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「月曜日のたわわ」広告をめぐる対立についての私見

「月曜日のたわわ」をめぐる以下の記事を発端として、Twitter上ではフェミニストとオタク(と大雑把に分類しますが)の対立が起こりました。

私も月曜日のたわわの読者の一人として、これが社会からどのような判定が下されるのか、興味深く見守っていました。賛否ともにできる範囲でいろんな意見に目を通して、大きく違和感を抱いたことがあります。それは、

なぜ、共通の敵である「性犯罪者」という存在を脇目に、「フェミニストVSオタク」あるいは「女VS男」が対立しているように見えるのか、ということです。というわけで、以下のツイートが本ブログの結論になります。

こうした意見が少しでも広まってくれるといいなと思っています。

お互いが(別の形での)性犯罪被害者であるという認識に立つ

対立していると、どうしても「自分こそが被害者であり、相手は有利な立場から我々を貶めているだけだ」と錯覚しがちです。が、実際の所、「双方がそれぞれの理由で、被害者である」という場合が多いです。

まず、私には経験することができない女性の立場からの被害者の声を紹介します。

この方に限らず女性は想像以上に多くの性犯罪被害に遭っているらしい、ということを、私は大人になってからようやく知りました。

ここで、被害者と加害者の関係はこのようなものです。

女性(被害者)

性犯罪者(加害者)

性犯罪者と見分けがつかない、目線を寄せてくる男性全て(潜在的加害者)

女性が性犯罪の被害者となりえる状況があり、さらに、それを警戒する必要があるだけでも、不当な抑圧の被害者であると言えます。

どれほどの恐ろしさか想像がつかない方は、こちらの記事の一読をお勧めします。私自身は男なので想像しかできないわけですが、今まで読んだ中では最もわかりやすく伝わったと感じました。

では、その被害者の言うことは全て正しく、全てを受け入れなければならないのでしょうか。

ここで同時に、もう一方の被害者を見る必要があります。「同時に」です。

女性キャラクターの絵や物語を消費するオタク層は、謂れのない犯罪との関連を疑われて苦しんできました。漫画、アニメ、ゲームは事あるごとに犯罪者の自宅から「発見」され(新聞やテレビは発見されません)、純粋にそのようなコンテンツの探究や創作を志す人々が犯罪者予備軍のように扱かわれてきました。●●という属性のものが犯罪者になりやすい(●●に入るのは国籍や人種やオタクや恋愛経験が無い人やら)というのは、かなり「有害なステレオタイプ」だと思いますが、オタクに対してはそうした有害なステレオタイプに基づいた主張が未だに公然とされているわけです。

さて、このような話を聞いた多くの女性は「私はそんな事(オタク差別)をしていないし、するわけもない」と感じたでしょう。

それがまさに「オタク趣味が性犯罪と繋がっている」という言説がまかり通っている空間への、多くの男性の感想と同じです。「私はそんなこと(性犯罪)をしていないし、するわけもない」

しかし恐ろしいことに、99%の人間がそんな事をしていなくても、1%の異常者=犯罪者がそれをすることで、全体が抑圧されるのです。

青識さんのこのツイートは、そうした状況をよく皮肉っています。

※ツイートを紹介させていただいた両者は、いつも追っているわけではないので、それぞれの方の意見や考え方を全て肯定するものではありません。あくまで一部ツイートのみ、参考になると思って引用させていただきました。

ここで、被害者と加害者の関係はこのようなものです。

(主に)男性のオタク(被害者)

原因をなすりつける性犯罪者(実質的加害者)

オタク趣味と性犯罪を結びつけることで炎上させて知名度を得ている一部のフェミニストやそれに乗っかるメディア(間接的加害者)

オタク趣味と性犯罪に何らかの関連性を感じる多くの女性(潜在的加害者)

犯罪を犯していない、犯すつもりもない全てのオタクは、性犯罪者やメディアが勝手にその罪をなすりつけてきた事による被害者であり、謂れなきレッテル貼りによって表現の幅や活躍の幅を狭められていることは不当であると言えます。

では、不当に抑圧されてきたオタクの表現は全て正しく、全てが守られなければならないのでしょうか。

そんなわけはないので、双方言い争っている状態です。しかし、その争いにまったく終わりが見えません。私は途中からとてつもない違和感を覚え始めました。

オタク男性の意見は、例えば次のようなものです。

オタク趣味と性犯罪は関係ない
もっと性犯罪自体への取り組みをしたらどうなんだ
オタク差別がしたいだけじゃないのか

フェミニスト女性の意見は、例えば次のようなものです。

性犯罪に繋がる可能性のあるものは規制すべきだ
現実に性犯罪が起き続けていることに目を向けたらどうなんだ
自分の気持ち悪い趣味を守りたいだけじゃないのか

この対立の根本が見えてきたでしょうか。お互い、性犯罪者に(程度や経路の差こそあれ)心底迷惑している、ということは一致しているのです。

しかしながら、お互いが「自分たちは弱く迫害されてきた民族(力のない女性や、立場の弱いオタク)であり、被害者である」という意識が非常に根強いために、相手に対して譲歩ができない状態になっているように見えます。

自分が被害者だと確信した人間ほど恐ろしいものはいない

自分こそが被害者であって救済されるべきだという考えが、人間に最大の暴力性を与える例は枚挙に暇がありません。今の世界を見渡してもそれは悲しいほどに当てはまります。そうなってしまうと、本当は協力すべき相手であっても、「潜在的な加害者」であることを理由に、すべてが敵に見え、攻撃的な表現を厭わなくなります。

私自身も、月曜日のたわわのファンの一人なので、自分がまったくそのつもりがないにも関わらず、勝手に体を触ったりするような犯罪者と同一視され、好きな表現が世界的な権威を借りて抑圧されている様は辛く、被害者のような気分にもなりました。

が、そこで自分とは反対側の意見も摂取して、考えを整理することで、根本的に性犯罪者がいなくなればこんな地獄は生まれないのに、という結論に至りました。

性犯罪が完全に無くなった世界を仮定する

最初に結論を書いた通り必要なことは明らかです。理想論としては、性犯罪者を完全に撲滅することです。

ここではあくまで仮定の話として聞いてほしいのですが、この国から性犯罪が完全に無くなった(少なくとも今の男性と同程度に気にしなくても問題なくなった)と仮定しましょう。そうすると、異性に(性的な要素も含めて)魅力を感じたりすることに、本質的な男女差が無くなります。

女性向けのコンテンツで男性が性的に消費され、それらの広告表現にお咎めがいちいちつかないのは、別に「オタクは表現の自由に寛大だから」とかではなく、「その先で自分が被害に合うとは想像もつかないから」だと考えられます。

であれば、性犯罪被害が撲滅されたと仮定した時に、男性向けコンテンツで性的に消費される女性もそれをある程度寛大に受け止める、あるいは無視することが同様にできるはずです。

魅力的な女性のイラストが広告に使われても、それは一部の女性をエンパワメントすることがある一方で、そうではない女性は少し憂鬱な気持ちになるかもしれません。しかしそれは、魅力的で強いヒーローと自分を比べてしまう男性の憂鬱と本質的な違いがあるとは言えず、それをもって社会から排除されるような謂れはなくなります。

もちろん、あからさまに異性に対して従属的な(露出したり性行為を求めたりする)表現は、公共の掲示物として不適切だろうと判断するでしょう。(その理由は主体性の欠如というもので、対象が男女問わず判定可能ですが、詳しくは後述します)

しかし、単に胸が大きいとか、衣服が魅力を強調しているだとか、そういったことは「創作なんだから魅力を強調するのは当然である」で済む話であり、それがダメだと言うなら、筋骨隆々の男キャラも同様に禁止されるべきみたいな話になり、そうした世界が望ましいとは思えません。

私は個人的に筋骨隆々の男キャラが嫌いなので自分から避けていますし、そういう広告を乗せる媒体は切っていますが、この「嫌なら見るな」理論が通るのも、私が筋骨隆々になろうがならなかろうが、(それは確かに男性的な魅力の一つだろうけど)犯罪にあったり差別にあったりしない、という社会的な安心感があるからです。

さて、女性の方からすると「そんな馬鹿げた仮定は想像できない」という話だったかもしれません。ですが、安心してください。これは(何度も言いますが)あくまで仮定です。現実は性犯罪があります。女性は現に、性的な魅力によって犯罪にあったり、あるいは差別されたりする社会で生きているらしいのです

この仮定は、まず、オタク男性の立場の方に「性犯罪が本当になくなると、どれだけ自分たちが不当な抑圧から開放されるのか」を想像してもらうために書きました。オタク男性全体を信じるのであれば、街中にアニメ絵が蔓延っていながらも性犯罪が撲滅されているという状態が(少なくとも理想的には)両立するはずです。

しかし、現実に被害を受けたり警戒を強いられている女性は、到底そのような世界は想像できないでしょう。特にそうした被害の記憶を持っている女性にとっては、記憶が消えない限りそうした世界(=性犯罪の事を本当にまったく心配しなくて良い世界)が来ることは無いのであり、取り返しのつかない状態であると言えます。

オタクとフェミニストが協力して性犯罪を減らす方法を考える

なので、そうした現実を踏まえた上での私の立場としては、性犯罪者が撲滅された世界というのを最終目標として、そこに至るまではオタク男性も社会の一員として協力したほうが良い(なぜなら、それが達成されることで自分たちも社会的な抑圧から開放されるから)、というものです。

記事公開時点では「オタク男性も様々な表現やリソースでそれに協力するべき」と表現しておりましたが、公開後に頂いたご意見の中で、
●「べき」という表現は強制的な意味が含まれ、自発的とは言えない
●オタク男性が不当に差別されているのに、片務的にリソース負担を強いられるのは納得がいかない
というご指摘を真摯に受け止め、修正させていただきました。
性犯罪撲滅や抑止に向けた取り組みは、オタク・男性のみならず、社会全体の問題であると考えます。オタク表現以外にも、(負担が受け入れられる範囲で)同様の注意をするべき表現は無数にあります。

ただしその方法は、「胸が大きい女性のイラストを公共空間から排除する」というものである必要はまったくないと考えます。

例えば広告と一緒に「合意のない関係における女性への接触は重罪です。本作品はフィクションであり、実在の女性の姿や振る舞いを描いたものではありません。たとえ女性が反撃や反論ができなかったとしても性犯罪は成立し、絶対に許されるものではありません」くらいの文言を添えるとか。文言は専門家に考えていただくとして、同様に性的な魅力を作品の糧としているものには必ずテンプレとして貼る、くらいの事をしても良いのではないでしょうか。また、作品の売上の一部を実際の犯罪抑止力や、被害者救済といった活動に寄付するといった協力も考えられます。

他にもいろんなアイデアはあると思います。例えば、漫画の中では主人公に気を許している魅力的な女性キャラが、同意を得ていないまったく別のモブキャラから触られて激怒しながら「痴漢ダメ!絶対!ふざけんな!」くらい言っている広告を作るとか。。

それでも、現状では女性がそうした広告表現やキャラクターから「そういう危険がある社会である」ことを意識せざるを得ないわけで、それは完全にオタクではなく犯罪者のせいなんですが、フラッシュバックを起こすような表現は自粛するべきという向きもあると思います。これは、311の直後に津波の表現があらゆる場面で自粛された状況と似ているように思います。つまり、非常に深刻な被害で心に傷を負っている人間が少なからずいる場合、配慮したほうが良い、というのは当然の自主的な判断としてあるわけです。それが法律に書かれる必要はありませんし、外部から基準を決められる話でもないと思います。

(その意味で、今回の広告は「過剰ではない」と私は思いますが、そこの天秤の重さは自分では片方しかわからないので、社会の判断に委ねます)

結論が正しくてもその論理は間違っている

お互いが被害者であるという歴史的な問題の他にも、本来協力できるはずの両者が対立し続けている理由としてもう一つ、両者の「議論の仕方」がまるで食い違っていることが挙げられます。

あまりジェンダーステレオタイプを強化するようにはしたくないのですが、残念ながら私のタイムラインに流れてくるツイートの傾向としては、論理を優先するオタク(論理的にそれが通るならこれが通りますよ、それでいいんですか?何言ってるかわかってますか?)と、結論を優先するフェミニスト(揚げ足を取るな、話をずらすな、理解できないのはどうかしている)、というように見えました。

私はこの点では、論理を重視すべきという立場ですが、これは「論理がなっていない奴の言うことは間違っている」と言いたいわけではありません。むしろ、「結論は正しいのに論理が雑なせいで味方を減らしている」と言いたいのです。

ここが、私がこの記事で一番伝えたい部分なので、丁寧に書きます。

論理とは、

「異なる考えの人と合意形成をするための道具」です。

決して、

「異なる考えの人を論破して挫くための道具」ではありません。

この炎上の発端となったハフポストの記事は、その論理構成において(既に多くの方が指摘、いや、「論破」しまくっているように)かなりの部分が破綻しています。

しかし、論理の破綻を指摘することは、「論理が破綻しているから結論もダメだ!」という事ではなく、「その論理を破綻なくすることで、結論がより多くの人に伝わるんですよ?」という協力の申し出に、なるはずなんです。

そうした考えを実に丁寧に書いていらっしゃるのが、こちらの記事です。

全部で1~9までありますが、1つずつは短めです。

大まかな流れとしては、

「イギリスでは2019年から広告標準化協会が「性別にもとづく有害なステレオタイプ」を使った広告を禁止している」という話なんですが、これがどういうものか、っていうのが気になりますよね。
(中略)
魅力的だったり健康だったりそういうモデルを使うの自体はかまいませんよ、とまたただし書きがついている。けっきょく魅力的な人物を抜きにして効果的な広告が作れない、ということは広告基準協会もよく理解しているわけです。
(中略)
というわけで、ステレオタイプの議論はあんまり筋がよくないと思うんですわ。でも、協会の基準やアドバイスには治部先生のような人が根拠にすることのできる項目が別にあるのです

『月曜日のたわわ』広告問題(4) どこが有害なステレオタイプか
https://yonosuke.net/eguchi/archives/15399

というのが中心でしょうか。すなわち、ハフポストの記事では勝手な解釈で濫用されていたガイドラインの本文をちゃんと引用し、当てはめるべき用例を検討し、これを当てるのは無理があるけど、こっちを使えば規制までは行かなくても意見くらいは出せる、こういう方が筋がいいんじゃないでしょうか?という、非常に冷静な提案であるわけです。

正直、この記事が広まるだけでいいんじゃないか、と思いました。それが広がらないのがSNSの残念なところなんですが。

このように建設的に論理を使えば、(その結果として排除される結論もあるんですが)同じ結論の一部をこうして皆に納得行く形で説明できます、ということができるんですね。

「論理が間違っているのに結論が正しい」ということがイメージしづらいという方に、ちょっと数学の話をさせてください。

フェルマーの最終定理という、有名な定理があります。フェルマーという昔の天才数学者が、「この命題は正しいと思う」という(結論の)予想だけを残して、自分自身はそれを(論理で)証明せずに生涯を終えました。そこに書き残されたのが有名な「私はこの定理について真に驚くべき証明を発見したが、ここに記すには余白が狭すぎる」という言い訳(?)です。

1995年にアンドリュー・ワイルズによって完全に証明された今では、その「結論」は正しいことがわかったわけですが、フェルマーが生きていた当初は「結論は正しかったものの、論理としては破綻」していたわけです。なんてったって「余白には書けない」と言っただけですから。

「私の感覚ではこれが正しいことは間違いないけど、あなたにはそれがわからないんでしょうね。教えてあげる義理なんてありませんけど」

みたいな突き放し方を、ジェンダー論やフェミニズムの専門家の方々はたびたびしているように見受けられます。

これは単に私のTLに流れてくるものが炎上しやすいものだっただけ、という可能性が多いにありますが……このやりとりは非常に残念に見えました。

これはまさに、フェルマーが「俺は証明を思いついたけど、ちゃんと説明する暇も義理もないわ。余白に書く(≒ツイートする?)くらいならいいけど、書ききれないし」と、諦めた状況に似ています。

そうすると大変な事が起こるわけです。確かに、フェルマーの最終定理が「なんとなく正しそう」という事はわかるのですが、それが「本当にどんな数でも絶対に常に正しいのか」と論理で証明をするのに、300年以上の歳月を数学者は費やしたわけです。

おかしいと思いますか?だって結論は「正しい」ってフェルマーはわかってたって言ってたし(実際正しかったし)、それを論理であれこれ言わなくたって、正しいと思えばいいじゃない!

なんて数学者は絶対に思いません。なぜでしょうか。
それがまさに「合意形成」のためです。

論理が認められたものは、誰であれ、同じような道筋で理解することができる。同じ理解に立った上で、その先を議論できる。

論理が認められていないものは、誰かが理解したつもりになったとしても、同じように理解したい人に道筋を示すことができず、「いいから正しいと思え」と権力と暴力で押し付けることしかできない。

これが論理を使う人が最も大切にしている「普遍性」というものです。

論理は、多くの方に道筋を共有するために存在しているものなんです。

↑のブログを書いた江口先生が「論証が大事」というのは、まさにそういった意味で、泥沼の対立から抜け出すために、論証が大事なのです。

残念ながら、世の中には論理的な話を始めるなり聞き耳を閉ざすような方がいます。ただそれも「相手は論理で自分を屈服させようとしている」という被害者意識によるものなのではないか、と感じます。そういう嫌な論理(らしきもの)を押し付けてくる人には、聞き耳を貸す必要はありません。

しかし、まともに論理を使う人は、合意形成を目指しています。あなたの考えを、こういう風に道筋を立てたら、他の人も同じ道筋をたどるだけで理解できるようになると思うんですが、どうですか?と提案しています。もちろんそれと同時に論理的でない主張は取り下げないといけません。

数学とそれ以外の社会的な話題では、論理の確かさはまるで違うものです。言葉が厳密に定義されていない以上、齟齬は生じます。それでも、論理を大切にしなければ平和的に合意することはできません。

お願いですから、論理を使って議論しようとする方は、相手をやり込めて終わりにせずに、「こうすれば合意できますよ」という提案まで行ってください。1ツイートの余白には書けないからといって、論破してスッキリして終わり、では無責任であり、その積み重ねが「論理を使ってくる奴は敵だ、悪意がある、揚げ足取りだ」というイメージを作ってしまっているのです。

お願いですから、女性が自身の立場を主張する際も論理を大切にしてください。破綻した論理で自らの感情を吐き出しただけでは、共感する人はいても、協力する人を増やすことはできません。

フェミニストが論理を蔑ろにする姿勢は、「女性は非論理的」といったジェンダーステレオタイプを強化してしまいます。そうではない女性も沢山いるはずです。私のいた大学の数学科では圧倒的に男性が多かったですが、最近の研究結果ではそうしたバイアスは「女性は数学が苦手」というステレオタイプによる結果で、「アジア人は数学が得意」と聞かされたアジア人女性は数学のテスト結果がよかった、といった実験もあったそうです。

論理の誤った使い方をせず、お互いのために使ってください。

論理の道筋を立てるために、論点を洗い出す

ここまで書いたので、自分なりに、どうしたら論理的に今回の広告を批判できるのか、考えてみます。といっても、私は作品のファンの側なので、バイアスがかかっていることは否めません。ただ個人的な感触としては、規制するまではいかなくとも「広告としてどうなんだと主張して、配慮するべきという合意を取り付ける」くらいは論理的に言えるんじゃないかと思います。

まず、結論として狙える可能性のあるものがいくつかあります。この広告表現が

  1. 不快であるため、できれば遠慮してほしい

  2. 性犯罪を想起させるため、自粛すべきだ

  3. 性犯罪に繋がるため、規制すべきだ

というもので、1→3に行くほど過激な主張であり、相応の証拠が求められるはずです。

1,不快である、とは、誰でも言えます。当然、言論の自由として行使されるべきです。女性はもちろんのこと、男性でもそうした表現を公共の場で目にしたくない、という意見もあろうかと思います。イギリスの広告基準協会でも、原則として「みんながすごく不快に思うような広告はやめよう」というものがあるそうです。例えば私のように「蝶」が本当に生理的に無理という人が実は社会で一定数いるのであれば、蝶を使ったイメージの広告は、規制まではできなくとも「やめて」と声を上げて配慮してもらえる可能性はあります。しかしその判断は、相手次第です。

2,性犯罪を想起させる、という評価ですが、これは論理の道筋を作ることはできても、その途中でいろんな変数(社会的な背景や、作品の内容や、広告を出した意図なども含めて、どのように解釈されるか)があるので、結論を出すためには全ての誤解やすれ違いを解きほぐさなければなりません。が、その努力の価値はあると思います。

長いので、3つに分けて考えていきます。

2-1、広告は性犯罪を肯定しているか。

私としては、作品を全て読んだ上で、月曜日のたわわが性犯罪あるいはそれに近しい行為を肯定する描写は本当に1ミリも無く、逆に、偶然や事故であってもそうしたシチュエーション(いわゆるラッキースケベ)が起こったことを徹底して「許されないこと」「喜んではいけないこと」として描いている、と理解しています。

第1話 アイちゃん①

第一話、話題となったラッキースケベなシーンの直前のコマが↑。作中では基本的にこの「不当に胸を触ったりしたら死刑」という価値観がコミカルではありますが貫かれてますね。
男性はすべからく性暴力的なことを望んでいる、かのような前提で描かれる前時代的作品と違って、性暴力は許せない、欲求は隠すべきであるという現代的なスタンスの主人公の方が感情移入しやすく、またそのような壁を何重にも描くことの方が、最初から裸を晒すような表現よりも結果的にエロい、と思います。

ただ、広告からそこまで作品の配慮が読み取れるわけではないので、あくまで広告を問題とするのであれば、広告表現を見る必要があります。

2-2、広告は女性を主体的に描いているか。

一方で、治部先生の↓は流石に無理があろうと思われます。

治部准教授は「この基準に照らすと、今回の全面広告は、『未成年の女性の肉体に欲望を抱く男性の視点』のみに偏っており、見られ、触られる側に立つ女子高生の『人格や主体性』は考慮されていません」と指摘する。

「月曜日のたわわ」全面広告を日経新聞が掲載。専門家が指摘する3つの問題点とは?
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_624f8d37e4b066ecde03f5b7

この「肉体に欲望を抱く男性の視点のみに偏っている」という評価は(文章の前後が切り取られているので正確なところまではわからないのですが)、少なくとも広告の中心である女子高生キャラクターの絵から言うことは非常に難しいです。しかしながら、アニメキャラクターにはこの「主体性」というものが、本質的には存在していない事が議論を難しくしています。現実の女性は胸が大きくても主体的であるのとは違い、女性キャラクターの胸を大きく描いているのは作者だということもまた事実です。

これについては、以前いろいろ考えたことがあって、

この時の論理展開としては、

・性的な格好をしている女性は主体性が欠如していると言えるのか
・スーツを着る男性も同様に従属性が強調されているが、何が違うのか
・スーツは多くの人にとって「拒絶するほど嫌」ではないが、性的な格好は一定以上の人にとって「拒絶するほど嫌」なのではないか
→非実在キャラクターが主体的かどうかの判定は、「同じ行動を拒絶する人がどれだけいるか」で変化するのではないか

というわけで、やはり過度に性的な露出や誘惑的な行為などは「こんな事はしたくない」と思う方が男女問わず多いでしょうし、そういうのは「主体性が感じられない」ために(たとえその作品内でキャラが主体的であったとしても)公共の場にはふさわしくない、という論理展開が可能に思えます。

その点で考えると、今回の広告表現は非常に丁寧にそこをクリアしており、「制服の女性が」「胸を後ろに隠している」という構図は、魅力的な顔とスタイルをした女性が主体的に学校に通おうとした結果として自然と選択せざるをえないものの一つです。これを「多くの女性が拒絶するような表現」としてしまうと、胸が大きい女性は存在するだけで「ああなりたくない」と拒絶されるのが一般的だと解釈しなければなりません。それこそ、胸を潰すなどの痛い事をしない限り。そうするべきという過激派な女性もいらっしゃるかもしれませんが、それが多数派だとは私には到底思えません。

2-3、広告は女性の性的な魅力と男性の欲求を結びつけているか。

では、最後の可能性として、文言などを含めた「メッセージ」を考えてみます。私が反対意見を色々と読む中で最も納得できたものが、編集部の「元気になってもらうために全面広告を出しました」という意図が地獄みを増している、というものや、また作品タイトルでもある「たわわ」が明らかに巨乳を表しているといった点です。

この絵だけからは顔とスタイルの良い女性が主体的に立っているだけに見えるとしても、それを「新入社員に元気になってもらうために、たわわをお届けする」というメッセージ、文脈と共に新聞に掲載した、という部分のみを指摘するのが論理としても多くの方に同意されるのではないでしょうか

もちろん、この点についても様々な捉え方ができます。新入社員は男性に限ったことではないですし、この表現を見て元気になる女性がいることも想像に難くありません。一方で、作品自体が「たわわで元気になってもらう」という比村奇石先生や私のような男性の欲望を描き出すコンセプトであることは明らかで、広告上の文言からも「そういう作品」であることは読んでいない方にも十分伝わるでしょう。広告なんだから伝わらないとダメですよね。

では、この広告が「女性の性的な魅力と男性の欲求を結びつけている」ことを読み取った女性がどう感じるかは、考慮すべきではないでしょうか。胸の膨らみを見て、無害な人の内心が元気になるだけならまだしも(それが気持ち悪いとしても)、恐ろしい牙を向けようという一部の異常者、犯罪者がいることを実感している場合、そうした危険性を想起させるには十分と評価される可能性はあります。

ここで慎重に切り分けたいのが、女性に「性犯罪の危険性を想像させる」ことと、男性の「性犯罪と結びつく」ことは、全く別のことで、津波の表現を規制しても津波が無くなるわけではないように、広告を規制して犯罪が無くなるわけではありません。

そのため、

3,性犯罪に繋がるため、規制すべきだ、という結論にはまったく至らない、と考えます。

こうした絵や広告を消費する人は、私を含めて、犯罪者ではありませんし、こうした表現に犯罪を誘発されることは誓ってありません。そうした犯罪者と同一視されることは、侮辱にあたります。一方で現実に目の前にいる男性がどちらなのか、女性からは見分けがつくことはなく、それは女性の責任ではなく犯罪者の責任です。

そこを履き違えると、↓のような非論理的な主張をしてしまい、仲間を減らし敵を増やしてしまいます。

ここでは、「(オタク的な表現の)消費者」と「性犯罪者」に「関係があるはずだ」という主張がなされていますが、その論理は多くの人に通じる形で成り立ってはいません。

これは背理法のような形で簡単に示すことができます。

もし、「消費する人」が「犯罪を犯してでも奪う人」になる、という関係を認めるとするなら、その仮定を用いて、「美味しいご飯を消費する人」が「食い逃げをする人」になる、という関係をも認めることができます。

しかし、「あなたはご飯を美味しそうに見ている。それが食い逃げにつながらないと絶対に言えますか?」と聞かれたら普通の人は「絶対にありえない」と応えるでしょう。すなわち、消費は犯罪に繋がるという仮定が間違っています

消費したい魅力的なものは、犯罪をして奪うものではなく、対価や関係性を通じて与えられるものです。犯罪をしてしまう人は、その人格や精神状態の異常のためにそうした常識を破ってしまうのであり、消費がそのような異常を招くという主張は理解できません。

このように道筋がたっていない論理に従ってしまったことで、この方は(男性や、それを擁護する女性のことを)「女性たちが被害に遭おうとどうでも良いと思っている」と蔑んでしまっています。

私はそう思われたくないのでこんな長文を書いていますが、誤った論理から「女性のことをどうでも良いと思っている人」と一緒くたにされたのでは、合意形成への道が断たれてしまいます。

道筋の良い論理としては:

「2,性犯罪を想起させる」の主張で、かつ「2-3、広告は女性の性的な魅力と男性の欲求を結びつけている」点を理由とし、それを見た際の女性の精神的な負担を考慮して、掲載場所に配慮すべき、あるいは配慮した文言を添えるべき、とは言えるのではないでしょうか。

多くの(まともな)フェミニストも言っているように、「作品自体が青年誌などで描かれている分には問題ない」わけで、実際、私はそうして作品を普通に楽しめているわけです。逆に新聞とか読んでませんし、新聞広告には載せなくてもいいよね、という風になっても、既に「私には届いていた」ので、そこに限っては問題はありませんでした。

もちろん、これが「配慮」を超えて「規制」になると、商業上の制限がかかるわけですから問題が生じると思いますし、概して配慮というものは実質的な規制にもなりえます。

ここまで論理の道筋が通っていれば、あとは女性が「どれくらい避けられない掲示場所か・どれくらい辛いのか」という程度と、表現者が「どれくらい商業的に制限されるか・どれくらい売れないと生きていけないか」という程度の綱引きになると思います。その綱引き自体は、やはり一種の争いにはなると思いますが、お互いが「そんなに辛いんですね」という相手の視点に立つことができれば、歩み寄りも見えてくると思います。

メタ的な批判

ここまで書いておいて、ちょっと後悔しています。

なぜかというと、こうした無数の言及によって、「月曜日のたわわ」が本来届くべき範囲を超えて広がり続けているからです。広告戦略としては、メタ的に大成功と言って良いでしょう。一方、「見たくないものを見ない権利」とか言っていた人は、むしろその権利(が存在するのであれば)を侵害する方向に非常に大きく貢献したことになります。なんという皮肉でしょう。

以前から比村奇石先生の作品を追っていた読者としては、平和に楽しんでいた頃に戻れない気がして悲しいです。新作が発表されると別の意味で槍玉に挙げられて、わざわざ見たくないものを見に来るフェミニスト[炎上に加担したいだけの一部のネットユーザー]に燃やされる可能性を想像すると鬱屈としてきます。

記事公開時点では「わざわざ見たくないものを見に来るフェミニスト」としていた部分を、「フェミニスト全体が見たくないものを見に来る集団」ように誤読される恐れのある表現でしたので、訂正させていただきました。

しかし、商業的にはそれが成功なのかもしれません。炎上と擁護が続くことで「私は買いました」という支援者が増えるかもしれないし、どうせ今まで買ってた人は買い続けるし、批判する人はどうせ買わないわけですから、プラスしかありません。

SNSにおいても、見たくないものを見せられる非読者と、わざわざ掘り起こされたくもないコマを掘り起こされて批判される読者を尻目に、お互いのフォロワーの結束を高めたりバズらせて社会的地位(?)を高めるための道具として利用されるわけです。

私のブログがそうした燃料の一部になるかもしれないと思うと、今更ながらインターネットと資本主義に踊らされているだけなんじゃないかという気分になります。

個人的な理想として

後悔しつつも記事を書き上げて公開しようと思ったのは、この問題が自分の存在に関わっていると思ったからです。

自分はかねてよりこうしたジェンダー論争には個人的な興味がありました。自分自身は一般オタク男性的な趣味を持ちながら、自分自身の見た目については女性的なものや中性的なものが好きで、女性が持つ美しさに対して、性的な欲求と、同一化したい憧れが共存していることがその理由です。

街中で美しい女性を見ると、美しいという気持ちや、(独り身の頃であれば)どうしたら付き合えるんだろうという虚妄や、そして、自分はどうしたらそのように美しく人目を引くようになれるだろうという羨望が入り混じります。そしておそらく、自分はその羨望の方が強い。2次元でも3次元でも「美しく描かれる女性」は消費の対象というよりも「こんな風になりたい」という憧れの対象なのです。

私は「性犯罪が完全に無くなれば」性的な魅力を持った女性のイラストが広告に使われても問題なくなる、と主張しました。一方で、たとえ性犯罪が無くなっても「女性を性的な目で見ることそのものが許されるべきではない」と主張する向きもあるかもしれません。私は、それには反対する立場です。それはむしろ「魅力的に描かれる機会が圧倒的に少ない男性」の方が差別されていると考えます。性的だろうと何だろうと魅力的な表現というのは第一に「価値がある」というメッセージです。そこに「不当に価値を奪っても良い」などの意味や連想が生まれる社会状況が問題であり、価値そのものを毀損する立場(こんな都合の良いやつはいない、気持ち悪い、など)はその方が差別的であると考えます。

女性は、現実でその「美しさ」を欲する者たちからの負の側面を大きく感じているはずです。しかし、負の側面を体感していない男性からすると、美しさの正の側面、すなわち、存在するだけで多くの人から肯定され、求められ、注目され、祭り上げられることが、羨ましいわけです。

これについては、お互いどうしたって反対の立場は味わえないので、いくらでも「負の側面」の言い合いに発展するでしょう。

女性だから、で祭り上げられるのはいい気分はしないでしょう。
女性は美しくなければいけないと圧力を感じるのは嫌でしょう。
女性は守られているなんて言うやつは何もわかってないと思うでしょう。

しかしその逆も嫌だと言えます。

男だから、恐ろしい競争に勝たなければ見向きもされない。
男が美しくなっても意味がない。
男が存在だけで肯定される事は絶望的に少ない。

別にどちらがより惨めかなんて言い合いをしたいわけじゃないんです。ただ、どちらにも悪い側面と、良い側面がある。誰しも、悪い側面は潰したいし、良い側面は当然のものとして享受したい。

私は男ですが、ここ数年で引きこもっていた間に髪を伸ばして、メイクを勉強してみて、スキンケアに気を使い始め、できるだけ自分の理想とする「美しい人間」になろうとしています(女性に、ではないです)。自然と女性を見る目線も、「メイクのどこに気を使っているのか」とか「ファッションは何が決め手なのか」といった方に向いてくると同時に、男性がそのような情報やアイテムを手に入れようとした時の社会的な壁や抵抗感といったものも実感しつつあります。

ただ、こうして色々整理してみて気がつくのは、私が純粋に「美しくなりたい」「もっと注目を浴びたい」「皆に肯定されたい」と思えるのは、女性が抱える美しさの「負の側面」を感じていないからです。

女性が感じるような「こういう格好をしたら襲われるんじゃないか」「実力ではなく見た目で判断されるのではないか」そういう不安を私は「男だから」感じていません。正確に言うと「性犯罪者を警戒しなくて良いから」「体だけを欲して取り入ろうとする異性を恐れなくて良いから」堂々とこんな事が言えるわけです。

性犯罪者や、女性の体だけを求めて近づこうとする不届き者が存在しなければ、女性も自分の美しさを磨くことに何の引け目も感じず、むしろそれを強みとして自信をもって生きることができるはずです。

それこそが「人格や主体性が尊重される社会」ではないですか。現実は、自身の魅力的な部分を、犯罪者や不届き者などのごくごく一部の例外的な人間を前提に、押し留めなければならない。むしろ自らの価値の一つであるはずの魅力を全面に出した広告や表現は「犯罪者や不届き者を助長させる」として規制される、そんな世の中の方が「主体的に生きられる」と言えますか。それは女性じゃなくて犯罪者に配慮したやり方じゃありませんか。

それなら犯罪者の方が消えてくれ、と思うのが普通だよな、と気が付きました。一応念のため最後に書いておきますが、性犯罪者にも何らかの障害などで抑えきれないとか、更生の余地があるとかは、法と司法の許す限り頑張って生きてください。しかし、私はまったくもって許せません。

個人的な理想としては、そのような犯罪が消え去り、男女ともに美しさを気兼ねなく能力の一つとして利用できるようになり、また、男性も美しさを競ったり評価されたりしやすい世の中になると、生きやすいなぁと思います。ルッキズムではあるでしょうが、私はそれを否定しません。

まとめ

お互いが(別の形での)性犯罪被害者であるという認識に立つ

フェミニストとオタクは、それぞれが性犯罪の別の形の被害者である(一方は直接的な性犯罪の被害者として、他方は間接的に罪をなすりつけられ、社会からも誤解されている立場として)ことから、本来は手を結んで性犯罪に立ち向かうべき関係が、被害者意識が強いせいで、お互いを敵認定しあっており、ひどく荒んだ状態にあります。

性犯罪が完全に無くなった世界を仮定する

たとえどれだけ非現実的であろうと、性犯罪を完全に無くすことができれば、双方にとって理想的な状態になるはずです。それに少しでも近づくために、性犯罪が現実に自分たち以外の存在から日々繰り返されているという現実を認識し、オタクの方からも協力する、配慮するという動きが必要です。

結論が正しくてもその論理構成は間違っている

協力のためにはお互いが合意できる「論理」が必要です。論理がなっていないと、権力や暴力によって物事を決めるしかなくなり、そのような世界には協力できません。フェミニストの方は、結論が正しいという自信があるとしても、論証を怠らない、しっかりとした議論の場に立つことが必要です。

論理の道筋を立てるために、論点を洗い出してみる

私なりに整理した結果、今回の広告表現が犯罪と結びつくというのは筋違いであるものの、犯罪被害を想起させてしまう精神的負担や、単に不快であるという主張から、相手に配慮を求めたい、ということは筋道立てて説明できると考えます。

(女性が)「犯罪を想起してしまう」ことと(男性の)「犯罪に繋がる」ことはしっかりと分けて議論することが、多くの罪のない男性を味方につける大前提として必要です。現実では見分けがつかないので自衛として避けられるのは甘んじて受け入れますが、存在として犯罪者とオタクはまったく別のものであるという前提で協力を進めましょう。

本記事へのご意見・ご感想について

私はジェンダー問題に関して素人であります。専門的な勉強をしたわけでもなく、議論に参加してきたわけでもありません。そのため、過去に踏まえられた議論の結果などと相容れない部分があるかもしれません。

過去の議論を踏まえたご指摘や、また女性の立場から私がわかっていない視点などがあれば拝聴させていただきます。が、それについて深く勉強しろとか調べろと言われても、これは仕事ではありませんので、ご容赦ください。

ご感想については、賛否ともども真摯に受け止めます。

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