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借りた金を返すためにはゾンビを作っても良いのか?「負債論」を読んで考えた
「負債論 貨幣と暴力の5000年」「ブルシット・ジョブ―クソどうでもいい仕事の理論」などの著書で知られる人類学者、David Graeber(デヴィッド・グレーバー)。惜しくも2020年に59歳の若さで亡くなり、最近刊行された「万物の黎明」は遺作として今まさに存在感を放っている。
私は数年前に「ブルシット・ジョブ」を読んで大変な感銘を受けた。なぜ社会に必要とされる仕事はお金がもらえず、なぜ社会の役に立たない(あるいは社会に害をなしている)と”働いている本人すら葛藤を抱く”ような=ブルシットな仕事はお金がもらえるのか。グレーバーの答えに衝撃を受け、以前noteに書いた。
そこからグレーバーの真髄に迫るため、彼の最も有名な著書である「負債論」を手に取ったのだが、この厚さである。まさに鈍器といって差し支えない。結局、読むのに3年もかかってしまった。
David Graeberの大著、負債論を読み終えた!!全800項、うち最後の200項は注釈と文献リストなので実質600項。内容はどこを切り取っても負荷が高い。ソウルシリーズをクリアしたくらいの達成感。購入から実に3年を要した。これを読むためにfuzkueに何度通ったかわからん。 pic.twitter.com/xwZ883tPeG
— じーくどらむす/岩本翔 (@geekdrums) July 21, 2024
グレーバーはアナキスト(支配力や権力の否定者)とも呼ばれ、世界的な人類学者というエリート的な立場でありながら、ウォール街に立ち向かう"We are the 99%"運動に参加するなど、その叡智を労働者や貧者のために活用してきた。
本書においても、お金に価値観を縛られ、負債にあえぐ人々に対して救いの手を差し伸べる。それもただの甘い言葉ではなく、支配者にとって手痛い事実を膨大な人文知から並べ立て、貨幣とは、資本主義とはそもそも何なのか、という所から迫ってゆく。
本稿では「負債論」を私なりに理解した形でまとめていくのだが、ここで一つ予防線を張らせてほしい。私は今からチェリーピッキングを行う(グレーバーはこれを嫌がるかもしれない)。負債論の膨大な論点と、蛇行する話題、専門的な知識、これらを前にして、まったくの非専門家(ゲーム開発者)の私が「なるほど~~」と思った部分をわかりやすく自分の経験と照らし合わせてストーリーを紡ぎ上げる。当然ながらグレーバーの主張の99%はこぼれ落ちていると考えるべきだ。ただ、それでも十分面白いはずだし、さらに興味が出たら是非、この鈍器を自分で手にとってほしい。
負債を返済するためならば人をゾンビにも奴隷にもするべきだ、という倫理
「借りたお金を返す」
これは完全に自明な倫理、モラルとして受け取られている。
例えば、私が一晩飲み明かした末に有金が無くてあなたに1万円を借りて、それをのらりくらりと言い訳して返さなかったとしたら?あなたは私と疎遠になる十分な理由ができることだろう。
では、こちらはどうだろう。
Twitter社は創業以来、世界中でコミュニケーションを活性化させ、APIの公開によって新たな価値を生み出した。しかし、収益化という点では上手く行かず、イーロン・マスクはモルガン・スタンレーや三菱銀行などの銀行団から巨額の資金調達(信頼を担保としているが、借金のことだ)を行ってこれを買収した。
この借金を返すために、Twitterは「X」を名乗るという言語的な撹乱にはじまり、すべてのAPIに法外な価格をつけ、ユーザーに広告を見せつけるためだけの「おすすめ」タイムラインを強制的に表示させ、挙句の果てに有料版ユーザーすらもインプレッションによる収入でアテンション・エコノミーへと引き込み、そこに最適化した「インプレゾンビ」と呼ばれる人々が跋扈するに至るという、人類にとって迷惑でしかない行いに資金と頭脳のすべてを注ぎ込むようになった。
まさに今、我々は「借金を返すための行いによる悪夢」をまざまざと体験している。こうした不条理への怒りの矛先は、この場合はイーロン・マスク、すなわち、「借主」へと向かっていることに注意してほしい。私もそこに同意しないわけではないが、しかし、より根本的な前提をなぜ疑わないのか?誰も「Twitter社が負債(や利子)を返済する必要がなぜあるのか?」などと問いたださないし、ましてや「なぜ貸付を行ってTwitterを巨大な負債回収器へと作り替え、ユーザーをゾンビにしてまで利子を得ようなどと思ったのか?」と、「貸主」に対して疑問を呈するなど想像の埒外に追いやられているのである。
金貸しを行う立場からはこうした結末(無料のプラットフォームとして人を依存させた後でそれを金を巻き上げる機械に変換すること)は「当然そうすべきもの」として理解されているのだろうが、一体どこに正義があるのか。誰も理解できないにもかかわらず、抗いがたい人間の心理として、以下のように正当化されるのだ。
「彼らはお金を借りたのですよ!やっぱり借りたお金は返さないと(Surely one has to pay one's debts)」
「やっぱり借りたお金は返さないと」
とある慈善団体の女性が放った上の言葉が、デヴィッド・グレーバーの頭の中を何度も回り始めた。
Twitter社の事例は、グレーバーが引き合いに出す他の事例からするとかわいいレベルのものだ。この言葉を放った女性にグレーバーが説明しようとしていた事態はより深刻だ。少し長いが、以下に引用する。
わたしが気づいたのは、まさにその自明さこそがこの言明を厄介なものにしているということである。これは醜悪なことを穏やかで平凡にみせかける文句なのである。手厳しいように感じられるかもしれない。だが、いったんその影響力を目の当たりにするなら、厳しく考えないことはむずかしくなる。わたしはそれを経験していた。おおよそ二年にわたるマダガスカル高地での滞在でのことである。わたしの到着の直前、マラリアが大流行した。もうかなりのことマダガスカル高地にマラリアは発生していなかったので、数世代を経るなかで多くの人びとが免疫を失っていた。そのためこの流行はことさら猛威をふるったのである。問題は蚊を撲滅する計画の維持には多額の経費がかかることだった。蚊が繁殖を再開していないことを確認するための定期検査、そして発見された場合には殺虫剤散布が必要になる。決して大金ではない。だがIMFに押しつけられた緊縮財政政策のため、政府は監視プログラムを削減しなくてはならなくなっていた。一万人近くの人びとが死亡した。子どもを失い悲嘆にくれる若い母親にわたしは出会った。無責任な融資の損失、しかもどうみても収支にさしたる影響もなさそうな損失を認めたくないシティバンクを救うために、一万人の人命の喪失が正当化される。そんな事態を是認するのは、さすがにむずかしいようにおもわれるかもしれない。だが、申し分なく立派にみえる(それどころか慈善団体のために働く)女性が、それを自明の理とみなしていたではないか。いずれにしても彼らはお金を借りたのだから、その負債は返済されなくてはならない、と。
上記は比較的最近の事例だが、このような不条理は歴史上、貨幣と暴力のあるところで何度も繰り返されてきた。
大都市のテノチティトランを破壊し、インディオを大量虐殺したスペインのコンキスタドール、コルテスについても同様である。
コルテスは、これまで記録されたなかで、最も巧妙で、冷酷で、才気あふれ、徹底的に卑劣な軍事指導者としてふるまって勝利をおさめた。八ヵ月に渡る一軒一軒しらみつぶしの掃討作戦と約一〇万のアステカ人の死ののち、世界最大の都市のひとつであったテノチティトランは完全に破壊された。帝国の財宝は掠奪され、ついで、生き残った兵士たちのあいだで取り分が分配されることになった。
ところがディアスによれば、話し合いは憤激のうちに終わっている。将校たちはほとんどの金を押収しようと共謀し、最終的な割り当てが発表されると、兵士たちはじぶんたちの取り分が一人あたり五〇から八〇ペソにしかならないことを知る。それどころか取り分のほとんどが、ただちに債権者の権限として将校たちによって差し押さえられることになった。包囲攻撃のあいだに兵士たちに支給されていた補充装備および医療手当の代金をすべて請求すべし、とコルテスが主張したためである。事実上この取引でじぶんたちがカネを失ったことをほとんどの人間がおもい知ることになった。
***(中略)***
こういったすべてが、奇妙なほど、第四回十宇軍ーー外国の諸都市から富をまるごと奪いながらも、金貸しからかろうじて逃げまわる借金まみれの騎士たちによるーーを彷彿とさせるとしたら、それには理由がある。こういった遠征を支援した金融資本は(この場合ヴェネツィアではなくジェノバだったにせよ)おおよそ[第四回十字軍と]出所をおなじくしていた。それに加え、一方の、あらゆるリスクをも辞さぬ覚悟をもった恐れ知らずの冒険者と、他方の、すべての行動の基準を着実かつ正確そして冷徹に収益を増殖させることにおく計算高い投資家のあいだにみられるおなじ関係こそ、現在「資本主義」と呼ばれるものの核心部分に位置している。
私はこの部分を読んだ時に、イーロン・マスクの事を思い出さずにはいられなかった。彼がどこか狂っているのは確かだとしても、何億のユーザーの不利益を顧みずどこまでも暴走する様子はまさに、負債にまみれた征服者[コンキスタドール]とぴったり対応するのである。
イーロン・マスクはこの意味において、アステカを征服したコルテスの暴虐と同じモラルを共有している。一方の投資家が人間を見ずに利潤とリスクの計算だけを行い、もう一方の冒険者が周りに存在するすべての人間を金銭へ変換するための究極の機械を生み出そうとする狂った焦燥感だけを持つ。
— じーくどらむす/岩本翔 (@geekdrums) August 11, 2024
負債はなぜ、人間をこうまで盲目的にさせる力があるのか。インプレゾンビを一所懸命に生み出すことが、貴重な人間の能力や演算力を注ぎ込んで成し遂げるべき仕事だと、いったい誰が考えているのか?
私の持っていた疑問がグレーバーの問いと重なるのはまさにこの点である。人間は本来、仕事をして人の役に立っていると感じたい生き物だ(それが感じられない仕事のことを「ブルシット・ジョブ」と彼は呼んだ)。それがなぜか、ユーザーすべてを操り人形とするための巨大な装置を作っているとなると、その仕事に携わる人は何のために生きているのか?(これはその従業員を批判する意味ではなく、むしろ、従業員自身がそのような葛藤を抱えているであろうことへの共感である)
義務を負債に還元する時に何が失われるか
グレーバーは本書の「中心的な問い」を以下のように設定した。
ここで本書の中心的な問いにたどり着く。わたしたちのモラルおよび正義の感覚が商取引の言語に還元されるとして、それはいったいなにを意味しているのだろうか?モラル上の義務を負債に還元するということは、いったいどういうことなのか?
「義務を負債に還元する」というフレーズは重要だ。これが示しているのは、負債は義務の最も単純化された形でしかなく、世の中にはもっと多くの義務(やるべきこと)がある、という事だ。
単純化とは、数値化する、という意味でもある。続く節を以下に引用する。
もしある人間が利率一ニパーセントで四万ドルを負って[借りて]いるとするなら、債権者がだれかということは本当のところはどうでもよい。どちらの側も相手がなにを必要とし、なにを欲しているのか、なにをすることができるのかについて思案をめぐらせる必要はないのである。ところが恩義や尊敬、感謝を負っている場合であれば、その相手についての具体的なもろもろに配慮する必要があるのは確実である。つまり、[負債においては]人間的なもろもろの影響を推測[計算](calculate)する必要はないのである。推測[計算]する必要があるのは元金と差引残高と違約金と利子のみ。あなたが自宅を手放し異郷を流浪することになっても、あなたの娘が鉱山で売春することになっても、それはたしかに不運かもしれないが債権者にとってはささいなエピソードにすぎない。カネはカネであり、取引は取引なのだ。
さまざまな義務(という膨大で扱いきれないパラメータ群)を、負債というスカラー値※に還元することによって、世界を暴力的なまでに単純化し、あれこれ考えずに突き動かすことができる。
※スカラー値:ベクトルと異なり、方向を持たず、大きさだけを持つ量。
この還元によって何が失われているのかを、グレーバーは5000年の貨幣と暴力の歴史を織り交ぜながら紐解いてゆく。
ここからは、私なりに共感したポイントを大きく2つ紹介しながら本書を振り返っていきたい。(予防線を張った通りこれは負債論のほんの一部でしかないのだが)すなわち、
負債は「ある場合を除いて」返済されて然るべきではない。
利子は「ある場合を除いて」徴収されるべきではない。
こうした考えが、歴史上はほとんど有効であったのだ。翻って、現代の資本主義社会では、負債はなんとしても返済するべきで、利子をなんとしても徴収するのだと、そのモラルが内面化されている。つまり資本主義社会とは、この2つの観点においてその例外的な「ある場合」を全体でシミュレートするようになった世界と言える。
1. 負債は「ある場合を除いて」返済されて然るべきではない
負債と貨幣の歴史を紐解くと、返済されることが当然のように想定されていない場合が非常に多いことに驚かされる。その形態をさらに(乱暴ながら)以下の2つに要約した。
支払いが不可能である価値
支払いが必要ない関係
これらが歴史上、あるいは現在においても、どのように根付いているのかについて説明する。これらの状態を排除していき、最後に残ったものこそが、現在われわれが当然と思い込んでいる「返済が必要な負債」の形なのだ。
1-1. 支払いが不可能である価値
「最後まで補償」ができる?
私が「負債論」を読んでいる最中に、ジャニーズ事務所がSMILE-UP.に社名を変更し、「補償」を開始するというニュースが世間を駆け巡った。
今後、この会社で被害者への補償を最後まで行い、将来的に廃業するということです。
会見では被害者の補償について、9月30日までに478人から受付窓口に申し出があり、このうち325人が補償を求めていることが説明されました。
私が疑問に思ったのは、この補償を「最後まで」行い、というところだ。取り返しのつかない罪を犯した人間と、その被害者の関係を想像すると、そこに「終わり」がある、という想定そのものが不適切に思えてしまう。
しかし、被害者の求める限り無限の補償を引き出すことは不可能である上に憎しみの連鎖につながってしまう。そのため、司法などが何らかの基準を示して、「これで終わりにしなさい」という取り決めによって示談を成立させ、関係を断ち切る。
この「敵対している者との関係をうまく断ち切り、社会を回す」という点において、「補償」すなわち「支払い」の役割がある。決してそれで、被害者の心や体がもとに戻るわけではないと、誰もが知っている。現代社会においてこの支払いが専ら金銭によって行われることには、被害者が当面の生活に困らないという良い面もあるが、それがいつか消費されてしまい「加害があり、被害があった」という記憶や関係性までもが無に還元されてしまうような面もある。
実のところ、貨幣の誕生とはそのような関係性を視覚化するところに役割があった。
原始貨幣(primitive money)
グレーバーがその豊富な人類学の知識から紐解くところ、貨幣とは、「支払いを完了させる」ためではなく、むしろ「どうやっても支払い不可能である負債の存在を承認する方法」として誕生したのだという。
注意したい事として、このような原始貨幣は、日常的な売り買いに使われたわけではないという事だ。日常的には物々交換の時代だった、というわけですらない。それどころか、日常的な取引はもっぱら信用による記帳を元に行われていた(経済学者が語る「物々交換の神話」、すなわち「お金が発明されて、物々交換が終わり、信用取引ができるようになった」といった言説は誤りであり、「物々交換からの貨幣の導出の話は、アダム・スミスの創作になる経済学の創設神話である。それは神話であって、対応する実態は存在しない(p601)」と痛烈に批判している)。
そうした「原始貨幣」(負債論に出てくる例としては、イロコイ族のワムパム、アフリカの布貨幣、ソロモン諸島の羽根貨幣など)は、まさに争い事の解消や、葬式での悲嘆に慰めを、罪人に赦しを、そして結婚の取り持ちや父権の確立、などに用いられたのだという。
ワムパム(Wampum)とはアメリカ先住民が海の貝殻から作ったビーズ状の工芸品。北アメリカの北東部で作られ、歴史の記録や条約の締結、貝貨にも使われた。
花嫁対価(bride-wealth, NOT bride-price)
この原始貨幣の使われ方が「価値の承認」ではなく「支払い」と解釈されて問題となって事例が「花嫁対価」だ。これは非常にありふれた文化だった。
求婚者の家族が、女性側の家族に対して、宝貝や鯨の歯などの「原始貨幣」を贈り、送られた側は娘を花嫁として差し出す。……と表現すると、いかにも「人身売買」あるいは「女性を消費する」といった文脈に捉えられて問題となりそうであるし、実際に20世紀はじめの植民地ではそういった事がスキャンダルとなり、これを禁止すべきかどうかという議論が生まれた。
これに対し、実際にそういった部族の文化を研究している人類学者たちが反論した。これは現代人の視野が狭いだけで、「売買」や「消費」ではなく、「かけがえのない価値をもらいうけることの承認」なのだと。
ちょっと待ってくれ。人類学者たちは説得した。これは、たとえば雄牛を買うといったこととはまったく違うのだ、と。つまるところ、あなたが雄牛を買うとしても、あなたはその雄牛に対する責任はもたない。あなたが実際に買っているのは、その雄牛を自由に処分する権利だからである。結婚はそれとはまったく異なっている。夫は妻に対し、妻が夫にもつのとおなじぐらい多くの責任をもつことになる。それはひとのあいだの関係を再編成する方法なのである。第二に、あなたが妻を本当に買っているのであれば、あなたは彼女を売ることができるはずだ。そして第三に、その支払いの真の意義は、女性の子どもたちの地位にかかわるものである。もし彼がそこでなにかを買っているのだとするならば、それは彼女の子孫をわがものとする権利ということになるのだ。
人類学者たちがこの論争に勝って、「花嫁代価(bride-price)」は「花嫁代償[婚資](bride-wealth)」といいかえられた。しかし人類学者たちは「ここで本当にはなにが起きているのか?」という問いに答えることはなかったのである。フィジー島の求婚者の家族が、鯨の歯を結婚する女性に手渡すとき、それは、未来の夫の庭を耕す使役への前払いなのか?あるいは彼女の子宮の未来の多産性を買っているのか?あるいは、これは純粋に形式的な行為、つまりある契約をむすんだしるしとして、人から人へと手渡しされるドル札に相当するなにかであるのか?ロスパベによると、そのどれでもない。鯨の歯は、それがどれほど価値があるものだろうと、支払いのとる形式のひとつではない。実のところそれは、どのような支払いも不可能なほどかけがえのない価値あるものを要求していることの承認なのだ。女性の贈与に見合う支払いは、ただひとつ、べつの女性の贈与のみである。それまでに、ひとができることといえば、ただ、その未払いの負債を認知することだけなのである。
この世界には、「かけがえのないもの」は実にありふれている。結婚という関係性も、あるいは(売り物としてではない)処女性も、そして自分という命を生み出した親への恩義といった、それを数値化して何かと交換可能に見せかけること自体が間違いであるはずの価値がある。
もちろん、それが失われること自体もありふれている事から(人の命、がまさにそうだが)、失われたからといって無限の補償を引き出せるわけではない。にもかかわらず「失われた場合の価値」を算出可能にしてしまうことには、何かの罪が「取り返しがつく=支払いが完了できる」と思い込ませてしまう、危うい論理につながってゆく。
読了後にこの話をした友人から教えてもらった事例だが、実際に「人の命」を保険によって数値化してしまった事による悲劇的なストーリーがある。
フォード社の自動車安全担当取締役は、「衝突事故がもたらす燃料の漏洩と火災による死亡事故」という文書を作成した。
ここでは次のように計算された。
(改善費用)販売台数1250万台×単位費用11$=約178億円
(社会的利益)死傷者の出る火災180件×(死亡による損失20万$/件+負傷による損失67千$/件)+車両炎上2100台×車両損失700$=約64億円
この結果をもとに、フォード社は設計改善費用がその社会的利益を上回ると判断し、そのまま販売を続けた。
1-2. 支払いが必要ない関係
資本主義に内在するコミュニズム
なんらかの共通のプロジェクトのもとに協働しているとき、ほとんどだれもがこの原理にしたがっている。水道を修理しているだれかが「スパナを取ってくれないか」と依頼するとき、その同僚が「そのかわりなにをくれる?」などと応答することはない。
この端的な事例が示す通り、私達はとくに仕事において、何かの貢献をその場で交換の条件にしようとはしない。それは純粋に効率の観点からも当然そうするべきだと理解されている。
例えば趣味で参加しているオーケストラがあったとして、90%が休符であるパーカショニストに対して、忙しいヴァイオリニストが「もっとあれもこれも手伝うことがある」などと指摘することはありえない。協力して追い求めるものが金銭でなく音楽であれ何であったとしても、「各人はその能力に応じて貢献し、各人にはその必要に応じて与えられる」という原理は、現代社会においても実に多くの場面で見られる。
こうした関係性を「コミュニズム」と本書ではまとめている。
会社内、バンド内など、とくに基礎的な信頼が通じる範囲において、コミュニズムは人間的であるだけでなく、合理的ですらある。互いが協力するにあたってその価値がいくらであるか、誰に対してであればいくらで売れるのか、またどのようにしてその価値を高く、あるいは低く見せて自分の取り分を最大化できるのか、などの競争的な世界の形成にコストを払うことなく、協力的な行動に集中することができるからだ。
しかし世間ではなぜか「選択と集中」などと標榜して、競争の結果をもってコストを支払うのが合理的であるとか最適であるといった幻想を拭い去れずにいる。大学教員が競争的資金の獲得などのために多重の管理業務に追われて本来の研究ができない、といった問題が指摘されているのにも関わらず、彼らに(ネオリベラリズムに基づく)「競争」をさせ続けており、(コミュニズムに基づいて)必要と思うものを何でも研究してくれという流れにはなっていない。管理や競争による「効率化」の不条理については、グレーバーの著書ブルシット・ジョブにおいても詳しく触れられている。
それに比べて、狩猟採集民のイヌイットによる以下の逸話は、人々の関係に打算を持ち込むことの危険性について多くの事を教えてくれる。
ある日、セイウチ猟がうまくいかず腹を空かせて帰ってきたとき、猟に成功した狩人の一人が数百ポンドの肉をもって来てくれたことについて、フロイヘンは語っている。彼はいくども礼を述べたのだが、その男は憤然として抗議した。
その狩人はいった。「この国では、われわれは人間である」。「そして人間だから、われわれは助け合うのだ。それに対して礼をいわれるのは好まない。今日わたしがうるものを、明日はあなたがうるかもしれない。この地でわれわれがよくいうのは、贈与は奴隷をつくり、鞭が犬をつくる、ということだ」。
この最後の一節は、人類学の小さな古典ともいわれているが、これに似た貸しと借りの計算の拒絶は平等主義的な狩猟社会についての人類学文献全般にみいだされる。狩猟民は経済的計算の能力ゆえにみずからを人間であると考えるかわりに、そのような打算の拒絶、だれがなにをだれに与えたか計算したり記憶することの拒絶に真に人間であることのしるしがあると主張した。それ[貸借計算]をしてしまえば、「力と力を比較し、測定し、計算すること」をはじめてしまう世界、負債を通じてたがいを奴隷あるいは犬に還元しはじめる世界を形成してしまう。まさにそういう理由からである。
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本来は人間としてさまざまな気遣い(ケア)が可能であった者も、鞭によって怯えさせることで犬や奴隷としてしか働けなくなる。相手のことを「明日はあなたが私を助けるかもしれない」と想像できるのであれば、そのような打算の拒絶にこそ人間的な行いであると感じることができる。
主婦の労働を賃金に換算することで何が始まるのか
「主婦の労働は月給いくら分」といった言説が一昔前に浸透していったが、これはおそらく、主婦が担ってきたケア労働に対して、そこに価値を見出そうとしない家父長が「誰が養っていると思っているんだ」などと負債の論理を持ち出して押さえつけてきたことへの反発だろう。
通常であればコミュニズムとして成り立つはずの夫婦関係も、他方がいくら稼いでもう片方がいくら分の家事を行う、などと言い始めることは、価値の共有(シェアリング)ではなく交換(エクスチェンジ)の原理を持ち込むことで、イヌイットのいう「力と力を比較し、測定し、計算すること」をはじめる世界の形成に他ならない。この変化は何を意味するのだろうか。
![](https://assets.st-note.com/img/1726991558-Ch2Vs5nWieAZay34PKM9kcBL.png)
グレーバーは人々の経済的な関係性を以下の3種類の原理にまとめている。
コミュニズム
交換[エクスチェンジ]
ヒエラルキー
「負債論」も少しだけ読み進めた。現実に行なわれる経済的関係が決して「等価交換」だけではないことを、コミュニズム、エクスチェンジ、ヒエラルキーという3つの主要な原理によって説明しているところが興味深かった。 pic.twitter.com/8sjUab2Fha
— じーくどらむす/岩本翔 (@geekdrums) March 25, 2023
これら3つの原理は、あらゆる場所で同時に共存している。親しい家族や友人にはコミュニストでありながら、他人とはエクスチェンジを行い、幼い子どもに対しては(お小遣いをあげる、といった形で)ヒエラルキーの上位者であることに何ら矛盾は生じない。
交換を行うのは「関係を解消する」ため
それぞれのモラルには決定的な前提の違いがあり、コミュニズムとエクスチェンジにおいてその違いは「永続性の仮定」にある。
コミュニズムにおいて期待されているのは「私がしたのと同じことを、いつか誰かがまた私のためにするであろう」という事であり、そのような相手や社会との関係が永続する(かのように扱う)ことによって、収支計算を不要のものとする(あるいは、永遠の未来に返済を遅らせる事ができる)。
一方で人々が「交換」を行う関係になるということは、少なくとも有限と考えられるある時点において、お互いの収支をすべて精算し、負債を無くして関係全体に終止符をうつことができる、そういった緊張関係が想定されているということになる。もちろん、こうした事態を慎重に避けることによって、関係を長く続けようとすることができる。何か贈り物を頂いた際に、ぴったり同じ価値のものを返すのではなく、それより少ない(あるいは、少し多い)物をお返しすることで、終わりのない贈与の循環を形成する。
(おそらく、このあたりはグレーバーも参照したモースの「贈与論」を読むことでより深く理解できそうだが、私はまだ読めてない)
翻って、このような交換[エクスチェンジ]の考え方が夫婦関係に持ち込まれようとした意味は大きい。永続性の意味を帯びていたはずの婚姻関係において、相手がその分を精算した暁には、お互い何事もなかったかのように関係を解消することができる、そのような緊張関係を意識せよという事になる。そこにあったはずのコミュニズム的な信頼の基礎、すなわち、今日私があなたにしたことを、明日あなたが私にするかもしれない、といった想定を揺るがすことで自由を得るわけだ(念の為、それが夫婦関係にとって良いか悪いかについては私は何の主張も持たない)。
もちろん、通常の夫婦はそのような交換を意識したとして、毎月末にそれらを精算して別れる機会を定期的に作ろうなどとはしない。せいぜいお互いの堪忍袋にそれらの負債を蓄積しておき、それが長い目で見て解消される事を期待したり、あるいは緒が切れて破局するかのどちらかだろう。
旅人、あるいは異分子に要求される支払い
このように広い意味での経済を見渡すと、コミュニズムやヒエラルキーといった精算を期待されていない関係はもとより、交換[エクスチェンジ]においてすらも、いつ・どのように返報するかということは相互扶助を前提として柔軟に引き伸ばしたり帳消しにすることができる。となると、「支払い」が必要になるのはまさに関係の解消を伴う場合において、なのである。
貨幣の歴史を紐解く中でも、異質なもの[ストレンジャーズ]同士の取引においてのみ、現金によって精算が求められる様子が記されている。
都市や大きめの町の貧民街では、商店主たちが独自に鉛や皮や木製の代用貨幣を発行していた。それが一六世紀には大いに流行し、熟練工や貧しい寡婦までが、やりくりの算段として独自の通貨を発行するようになっていたのである。それ以外の場所では、地元の肉屋やパン屋、靴屋など、常連にはツケ売りされていた。週ごとの市に出店する者、および隣人たちに牛乳やチーズや蝋燭を売る者にもおなじことがいえる。一般的な村々で現金で支払うのは、通りすがりの旅人かろくでなしとみなされていた者のみだった。運に見放された貧民や落伍者たちは信用貸しに縁がなかったのである。とはいえ、みながなにかを売ることにたずさわっていたので、だれもがなんらかのかたちで債権者でありかつ債務者でもあった。したがって、ほとんどの世帯収入は、他の世帯からの[支払いの]見込みというかたちをとっていたのである。だれもが隣人とたがいに貸し借りがあるかどうか知っていたし覚えていた。そして共同体は、半年あるいは一年かそこら、定期的に、みなが集う「清算大会(reckoning)」を催し、集団的規模でたがいの債務を帳消しにしていたのだ。そのあとなおも残った差額のみが、硬貨や財によって決済された。
>>……、常連にはツケ売りされていた。週ごとの市に出店する者、および隣人たちに牛乳やチーズや蝋燭を売る者にもおなじことがいえる。一般的な村々で現金で支払うのは、通りすがりの旅人かろくでなしとみなされていた者のみだった。運に見放された貧民や落伍者たちは信用貸しに縁がなかったのである。 pic.twitter.com/0wFlqeEtAZ
— じーくどらむす/岩本翔 (@geekdrums) July 20, 2024
グレーバーのここでの主張は(遠大な話なので3行で説明できないのだが)彼が「大資本帝国主義の時代」と呼ぶ1450年以降、信用貨幣から現金(鋳造貨幣)への回帰が見られるのだが、そもそも現金がまだ行き渡っていなかったため、税の支払いに現金が求められる一方で、日常取引においてはさまざまな信用貨幣(割符や約束手形、貸し借りの記録など)が用いられていたという実態を示したものだ。
現金[コールド・キャッシュ]が用いられるのは主に、税金や家賃、判事や警察など司法制度やそれを支える暴力的構成員、そして、「よそ者」に対してであった。これらの組み合わせに共通して言えるのは、そこに容赦は無いという事である。
そうした容赦なきモラルが社会に浸透していくことで、それまでは負債の返済を引き伸ばしたり容赦することが慣例であったコミュニティにも、徐々に負債を持ち続けることは犯罪的であり、それが返済できない事は恥であるといった価値観が支配的になっていった。しかし元はといえば、そうした価値観は「よそ者」に対してだけ当然とされていたのだ。
自由の代償
あなたも私も、すべての金銭の支払いに対して「関係を解消しよう」などと意識していないのは確かである。
しかし過去の状況と比べて見るならば、あらゆる「決済」が便利に利用可能になった現代とは、言い換えるならば「いつでも誰とでも縁を切れる」ように、常にすべての関係を解消し合うことによって、どのような状況にあっても自由な個人として生きていける、そうした理想が実現された状況と見ることができる。
あなたは地元を出て、世を捨て、村を捨て、妻や夫を捨てたとしても、伝統的なコミュニティがあなたを追い詰めることを想像しなくて済む。と、このように表現すれば決して間違ったことには聞こえない。しかし、そうやってたどり着いた新しい共同体においても、我々は常にそれらの関係性を解消できるように、誰にも無償の愛を求めるべきではなく、それは「消費」であって、それを返済できるアテがなければ人を頼ることは罪であると、そうした論理が孤独や鬱に苛まれる人々を苦しめている。
果たして、我々は自由の代償としてそのような残酷な世界を受け入れることになったのだという、自覚はあっただろうか?
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無償の愛を注ぎ続けられている文鳥。
なぜなら文鳥のかわいさは無限であり、
どれだけエサを与えても世話をしても
飼い主はその負債を返し切ることはできないのである。
返済の義務についてまとめ
前半のまとめとして、負債は「ある場合を除いて」返済されて然るべきではない、の「ある場合」を明確にしておこう。
それは、負債が
返済が無限に続いて不可能なものではなく
相手との関係を解消する必要が差し迫っている
場合に限られる。
本来、人間が想像しうる負債というものはすべてが返済可能であることがまず無い。すべての負債を完全に返済できるという想像そのものが神話的な力を持っているだけなのだ。
それは人の命のように単体でかけがえのないモノに限らず、日常的に取引されるパンや肉にしても、それらはツケとして扱われ、最後に残った返済額をどうするのか(硬貨で支払うのか、次の精算に引き伸ばすのか、身ぐるみ剥がされるのか、あるいは皆で債務帳消しを求めるのか)は、ひとえにコミュニティにおけるその人の信用に関わっていた。
いずれの場合も、そこには「永続性の仮定」がある。
返済が不可能な負債の存在を了承することは、それを負う対象(親であれコミュニティであれ、罪の被害者であれ)を完全に忘れ去ることが永遠に無いということの了承でもある。
同時に、そうした関係性に縛られることで、あらゆる負債を精算し尽くす必要はなく、皆が皆、お互いに負債を抱える状態を当然とすることができた。
このように整理したうえで、本書の冒頭にある「原初的負債」の以下の記述を読むと感慨深い。
わたしたちはすべてを他者から学んだのであり、それらの人びとのほとんどははるか昔に死んでいる。そうした人びとに対して負っている負債を想像するならば、ただただ無限というしかない。そこから以下の問いが浮上する。これを負債として考えることに意味はあるのか?結局のところ負債とは定義からして少なくとも返済することを想像できるものである。ところが、じぶんの両親への借りを清算したいと望むことはとても奇異なことなのである。そこにはもはや彼らを親とは考えたくないというふくみがひそんでいるのだから。
あらゆる負債を返済すべきと考えることは、もはや誰のことも隣人と思うべからず、というモラルの正当化ではないだろうか。とにかく我々は、友人にせよ、夫婦にせよ、親子にせよ、加害者と被害者にせよ、すべての関係を解消できるようにする(負債を返済する)ことが何よりも大事だと思わされている。
負債を背負い続けることはあなたを縛り、縛られている人は罪人であると誰もが思うようになった。だからあなたも私を縛ることは許されない。私もまた、あなたの隣人ではない。私は旅人であり、明日にはよそ者になっているだろう。
すべての人間を「明日は会えない流浪の旅人」として扱うことこそが倫理的である、という仮定のもとで、すべての負債は返済されなければならない。たとえそれによって人間がインプレゾンビに変わり、マラリアの流行を止められず、数多の債務奴隷を生み出すことになったとしても、負債を持っていることのほうが倫理的に許されないのだ。
……本当にそんなことがあるのだろうか?
次回:利子は「ある場合を除いて」徴収されるべきではない
さて、ここまで書いてようやく半分だ。さすがに疲れたので、続きの半分は次回にしたい。なにせ読了してから2ヶ月経ってようやくここまで来れた。もう半分書いていたらまた1,2ヶ月かかってしまいそうだ。
この時点で、以下の疑問を改めて明示しておこう。
負債があったとしても、それを返済しようとすることで犠牲者が生み出され続けるのだとしたら、その返済を待つ、あるいは容赦することのほうが倫理的ではないのか?
当然そのはずである。友人に1万円を(あるいは何十万でも)貸したとして、もし、それを今すぐ返済させようとして友人が病状を悪化させたり、身売りをするなり詐欺をするなりして被害者を増やすことが明白である場合に返済を迫ろうと思う人はいないはずだ。ましてや、銀行や証券会社に金銭を預けて、それが一時引き出せないことで差し迫ったリスクがあるわけでもない富裕層のために、奴隷をさらに生み出そうとする試みがどうして正当化されるのか?もし彼らが隣人として関わるのであれば、その負債の返済を待つあるいは容赦することのほうが、倫理的だと思われる。
しかし、現実はその逆である。なぜか?負債を背負った大企業のCEOが揃いも揃って大悪党だからか?そうではない。なぜなら、そこには「利子」があるからだ。
「利子」こそ、永続性をもっていた負債の、債務者には有限の期限を与え、債権者に対しては無限の収益性を与える、悪魔的な道具である。歴史上、ほとんどあらゆる宗教がこれを大罪としてきたが、結局のところ、人類はこの利子の力によってコルテスのような征服者を駆動させ、利子のモラルを巧妙に取り入れた国や文化が支配的になっていった。今を生きる私達は、ほとんどが「株式会社」に努め、「営利」を第一として活動することが社会人として最も大切であると思わされている。このモラルの根底に何があるのか。
というわけで次回:
負債論、読みやすくはないが、とにかく学びが多い。
— じーくどらむす/岩本翔 (@geekdrums) June 8, 2024
金貸しは悪徳であるから、同胞には禁止するが、異邦人(異教徒)にはしても良い。とする教えをキリスト教とユダヤ教が体面上守りながら利益を得ようとした結果、「金貸しをやらせて悪徳を被せる」という残虐な穴を見つけた。 pic.twitter.com/VWGOm5pTEH