日本敗戦-『ベトナム現地に残った日本人残留兵たち』-様々な人間模様・おまけ
日本敗戦-『ベトナム現地に残った日本人残留兵たち』-様々な人間模様②
その①で、日本敗戦後にベトナム残留、そのまま現地のべト・ミン(ベトナム独立同盟⇒後にべト・コン)に参加した元南洋学院生、駒屋俊夫氏の手記中にこのような件がありました。⇩
「…再度集合した日本人は70人だった。独身者はほとんど集まったが、妻子のある人の中には残留する人もおり、またこの場までついて来た妻子と涙の別れを交わしている人もいた。」
昭和29年(1954)春に突然ベト・ミンによる『帰国説明会』で北部に召集された残留日本兵たち。帰国条件は『家族帯同不可』でした。
既にベトナム妻子がいた人は、故郷の老父母を想い相当悩み苦しんだ筈です。妻子とは暫しの別れのつもりで一旦帰国を決めたのかも。。。😭
そしてまた、この時帰国せずに居残りを決心し、それから1975年まで続くベトナム戦争を生き抜いた残留兵の方々も、当然ながら居たのです。
実は私は、南部ホーチミン市に住み始めた1990年初め頃、ホーチミン市内でこの残留日本兵の方にお会いしたことがあります。
当時まだ少数だった在ホーチミン市の日本人達の間では、『残留日本兵』の存在は周知の事実でして、ある日友人が、”今日、残留日本兵の人に会う予定なんだー”、というので、一区のハム・ギ通りまで着いて行きました。
残留兵の方は、『落合さん』というお名前でした。
それから20年以上の月日が経った今から数年前のこと。いつもの如くクオン・デ候自伝翻訳の為に関連書を読んでいた時、ふいに『落合さん』のお名前を発見して驚きました。。。
その本とは、元日本経済新聞記者で昭和50年(1975)3月から『ベトナム特派員』として南ベトナムの首都サイゴン(=ホーチミン市)に赴任された牧久氏のご著書『特務機関長 許斐氏利(このみ うじとし)風淅瀝として流水寒し』。
牧氏のご著書から判る昭和50(1975)年3月頃のサイゴンは、こんな様子⇩です。
「…北ベトナム正規軍はベンハイ川を越えて進撃を開始。わずか50日間の猛攻でサイゴンは陥落、南ベトナム全土が北ベトナム軍の支配下に置かれ、共産主義革命が始まった。(中略)
同20日を過ぎたころになると、日本からの物資輸送は途絶え、新聞も届かなくなる。空港には連日、数万人ものベトナム人が国外に脱出しようと、到着便を待って押し寄せていた。」
『特務機関長 許斐氏利 風淅瀝として流水寒し』より
「”エリート駐在員”たち」は「国外への脱出準備に大わらわ」だったそうなので(笑)😂😂、牧氏は、「古くからベトナムに在住する残留日本兵の何人か」に、先日に営業で会った”サイゴンOCS(海外新聞普及会社)社長(当時)の許斐氏連(うじつら)氏(=氏利氏の次男)”のことを尋ねたそうです。1975年「当時、サイゴンにはまだ、30人を超す元日本兵が生活して」おり、その彼等との会話とはこのようなものでした。⇩
「”あの人の父親は、昔、ハノイにあった『許斐特務機関』のボスだった人ですよ。その配下は、いまだに東南アジア全域に残留している、と聞いていますよ”
私はこの時、初めて「許斐機関」という名前を耳にする。旧日本軍の亡霊が、突如、目の前に現れた気がした。戦後30年も経って、それも日本から遠く離れたベトナムで、旧軍隊の諜報・謀略機関である「特務機関」がまだ生きているというのである。
”許斐機関の残留者たちが、ボスの息子の面倒を見ているのではないですか”
元日本兵の一人はこう解説した。しかし、許斐機関について聞くと、彼らは一様に顔を見合わせ、口をつぐんだ。知っていても新聞記者にしゃべってもいいものか、ためらっているという感じだった。」
この『許斐(このみ)特務機関』詳細は又後日に。😅
牧氏ら外国人はサイゴン陥落の半年後、ベトナム革命政府から国外退去を要求されました。⇩
「…サイゴン陥落後、共産主義革命は一気に進行する。…在留日本人は、少数の新聞記者、日本大使館員、残留日本兵らを残して、ほとんど国外に去っていた。
(中略)
ベトナム人妻を残して、国外に脱出した外国人は多かった。ベトナム人の中にも妻や子供を見捨てて脱出した高級官僚や軍人も多数いた。見捨てられた妻や子は家財道具を路上で売って食いつなぐ。ハノイから来た”占領軍(=北ベトナム軍兵士”)を相手に身を売る妻も、街角に立っていた。(中略)陥落後、六カ月たった同年(1975)10月30日、私は革命政権に国外退去を命じられて出国、シンガポール支局に移った。…「外国人は出ていけ」という圧力に抗することはできなかった。」
この様⇧に、サイゴン陥落で南部ベトナムは大混乱。私のベトナム人の義姉(今年60歳)のこんな想い出話も。
”あの日はね、大人たちが大慌てで『Không tin những gì Cộng Sản nói, không tin những gì Cộng Sản … (共産党の言に耳を傾けない 共産党の発表を信じない) 』って書かれた街路のスローガンポスターを剥がしたり、家にあった色んなものを燃やしてたのよ。あちこちの辻に置かれたドラム缶から黒い煙が空高く立ち昇ってた光景を今でも覚えてるわー。”
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このサイゴン陥落の30年後(平成17年、2005年)に、牧氏はベトナムを再訪しましたが、この時のことを書いた『元日本兵のナゾ』と題した件に、上述の残留日本兵『落合さん』が登場するのです。⇩
「…残留日本兵、落合茂(陥落時、東京銀行サイゴン支店勤務)と元軍属、西川捨三郎(同、大南公司常務取締役)との再会の労をとってくれたのも許斐(氏連)だった。二人は向こう側(南ベトナム解放民族戦線側)の情報に強く、陥落前後、私の重要な取材先の一つだった。
落合は、陸軍高射砲連隊の一兵卒として、西川は軍属の通訳として昭和15(1940)年、仏印(フランス領インドシナ)に進駐した日本軍に従軍する。」
ここ⇧でご登場の『西川捨三郎氏』は大川塾卒業後に大南(ダイ・ナム)公司(詳細はこちら⇒仏領インドシナ(ベトナム)にあった日本商社・大南(ダイ・ナム)公司と社長松下光廣氏のこと その(1))に就職した西川寛生氏のことです。
『落合さん』がサイゴンで『先生』と呼んだ西川氏のご経歴とは、⇩
「1921年、滋賀県近江八幡市生まれ。1940年、満鉄東亜経済調査局附属研修所(=通称『大川熟』)卒業。印度支那派遣軍(参謀長は(桜会の)長勇(ちょう いさむ)大佐)に通訳(フランス語)として(ハノイ)従軍。」
1942年、ハノイ山根道一機関属、その後1943年に大南公司(サイゴン)に入社しました。
さて、本文中のこの件には、私が1990年代のホーチミン市で一度お目に掛かっただけで詳しくは知らなかった『落合さん』の波瀾の人生の一篇が語られていました。⇩
「…落合は敗戦後、べトミン軍に入ったり、中国人に成りすまし、運搬船の機関員として、中国-海南島-ベトナムを行き来する。
さらに仏印軍の運転手などを転々とし、ディエンビエンフーでフランス軍が敗退すると、妻子とともにサイゴンに「逃げて」きた。サイゴンでは、日本工営や東京銀行など日本企業の現地社員に。
彼のベトナム人妻は、サイゴン陥落後、南ベトナム解放民族戦線の戦士であり、古くからベトナム労働党(現・ベトナム共産党)の党員だったことが明らかになる。(中略)
落合も陥落二年後、「外国人は出ていけ」という新政権の要請で30数年ぶりに日本の土を踏む。…西川や落合が再びサイゴンに戻ったのは、開放経済に移行した1990年代になってからである。」
と、ここ⇧で、、、多くの方は「???🤔🤔」と混乱すると思います...。
なぜなら、元ベトナム解放民族戦線の戦士で古いベトナム労働党(=現ベトナム共産党)党員なら、完全に二重の立場。それなら『勝てば官軍』となった共産政権で高級幹部に抜擢される程の功労者の筈…ですが、落合さんの妻も一年後に同じくサイゴンを脱出。。。
ここから私が推察する可能性は二つ。
一つは、「古いベトナム労働党」とは南ベトナム(ベトナム共和国)下の「ベトナム勤労(きんろう)党」(=建国後に呉廷琰(ゴ・ジン・ジェム)大統領下が結成した政党)の間違いの可能性。
もう一つは、インドシナ共産党⇒ベトナム共産党⇒ベトナム労働党⇒ベトナム共産党と、党改名の度毎に派閥分裂、新旧交代、下剋上の刷新が行われ、全く別物の組織体に変遷してた可能性。
そうでなければ、どうしても辻褄が合わないんですよね。。😅😅
何はともあれ、外部者が混乱するは当然で、逆に元々混乱する様に周到に仕込まれてた筈だと睨んでいる私。(←ただの主婦。。(笑)😂)。
因みに、時系列にリスト・アップすればこんな感じで、⇩
南部 北部
ベトナム復国(と革命)同盟会 ベトナム独立同盟会
ベトナム共和国 ベトナム民主共和国
ベトナム勤労党 ベトナム労働党
折角の南北分断に、もっとお互い判り易い命名したら?と普通は思う筈ですが、この類似性…。どうしても外部者を混乱させたい意図が見えませんか、飽くまでも一暇人主婦の印象ですが。😅😅
話を戻しますと、
一度サイゴンの街でお見掛けしただけの元残留兵のお一人『落合さん』の波瀾の生涯。
著者の牧氏も「この男たちの変転した人生の裏に何があったのだろう」と、「…なぜ、ベトナムに残留し、最後までベトナムに関わり続けたのか。…その真意を聞き出そうとした。しかし、二人(許斐氏と落合氏)ははぐらかし、肝心なところになるとなぜか説明を避けた。」と書いてます。
ここで。。。田舎の暇人主婦の私が(笑)、大胆にもこの⇧「真意」の推察を試みたいと思います!😊😊
本の記述によると、昭和17(1942)年生まれの氏連(うじつら)氏は、「昔、上海やハノイで特務機関の機関長だった」父親の氏利(うじとし)氏から「戦前、戦中に中国大陸やベトナムでなにをやっていたのか」殆ど聞かされなかったと云います。
その氏連氏が1968年にベトナムに渡る際、父・氏利氏が言った、「(大南公司の)西川(捨三郎)はベトナムに残した最後の許斐機関員だ。松下さんは昔、同志だった」という言葉。
要するに、1968年頃にも未だ、許斐機関最後の機関員がサイゴンに”わざわざ故意に”残されていた、と解釈できます。さらに、前述の「”その配下は、いまだに東南アジア全域に残留している、と聞いていますよ”」というサイゴン残留兵らの言葉からは、1975年段階でも、元許斐機関の機関員がサイゴンだけではなく東南アジア全域に残留していると彼等間で知られていた、と推量します。
その内の『許斐機関員のサイゴン支部』であった西川氏は、1990年代から始まった『ドイ・モイ(刷新)政策』で開放経済へ移行したベトナムへ早々に舞い戻り、彼を『先生』と呼ぶ元残留兵の落合茂氏も後に続いた…。
こうなる⇧と、やはり、表面上のビジネス以外に水面下での『或る特別な任務』を帯びていたのだろう。。。と私は想像しますが、如何でしょうか?😅😅😅
ここまでの情報を整理すると、
1,1945年の敗戦と1954年の一斉帰国、2度の帰国チャンスにも背を向け、ベトナムに残留した落合氏。その後「べトミン軍に入ったり、中国人に成りすまし、運搬船の機関員として、中国-海南島-べトナムを行き来」していた。
2,西川氏は、大川塾を卒業後の1940年から、印度支那派遣軍属の通訳として従軍。大南公司重役の肩書を持ちながら『許斐機関員』にも所属。1968年頃でも氏利氏から「ベトナムに残した最後の許斐機関員だ」と言われた。
3,大川塾卒業生の西川氏と元残留兵の落合氏は、師弟関係。
4,戦前サイゴンに本社を構えていた『大南公司』は、東南アジア全域に5千人以上の社員を有した一大商社。1975年サイゴン陥落で、外国人の強制帰国の際に大南公司の有していた全財産は全て北ベトナムによる新政権に没収された。
このよう⇧になります。更に、牧氏の本文中の記述に、
「当時(1970)年、ジャカルタOCSを実質的に取り仕切っていた鹿毛等(かげ ひとし、故人)も元日本兵。メダンで終戦を迎えたが帰国せず残留。インドネシアには鹿毛の仲間の残留兵が、まだたくさんいた。」
とあり、それら諸々の要素を総合して想像を膨らませると、敗戦時に残留した日本兵と元特務機関員は、1990年頃から;
”彼等は主にインドネシアやベトナムなど東南アジアに残した戦前の『大南公司=日本の資産』の回収という、最後の御奉公に挑んだのかも・・・”
というびっくりな結論で『或る特別な任務』が導き出せるような気がしますが…。飽くまでも暇人主婦の個人的発想で、具体的根拠は無し。(笑)😅
しかし、こう考えると大東亜戦争って実は全然終わってないんじゃないかしら。だってほんの20年前だ。
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私の青春ーー1990年代のサイゴン風景に残影として在る『落合さん』のお姿を想い出しつつ、今回『残留日本兵・おまけ篇』を纏めましたが、ここでも、(ひつこいようですが)私の希望を言います。😑😑
上述のように、落合さん家族は、「ディエンビエンフーでフランス軍が敗退すると、妻子とともにサイゴンに「逃げて」きた」。とすれば、要するに、べト・ミンによる1954年の北部召集『日本人残留兵一斉帰国説明会』後でも残留を決めた日本兵(とその家族)さえ、直後に北部から追い出されたという、第一次インドシナ戦争勃発前の外部者排除の徹底ぶりが露見すると思います。
そして、牧氏曰く、”1975年のサイゴンには30人を超える日本人残留兵が居た”証言からも、そして私の、”1990年代頃は、日本人残留兵の存在はサイゴン在住者内で割りと知られていた”事実からも、私が声を大にして訴えたいことは、、、
『ベトナム残留日本兵といえば南部の出番です!!』
、、、それでも、残念ながら、、、
・本年の秋篠宮ご夫妻ご訪問も、やはり南部に近寄っても貰えず…(笑)
・歴史に見る残留兵の本流・南部は見向きもされず…(笑)
・旧皇室である阮(グエン)家の方々も殆ど南部にいるというのに…(笑)
・そんなことひっくるめて、越共産党は全秘密を知ってるのに…(笑)
けれど、ベトナム側は今上天皇陛下と雅子皇后陛下を招待するも叶わず、秋篠宮ご夫妻のご訪問になったと噂にあり。私は密かに『宮内庁、グッ・ジョブ!!』と思います。😌
巷では、秋篠宮ご夫妻の今回のベトナムご訪問を批判する向きがあります。しかし、近年日本外務省の歴史的背景(特に大東亜戦争史)度外視によるあまりに野放図な海外ご公務内容(特にベトナム)…。ならば、今回ハノイで手品を披露し周囲をびっくりさせたという紀子妃殿下と宮内庁に、心から拍手を送りたい。(笑)😅😅😅
今上天皇、皇后両陛下のベトナムご訪問はいつかなー。
まだまだ先か。💦💦
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