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外国語と私

今回は、私の言語、特に外国語に関わる人生を
まとめてみようと思います。

自分史の中の外国語部門という感じでしょうか。
もし、ご興味があれば…

※今後も、この記事は
書き足していきたいと思っています。

日本語と私

私は、日本生まれ日本育ちで、
両親は日本語のネイティブスピーカーで、
周りもそうでした。

ですから、私と言語の出会いは
日本語が最初です。

幼少期の私はとにかく無口だったそうで、
文字を読めるようになったのも
小学生になるギリギリ前だったそう。

いつまで経っても言葉が少ない私を見かねて、
父があいうえお表を見せて教えてくれたら、
あっという間に覚えてしまい驚いたそうです。

その後、小学校中学年頃からは
自ら希望して書道教室に通いました。

もともと、迷路やパズルの本が好きで、
漢字ドリルにある薄く書かれた模範線を
なぞることと、迷路の共通点を見つけて
夢中になっていた私は、

文字というものに対して、
漠然と魅力を感じていたのだと思います。

ひらがなのやわらかさ、
カタカナのお堅いかんじ、
漢字の中にあるパーツやその意味を発見する面白さ。

日本語の表記に魅力を感じる
海外の方々の気持ちがよくわかります。

大人になってから、
漢字検定も2級まで取得しました。

日本語は、その言葉自体が
無くなって欲しくない文化の一つです。

英語と私

小学生の頃、家族でハワイ旅行をしたのが
英語と私の初めての出会いでした。

父が、一生懸命英語を使って
コミュニケーションしようと頑張っていましたが、
発音がよくないようで、なかなか通じず、
店員さんから「What?」と聞き返されていて、
そのやり取りをドキドキしながら見ていました。

印象的だったのは、店員さんが、
お客さんに対して、対等というか、
日本だと「強い」と感じるくらいの
堂々とした態度で接していることでした。

最初、自分たちが外国人だから
ちょっとバカにされているのかな?とも
思ったりしましたが、
よく観察していると、誰も父や私たちを
下に見るような態度はとっておらず、
むしろ「対等」に接してくれていて、
父の不器用な英語を理解してくれようともしていて、
特にこどもだった私たちには笑顔を向けて
優しく接してくださることに気づきました。

そして、やり取りの最後には、ほとんどの店員さんが、
「Have a nice day!」といったような
明るい言葉と笑顔をくださって、
そのおかげで英語を話す人に対する
無意味な恐怖心がなくなりました。

その後は、中学受験の勉強で手一杯で
特に外国語に興味を持つこともなく、
中学生になり、英語の勉強が始まりました。

英語の先生はバリバリの日本人で、
しかも自分が所属していた剣道部の顧問。
ジャパニーズ・オブ・ジャパニーズ(笑)

素人の自分が聞いても下手な発音、
英語を話せない日本人から英語を学ぶ理由がわからず、
モチベーションはゼロ。

しかも、その先生が
「マイケルジャクソンの綴りを覚えられるかどうかで
その後の英語の成績がほぼ決まる」と、
受験英語に染まった見当はずれの発言をする人で、

英語をツールとして持つ人生のすばらしさについて
何も語りませんでしたから、

当時思春期ど真ん中の私は、
その先生をバカにしていましたし、
その先生から教わらなければならないこと、
生徒の幸せを願う先生ゼロの
その学校自体にも辟易していました。

「英語も言葉なんだから、
コミュニケーションして
初めて意味を成すものでしょ?」と
考えていました。

というわけで、私の英語の成績は底辺。
勉強してませんでしたから。

でも、学校から
英検3級を強制的に受験させられると、
面接試験もパスして、なぜか合格。

後日、別の先生が英検の結果発表の後、
「こいつは絶対受からないだろうというヤツが
受かって、こいつは大丈夫だと思ってたヤツが
落ちたりしてて不思議」と
言っていたのが、いろんな意味で印象に残っています。

(生徒を「こいつ」と呼ぶような教養のない大人が、
私立の進学校にも普通に存在する国、日本(笑)

その後、高校3年生の冬に、バイトでお金を作り、
親友とオーストラリア旅行へ。

オーストラリアの人たちは、
とにかく陽気でのんびりしていてフレンドリーでした。

旅の途中で、オーストラリアに留学していた
友だちと合流して映画館へ行ったりしましたが、
イタリアとのクオーターで努力家の親友と、
もう一人、オーストラリアに留学中の友だちに、
英語での会話はお任せしていて、
私自身は、お店での注文くらいで、
ほとんど話したりしませんでしたが、

旅の途中に出会った、オーストラリアに住む
日本人(大人)の方と食事をした時に、
英語で会話をすることを頑張ってみて
フィードバックをいただいたり、

帰りの飛行機への荷物検査の時に、
空港の職員さんから、
「Oh! You're a superman, right?」
と、テーマパークで買ったスーパーマンの
Tシャツを着ている私を見て明るく突っ込まれて、

「No! I'm a super woman!」と返して
二やついたら、大笑いしてくれて、
英語があれば、こんな風に
コミュニケーションできる人数が
めちゃくちゃ増えるかもしれないと思えました。

姉とイギリスを旅した時は、
留学経験があり英語が得意な姉が
ほぼ全部のやりとりをしてくれ、
私はそれに思い切り甘えていたため、
せっかくの機会を失いもったいないことをしました。

手話と私

大学在学中だったか、細かい時期は忘れましたが、
手話に興味を持ちました。

日本にも、耳で聞こえる言葉では
コミュニケーションできない方々が
たくさんいらっしゃることを知り、
自分が手話を覚えれば、
日本にもコミュニケーションできる人数が
増えるのではないかと思ったのがきっかけです。

自分がコミュ障だからこそ、
話せる相手を増やせるかもしれないことに
興味を持つようになったのかもしれません。

しばらくは独学で、NHKの手話番組を見て
見よう見まねで勉強して、

その後、市が開催している手話教室に
数回通いましたが、自分がコミュ障であることに
一番の壁があると思い知り、早々に挫折してしまいます。

でも、自分が声を失った期間には
手話が少しだけ役に立ち、
音がない世界を知る方々との関わりについては
ずっと興味を持ち続けています。

イタリア語と私

世界史の授業で、イタリアの街並みの写真を見て
こんな景色が現実に存在するのか!と驚き、
ため息が出るほどの美しさに一目ぼれしました。

そこからイタリアに憧れを持つようになり、
なぜ、陸続きのヨーロッパで、
イタリア語というその土地に特化した言語が
いまだに残っているのかも不思議に感じました。
(イタリア語だけではありませんが)

そこで、NHKのイタリア語会話の番組を見ながら
テキストを買ってきて独学で勉強。

職業訓練校の終わりに、そこで出会った友人と
イタリア旅行に行きました。

添乗員付き、観光バスで
南イタリアとバチカン市国を巡る旅でした。

イタリアに着くなり同じ機に乗ったほとんどが
ロストバゲージに遭いましたが、
おかげで行く予定になかった
地元の小さなショッピングモールのような所に
連れて行ってもらえて、イタリアの日常を
感じる機会になりました。

また、アルベロベッロでは、
早朝にホテルを抜け出し、一人でバールへ。
そこで、イタリア語で挨拶して、カップチーノを注文する。
というミッションを自分に課してみました。

すると、店員さんは
「こいつイタリア語話せるぞ」と思ったようで、
そこからイタリア語で沢山話してくださいました。

でも、私は全く聴きとれず、苦笑い。

店員さんは「あれ?話せないの?」

で、二人で苦笑い。ごめんなさい(笑)

すると、店員さんに、
Buon biaggio! よい旅を!

と言われ、
Grazie mille! ありがとうございます!

と一言ずつだけ意思疎通、終了(笑)

他にも観光バスの運転手さんが
地元の方だったので、
自由行動だったローマで、
この付近でおいしいパスタ屋さんはどこですか?
と聞いてみたり、

街で出会ったイタリアの方に
道やトイレの在り処を聞いてみたりして
イタリア語での会話を楽しみました。

でも、その後、動詞の変化で躓き挫折。
イタリアで少し通じたことで満足してしまいます。

ドイツ語と私

大学の選択語学の中に、イタリア語がなかったため、
しかたなく、ドイツ語を選択。

でも、当時の自分はドイツ語には無関心で、
単位が取れるくらいしか勉強しませんでした。

その後、第九ひろしまに参加。

そしたら歌がドイツ語でした(笑)

楽譜を見て、うわー!ドイツ語かー!!!
ちゃんと勉強しときゃよかった!と後悔(笑)

なので、指導者さんが練習の度に教えてくださる
重要な単語の意味だけはおぼえて、
あとはとにかく数をこなして、
マルっと音として暗記しました。

これ、自分で全部ニュアンスまでわかって歌えたら
もっと楽しいんだろうなと思いました。

中国語と私

これも、大学の第二外国語で
仕方なく勉強することになった言語です。

たまたま中国人の先生に教わることになり、
いつか旅行で訪れるかもしれないし、
挨拶や簡単な買い物でのやり取りくらいは
覚えようかなと思っていましたら、

ある日、質問をしに行った私に、
先生から直々に
「君は四声が全くできていない。
君はセンスがないから勉強しても無駄!」
と言い渡されました(笑)

マジで?!そんなハッキリ言う?!と
当時の私は思いましたが、
先生のおかげで、中国語を覚えるための時間を
私の人生から取り除くことができたので
まあ、よかったのかなと思います。

だから、やる気もなかったのですが、
単位は取らないと卒業できないので
その後も平気な顔をして授業は受けていましたし、
ペーパーテストで発音は関係ないので
問題ありませんでした。

また、漢字表記だけ見ても、
なんとなく意味がわかってしまうことに
もともと陸続きだった
同じルーツを持つアジアの国として
親近感を覚えるきっかけにはなりました。

沖縄語

夫と結婚して半年後に転勤のため
住んだ場所が沖縄でした。

うちなーんちゅ(沖縄人)の方々は
私たち内地(本島)の人たちには
とてもきれいな日本語で話してくださいます。

でも、うちなーんちゅだけでの会話、
特におじい、おばあ世代(ご年配の)方々の会話は
完全に沖縄の言葉で行われるので、
私たちには全く聴きとれませんでした。

せっかくなので三線を習いに行った教室の先生も
ネイティブスピーカーの方でした。

三線は、弾きながら歌も歌うのですが、
まったく何を言っているのかわからず、
先生から意味を教えていただきながら
とにかく音でまるっと覚えていました。

そういった、沖縄での様々な体験から、
沖縄は日本が占領してしまっただけで、
もともとは琉球王国という別の国だったことを感じ、
それを意識しておかないと、
沖縄の方々にも失礼だと思いました。

沖縄は、音楽と人がとても近くにある国で、
どこへ行っても音楽が流れていました。
だれもが音楽やエイサーをやっていて、
宴会になると、みんなが歌えて、踊れて、指笛できて、
たくさんのプロミュージシャンが
身近に存在しているという所です。

音楽がイヤになったら沖縄に行けば、
音楽って「よし!やるか!」と気合を入れて
するものではないと思い出し、
肩の力が抜けるのではないかと思ったりします。

英語ふたたび

話が逸れてしまいましたが、
私はパン作りにハマります。

そこで、当時の主治医先生に教えていただいたのが、
ブリティッシュベイクオフという
イギリスのアマチュアベイカーたちが
ベイキングの能力を競う番組です。

私はそれに夢中になり、
たまたま字幕のものを見ていたので、
彼らの会話によく出てくる表現に
徐々に気づくようになっていきました。

そして、
「この番組を、英語のまま見られるようになりたい!」
と思うようになっていきました。

韓流ドラマきっかけで
韓国語を覚える方と同じです。

そこで、スマホアプリで
英語学習のものがないか探していたら、
Duolingoというアプリが無料なのに
とてもよさそうだったので、開始。

海外のパンレシピにも興味があったので、
検索でひっかかった英語のレシピを解読して、
パンを作ってみたりもしていました。

そして、前住んでいたところから転勤した時、
シンガポールから旅行で来日していた方々と
会話する機会があり、
いつの間にか少し聞き取れ、
少し話せるようになっていて、
それを見ていた夫と娘に驚かれます。

それにうれしくなって、
その後も英語の学習をつづけていました。

その後、色々あって、
我が家は数年後の海外移住を決めます。

そこで、家族3人それぞれのレベルに合わせて
ツールとして持つことを前提の
英語の学習を始めました。

英文法、発音といった基本にも立ち返り、
その上で、単語力、会話力を伸ばすために
それぞれ淡々と学習中です。

以上、私と外国語の関係について
書いてみました。

こうしてまとめてみると、
私は言語に興味がある人生を送っていたのだ
いうことがよくわかって、驚きでした。

長い長い、とりとめのない文章を
最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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