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中国語と英語は融合するのか? -『三体Ⅱ 黒暗森林』太陽系宇宙艦隊の言葉を考察する-

前回は『三体Ⅱ 黒暗森林』をもとに、200年後の中国(ただし地下世界)で話されている中国語の正体を考えてみた。結論としては「多くの英単語を外来語として取り入れた中国語」ではないかと推測した。

前回の記事の最後では、太陽系艦隊連合会議のベン・ジョナサン特別理事の言葉について「英語と中国語が融合して1つの言語になる」という描写があることを紹介した。彼の「出身国」である太陽系艦隊連合の言葉については、さらに以下のような詳しい説明がある。

「现在司令官在讲标准的汉语,但三大舰队形成了自己的言, 与地球上的和代英都有些相似,只是把两种言更均匀地融合了, 词汇、英各占一半。」(中国語原版 p.323)
「司令官はいま、標準的な中国語を話しているが、三大艦隊はすでに独自の言語を生み出していた。地球上の現代中国語と現代英語に似ているが、両者がさらにごちゃごちゃにブレンドされている。中国語の単語と英語の単語がそれぞれ語彙の半分ずつを占める。」(日本語訳 下巻 p.133)

太字フォントはGENGOLANGUAGEで強調のために付加

太陽系艦隊連合は地球の国家からは離れて艦隊独自で国家を形成しているという。つまり、宇宙で使われる中国語や英語は地球の国家からは切り離されており、中国政府や英国・米国政府などの言語政策の影響を直接的に受けることはないはずだ。さらに、太陽系艦隊は三体星人の襲来に備えた軍事組織であるため、戦時体制の構築がとにかく優先されるはずであり、戦争とは関係が薄い言語政策をゆっくり策定する余裕なんてなさそうだ。このように政府などの権威による言語の統制が働かない環境では、異言語との接触が起きると急激な変化が起こりやすいのは事実だ。ただし、太陽系艦隊連合の言語特徴には少しどころか、かなり怪しいところがある。注目したいのは以下の2点だ。

  1. 中国語と英語のごちゃごちゃブレンド(中国語原版では"均匀得融合"なので「均等に融合した言語」と解釈した方が正確)

  2. 語彙は中国語と英語からの単語が半分ずつを占める

「ブレンドなんだから語彙は半分ずつが自然じゃないの?」と思うかもしれない。しかし、言語学の知見に基づくとそんなことはほぼ起きえないのだ。それを理解するために、ピジンクレオールという概念を紹介しよう。

ピジン・クレオール研究から融合言語へ

ピジンやクレオールについての専門的な論文を書くとなると英語で書かれた多くの文献を典拠にしないと話にならない。しかし、今回は太陽系艦隊というフィクションの存在を相手にするので、みなさんが気楽に楽しめるように日本語で読める一冊の本だけを参考にしよう。

故 西江雅之先生(1937-2015)は文化人類学や言語学の分野でとても面白い本をたくさん出版されたが、今回紹介するのは2020年に編集・出版されたピジン・クレオールを題材としたものだ。一般書のジャンルに入るのだが、内容は本格的かつ体系的なので太陽系艦隊の言葉を考察するには十分すぎるくらいだ。

それでは太陽系艦隊に関連してそうな部分を拾っていこう。

単語のような個別の意味単位ではなくて、文を支える仕組み(文法)の面でも大きく異なる言語を話す人びとが出会った場合、そこになんらかの形で「新しい言語」と呼ばれるものが形成されることがある。

西江(2020)上掲書 p. 31

この「新しい言語」の総称がピジンであり、ピジンの力が増して母語として使う人まで出てくるとクレオールと呼ばれる。太陽系艦隊は設立から数世代は経ているはずなので件の融合言語はクレオールである可能性もあるが、今回はピジンだけに焦点を絞ろう。

<ピジン語形成が多くみられた場所>
(1)異なった言語の話者が集結している軍隊内。また、軍隊とその駐屯地周辺の住民等との間の異言語接触。
(略)

西江(2020)上掲書  p. 219

ピジンが形成されやすい場所の最初に出てくるのは、なんと「軍隊」だ。太陽系艦隊は三体星人と戦うのための軍隊なのだから「もしかしたら本当に中国語と英語が融合するのかも」と期待が持てる。ちなみに、軍隊内から実際に生まれた言語としてはヌビ語(Nubi: ウガンダ・ケニア)が有名だ。ヌビ語はイギリスやフランスがアフリカで編成した軍隊の中で生まれ、アラブ人指揮官が話すアラビア語と兵士が話す様々なアフリカ諸語との接触で生まれたクレオールである。

太陽系艦隊でピジンが生まれそうな気配はするのだが、「 語彙は中国語と英語から半分ずつ」である融合言語は果たして生まれるのだろうか?
実は、ピジン研究ではこのようなことが起こる事例はほぼ観察されていない。西江先生の本の続きを見てみよう。

<ピジン語の特徴>
(略)
(2)その種の言語(引用注:ピジンのこと)では、音声面は接触した一方の言語のものに極めて近く、語彙面は他の言語から提供されたものが大半を占める。また、文法面は、語彙面を提供した側の言語の文法が「簡略」されたものとなる。

(3)ピジン語で表現可能な内容は、話者がその場で「とりあえず」必要としていることの表明でしかない。すなわち、母語のように生活面で必要なこと何でもできるという言語ではない。
(略)

西江(2020)上掲書  p. 220

以上はピジンに関するとても重要な鉄則だ。まず、語彙はどちらかひとつの言語から大半が供給される。つまり、中国語と英語が融合するのであれば語彙の割合は半分ずつに綺麗に分かれることはなく、中英どちらかの言語が主導権を握るのである。なので、太陽系艦隊で「中国語と英語の単語が半分ずつの融合言語」が生まれる可能性は限りなく低い。

太陽系艦隊にとって、さらに重要なのは「ピジンは必要最低限の用途しかカバーしない」という特徴である。これがなぜ重要なのかというと、太陽系艦隊は超ハイテク機器で、非常に複雑な操作が必要だと思われるからである。原作によると艦隊は21世紀の空母の3隻分の大きさがあり、核融合エンジンで光速の15%までのスピードが出せ、しかも高エネルギー・レーザー砲や電磁砲などで武装しているという。小説の舞台となった200年後にはほぼ全自動で動かせるようになっていると原作には書いているが、初期の太陽系艦隊では手動で進めるべき作業がきっと数多く残っていたのではないだろうか。

そんな過酷な仕事に立ち向かう乗組員に、ピジンは最低限の表現しか用意してくれない。なんたって、核融合は現代の日本でも手に負えないほど困難な科学技術である。商品交換などの比較的シンプルなコミュニケーションを取るために用意されたピジンで核融合エンジンを操作していたら、しょっちゅう暴走していたのではないだろうか…

では、太陽系艦隊の言葉はピジンではなくクレオールだった場合はどうだろう?クレオールは母語話者が出現する過程で語彙が豊富になり言語体系も安定し、いかなる話題でも表現できるようになる。「クレオールなら核融合エンジンもなんとか操作できそう!」と一瞬思うのだが、忘れてはいけない。そう、この融合言語は太陽系艦隊の存在が前提であり、艦隊が無事に宇宙に出てくれないとクレオールどころかピジンも成立しないのだ。つまり、太陽系艦隊の性質上、クレオールの成立を待ってから艦隊の操作を始めるのは原理的に不可能なのである。

宇宙艦隊のタネ明かし

ということで、ピジンもクレオールも太陽系艦隊では用をなさない、というのが今回の結論だ。この顛末の本当のタネ明かしは、太陽系艦隊司令官の以下の一言だろう。

「それは問題ない。話すときに、中国語か英語か、どちらか片方で話しても、われわれはどちらも理解できる。(略)」

ねぇ、本当は艦隊を動かすときは中国語か英語を使ってたんでしょ?
そちらの方がはるかに安全だし、それなら誰も苦労してピジンなんて使わんよ(笑)

となると、原作で出てきた融合言語はおそらく休憩室なんかの雑談で使ってた「ジャーゴン」だったのだろう…宇宙でずっと張り詰めないといけない艦隊乗組員にとっては、お互いの言語を混ぜて楽しくコミュニケーションするジャーゴンが数少ない娯楽のひとつだったのかもしれない…