Pidign English)」と呼ばれるピジン言語を参考にしている。洋涇浜英語は清朝後期からの開港地で欧米人と中国人が商取引を遂行するために一時的に使用した混合言語である。洋涇浜英語は限られた場所と場面でしか話されずやがて消えてしまったが、200年後は中国語をベースに英語の単語を大量に取り入れた「洋涇浜漢語」とでも言えるものにかなり近づいているかもしれない。
ついでに、③の「中国語の単語は古語扱いで使い慣れない」というのも外来語が溢れる社会では全く不思議なことではない。例えば「PDCAのスキームで我が社のコンプライアンスをレビューして、ステークスホルダーにレポートしておいて」みたいなことを江戸時代から来た人にも分かるように説明するのは相当骨が折れるだろう。
こんな感じで200年後の中国語が大量に英単語を取り入れたとしても、主人公の羅輯はコミュニケーションにはきっと困らないはずだ。冬眠前から宇宙社会学者(そして面壁者)として活躍している羅輯は21世紀の世界でも英語でコミュニケーションを取っていたので、仮に中国語が大量の英単語を外来語として取り入れたとしてもすぐに理解ができるだろう。一方、英語が苦手な元凄腕刑事の史強にとっては200年後の中国語は何がなんやらさっぱり分からないはずだ。いつも飄々としている史強だが、実は一番の苦労人だ。
では、実際の中国語は200年で外来語を取り入れまくるのか?
ここまでの話は『三体』というフィクションの中での話であった。では、実際の世界では中国語はこれから200年間で英語からの外来語を増やしまくる可能性があるのだろうか?
これに関する私の考えはかなり懐疑的で、英語からの外来語が劇的に増える未来が全く見えてこない。なんというか、中国語はどんなに新しい概念であっても自分達の言語で表現する力がとてつもなく強いのだ。例えば、ここ2年間のコロナ禍でよく使われるようになった比較的新しい概念を日本語と中国語で比べてみよう。なお、簡体字が分からない人にも理解してもらえるように敢えて繁体字を使って示す。
これらの例を見ればすぐに分かると思うが、日本語では新概念は外来語として入ってくるのが普通だが、中国語では全く外来語を取り入れておらずとにかく漢字を組み合わせて新語を作るのだ。少なくとも2020年代のうちは中国語が英語からの外来語を積極的に取り入れるよう方針を転換する気配は皆無だし、これからもその方針が大きく変わることはきっとないだろう。
となると、『三体』の世界のような言語環境になるためには21世紀からの200年間で世界情勢の激変や言語政策の根本的な転回などの大事件が不可欠だ。物語の中ではこの200年の間は詳しくは語られなかったけど、繰り返し出てくる「大峡谷時代」に何かが起きたのかもしれない。そうでないと冬眠から覚めた羅輯は200年前と大して変わらない言語を耳にすることになるし、作中に出てくる翻訳システムも不要である。
次回予告 ー中国語と英語が融合?ー
と、ここまでは200年後の中国語に絞って『三体』の世界を言語学的に考察してみた。次回予告だが、病院を出た羅輯は面壁者の資格を取り消すために太陽系艦隊連合会議の特別理事であるベン・ジョナサンに会う。原作ではジョナサンの英語についても描写があるので見てみよう。
実はこちらの方が解釈が遥かに難しい。太字部前半の中国語の語彙が混じること自体はまあ不可能なことではないと思うが、後半の「英語と中国語が融合して1つの言語になった」というのが言語学的にはあり得ないことのように見える。
英語と中国語が融合した200年後の言語なんてありえるのか…次回じっくり考察してみよう。
(2022/5/29追加)続編を書きました。