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海軍航空隊隊内鎮守だった『鳥船神社』…。そもそも『トリフネ』って何でしょうか。😊

 私の出身地は神奈川県😅でして、毎年夏休みに2週間程実家へ帰省しますが、時たま電車で行ける範囲で山に登ったりハイキングコースを歩いたりしてます。
 以前、横浜金沢区富岡周辺を歩いたことがあります。富岡には『富岡総合公園』がありますが、こんな所です。⇩

 「昭和11年(1936)に開隊された『横濱海軍航空隊』は、飛行艇専門の航空隊で『九十七式』や『二式大艇』などの飛行艇が配備されていました。戦後、敷地は米軍に接収され、返還の後にその大半は、富岡総合公園になりました。」
      
 
その富岡総合公園敷地内に以前『浜空神社』があったそうです。⇩     
 
 「横浜海軍航空隊の隊内鎮守だった鳥船神社を継承して、戦後に戦没者の鎮魂と恒久平和を祈念して富岡総合公園内に造営されました。海軍飛行艇艦艇の戦没者と殉職者約2000名の英霊を祀ったが、平成20年(2008)世話人の高齢化で維持困難となり、追浜の雷神社境内に移されました。」
            「
NPO法人 横濱金澤シティガイド協会

 纏めると、時系列はこうなります。⇩
昭和11年 横浜海軍航空隊が開設
昭和13年 飛行艇守護神『鳥船神社』を横浜富岡、海軍飛行隊内に創建。
昭和56年 鳥船神社跡地に戦没者等英霊を祀る為『浜空神社』を再建。
平成20年 維持困難となり追浜航空隊甲飛会関係者の尽力により遷座。
     遷座を機に、追浜航空隊戦没者等を合祀。

現在、『浜空神社』跡地には記念碑建ってます。。。

 ところで、、、
 「鳥船、とりふね、トリフネ、、、はて…?どっかで聞いたことあるなあ。。。」
と思って我が家の本棚をごそごそしましたら、、、やっぱりあった!
 じゃーーん! 安南史の顕学、松本信広(まつもと のぶひろ)先生(こちらも⇒ベトナム古代史あれこれ』)のご著書『日本歴史新書 日本の神話』(昭和31年)
 この第二章『神の乗物』の『天鳥船命(あまのとりふねのみこと)』と『鳥船の意味』の項に、こう書いて有ります。⇩

 「天鳥船命については古事記の中にイザナギ、イザナミ2神が、生みませる神名として『次に生みませる神の御名は鳥之岩楠船神、亦の御名は天之鳥船と謂す』とあり、(中略)
 また、粟田勤氏は『鹿島神が高天原より降る時に随い来た神に鳥岩楠船命というのがあるが、是は軍船操縦の神だったらしく、鳥の如く速く岩や楠の如く丈夫なる船を司るという意味でしょう。…。』と述べておる。何れにしろ神が天より下る場合、天を海の如く考え、之を横切る舟を必要とすると云う考えが存在していた訳である。」

           松本信宏著『日本の神話』より

 なるほどーー。『濱空神社の碑』にも、「名称は、古事記の「石楠船神」又の名「天鳥船」に因み、鳥は水鳥のように速く進むという意味の「船神」に由来する」と書いて有り、それで、「横浜海軍航空隊の隊内鎮守」として祀られていたと、、、。
 じゃあ他所にもあるのかな?と思い調べたら、埼玉県所沢市の所澤神明社 』がありました。その公式HPによれば、⇩

 「所沢は日本の航空の発祥の地として知られています。明治四十四年(1911)、日本ではじめての飛行場が造られ、本格的な航空事業がここからはじまりました。前年の十二月、代々木の練兵場でテスト飛行に臨んだ徳川好敏大尉は、その成果をもって、この所沢で航空事業へとつながる初飛行に挑戦しました。 徳川大尉は、所沢での初飛行に際して、前日にほか数名とともに、当、所澤神明社に正式参詣し、歴史的な快挙を果たせるように祈願したと、神主家に伝えられています。」

 
そして、この所沢神明社の中にも『鳥船神社』があり、その由来は⇩

 「当社は、初飛行の快挙から百年を迎えたのを記念して、平成二十三年十月に創建されました。我が国航空発祥の地に鎮り坐す、航空安全・交通安全の神社、八百萬の神々が鳥船に乗って降臨される神社、人々の願いを鳥船に乗せて高天原にお伝え下さる神社です。」

 なるほど、、、御祭神と御由緒と御利益は能く解かったんですケド。。。

 。。。そもそも『天鳥船(あまのとりふね)』と『鳥船(とりふね)』って何? そして、どこから来たの??。。。という更に深いディープなご研究は、、、上述の松本先生の御本に詳述されてるのです。⇩

 「天鳥船という舟が、如何なるものを指しているかということに就いて(中略)曾って京都大学の故米田庄太郎教授は、天鳥船という観念は、本来我国に伝われる南洋系の一伝説で、鳥の船或いは鳥の形をなせる船、(中略)、死後霊魂は船に乗って彼岸に運ばれるという信仰と、死後霊魂が鳥に化して或いは鳥によって彼岸に運ばれると云う観念とが相結合し、(中略)複合的神話として成立したのが鳥船神話であり、この形式の神話は、今日南洋、西北アメリカ、アフリカ等に行われていたが、我国に於いても、少なくともその祖先の一部に鳥船神話が行われており、古事記所伝のようなやや神話的匂いを帯びた天鳥船伝承が残っておるのではあるまいか、、、
 「我国の古墳内から発見される所謂船型石棺が、(中略)然し自分としては古代の埋葬には舟を使用した習俗が存したと考えて差し支えないかと思っておる。(中略)また木棺の残片の中にも船木の転用であったらしい例証が発見されておる。出雲の猪目洞窟より発見せられた木棺の断片は、明らかに古代船板から成っておる。」

 。。。と、この⇧様に、、、要するに、南洋等の国々・民族と古代日本との関連性を指摘し、他学者の説も色々紹介しています。例えば、

インドシナの青銅器時代(ドン・ソン)の銅鼓図様の鳥装飾の船から、鳥船信仰の存在。
インドネシア・ボルネオにも同様の、『太洋の真ん中に神の島があり、ここにその祖先が永久の幸福を享受している』という信仰の存在。
◎同様に、シナ(中国)の道教に神仙の島の伝説群として浸透した霊魂船説の存在。
◎銅鼓の起源地を古えの霊夢大沢の地(=江西、湖南、湖北)とし、嘗てここに居住した黎獠種族(=インドネシア族)が揚子江の河神を祀るのに使用した説。

 この⇧銅鼓の起源については、
 「…銅鼓上に見える杭上家屋とか竪杵、竪臼とか舟型屋根、靴型斧、犀鳥の類の習俗風物は、南方の普通インドネシア文化圏と云われるものと同一系統である。」
 と有り、また、
 「…古代シナの文化が形成しつつある時代に、その太平洋沿岸地域に夷蛮文化なるものが存していた。この文化は結局シナ文化の中に包摂されたのであるが、しかしまだその独立を失わぬ以前にその文化は航海によって四辺の地帯に分布した。我国の島嶼にもそういう未だ充分にシナ的にならぬ前の大陸文化、所謂太平洋周縁文化なるものが流入してその文化の糧となっておるのである。」
 とも書いて有ります。

 更に、日本書紀、古事記等々の中に見る『武日照(たけひてる)ノ命=武夷鳥(たけひなとり)=天夷鳥(あまひなとり)』に関して、
 「武夷鳥(たけひなとり)ノ命という天鳥船命の別名が、太陽神と関係深い名称であり、太陽鳥というような意味を含めておるのであろうということは既に述べた所であるが、この太陽信仰と鳥船との関連は種々な角度から考察して見る必要がある。空を飛ぶ鳥と云うものが空を航行すると考えられる太陽と同一視せられ、或る種の鳥を以て太陽の表徴として考えることは多くの民族に類例を見る所である。」
 として、
 「鳥船信仰が東亜の内陸地帯文化と関係なく寧ろ南の太平洋周縁文化と密なる因縁があるとすると我国神話の源流に色濃いえにしを持っておる地域の方向が大体見当がついて興味深い。」

 。。。要するに『鳥船信仰』は、「南の太平洋周縁文化と密なる因縁」があり、「日本神話の源流に色濃い縁を持つ地域」の由来が解かって興味深いと書いてあります。。
 ならば!!!
 横浜の富岡総合公園とその周辺の山林地帯一帯は、古代南洋系民族の上陸地、居住地だった可能性大で、鳥船神社は元々相当古くから地の氏神として祀られていた神社であり、その浜空(=鳥船)神社跡地や一帯を掘れば、古墳から船型石棺や木棺やらのどえらい古代遺跡が出て来る可能性が大ではないですか。。。😅😅😅 

 これは⇧、暇人主婦のライフワークとして😅😅いつか遺跡発掘に挑戦するとして、(笑)、話を戻します。。

 私が、”奇妙だなぁ。。”と思うこと。
 それは、松本信広先生『日本歴史新書 日本の神話』の巻末、出版社による『日本歴史新書刊行の辭』にこう書いて有ることです。⇩

 「戦後すでに10年は過ぎ去った。今や呪わしき戦禍の風塵はおさまり、独立日本の歩みは力強く開始されている。戦前、ともすれば、ゆがめられた角度から眺められ、戦後また当時の混乱、騒音に冷徹な省察の軸を失ったかの感もなくはなかったわが国の歴史は、今こそ正しい座において、自由に省察されねばならない。」

 ⇧「戦前、ともすれば、ゆがめられた角度から眺められ」とは、 
 軍事統制下に於いて自由な言論や思想をコントロールされて検閲、逮捕、拷問、死刑
を受けた、戦前日本の全体主義恐怖政治時代の事。。。
 😨😨
 松本先生は、明治30(1897)年のお生まれで、上述の様な『鳥船(とりふね)』の御研究・発表も当然戦前のものなので、要するに先生の『日本の神話』のような御研究は戦前は発表が難しかったけど、それが昭和31年の『日本歴史新書』でやっと普通に発表できたよ。。。という意味でしょう。
 そしてそれは、『日本の神話』の最終章の結び文章から推察せられます。⇩
 「日本神話は斯くして皇祖なる天照大神を中心として数多の天津神、国津神の統属関係から成立することになった。帰属した氏族の祖神を神話の中に序列せしめ、…征服者はその被征服者氏族と一層緊密な関係を結び得たのである。」
 「長髄彦(ナガスネヒコ)の奉じた二ギハヤヒノ命が神武帝と同様の天羽羽矢と歩靭とを持っていたと云うことは日の神を斎く団体が皇室の祖先の外に幾つも存在したことを語っておる。それを次第に統一していって最後に天照大神を皇祖とする日の神の裔達が広大な地区を征服し、新国家を創造したのであろう。(中略)また前述の如く、太陽神の図象である鏡を初め剣や矛を作る優秀な技術をもった職業団体をひきつれ、その点に於いても在来部族を圧し、遂に群小諸勢力にとって代わり日本の統一を実現したのであろう。」

 …このように⇧、日本の皇室の由来をズバリ言ってるので、戦前では『不敬罪』か、絶対に許されなかった言論だったのかと思います。

 しかし、不思議ですね、歴史を明らかにしたところで日本皇室の正当性にケチがつく訳でなく、普通に考えて、
 ”アジアから寄り集まった多民族同士で仲良く折りあい付けてやって来たのが日本、皇室はその表看板だね、ヨカッタネ。”で終わりな筈。。。 
 が、、、今も昔も、全体主義大好きの政治屋とか官僚屋にとっては、『虎の威』成らぬ『権威の象徴』は尤も重要視すべきデリケートなところなんでしょうか。。。(笑)

 話を戻して、私が”奇妙だな。。。”と思った部分ですが、それはこれです。⇩

①昭和11(1936)年横浜海軍航空隊開設、2年後に敷地内に『鳥船神社』を飛行艇守護神として祀った。
 ⇒これは丁度、戦前の言論統制下で南方由来の『鳥船(トリフネ)』を敢えて海軍がそのまま使えたのは何故か?
 
浜空神社跡地の石碑
 『浜空神社由来』ー「昭和十一年十月一日飛行艇隊の主力として横浜海軍航空隊が当地に開設された。その守護神として造営されたのがこの浜空神社である」
 『濱空神社の碑』ー「此処に横濱海軍航空隊の戦没者、物故者二千余柱の英霊をお祀りしていた「濱空神社」がありました。」

 遷座先の横須賀追浜雷神社の説明書き
 『浜空神社について』ー「昭和11年11月富岡(現富岡総合公園内)に横濱航空隊が開設され、飛行艇隊の守護神として昭和13年『鳥船神社』創建され、奉斎会によってお祀りしてきました。」

  ⇒神社跡地の石碑には、『鳥船神社』の文字が全く無い。恰も、元々『浜空神社』のみが在った様に取れる文面になっていること。
  ⇒遷座先の雷神社には、由来の『鳥船神社』が書かれていること。

 戦前の言論統制下では、海軍が堂々と『鳥船神社』
 戦後、軍国全体主義の言論統制はとっくに終わり、民主主義・日本の、神社跡地で『鳥船神社』の名称・由来抹殺。。

 。。。ね、ちょっと”奇妙”ですよね。。? 
 こうして比較すると、戦前の海軍の方が全然学術的で解放的に感じてしまう。(笑)😅😅
 
 ここで松本先生のご著書の、結びから此の文章を。⇩⇩

 「日本の神代物語は後世の編述話であるけれども、それをつくっておる一つ一つの挿話をよく考察していくと、実に歴史以前の我が民族の生い立ちをかいまみさせて呉れる大切な遺産である。吾々はこの重要な文化財を浅薄な時流に走る人々の説に雷同し、軽視ないがしろにしてはならない。」

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 『鳥船信仰』の研究成果を認めれば、日本とインドネシアやベトナム、中国南部の南方系太平洋周縁文化との密なる因縁がバレてしまう。。。アジアは一つだとバレてしまう。。。

 『アジアは一つ=大アジア主義』を捻じ曲げ、戦前日本の軍国主義化に利用し、日本人を大敗戦へ落とした本当の責任者達は、実は戦後堂々と生き残り、代々蔭で政治権力を握り続け、一貫して言論封殺と史実の歪曲とでっち上げに未だ奔走してる明確な証拠ではないでしょうか。。。😅😅



”日仏印(フランス領インドシナ)交換教授”の1943年『東亜考古学』ベトナム・カンボジア特別講演


 

 

 

 

 
 

 

 

 

 

 


 

 

 

  


 

 



 
 


 
 


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