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チャン・チョン・キム著『 Một cơn gió bụi(一陣の埃風)』⑦第9章 中国へ渡る

チャン・チョン・キム著『 一陣の埃風』

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第9章 中国へ渡る


 ハノイでフランス人とベト・ミンの行動を見て居た私は、これは遠からぬうちに必ず大きな衝突が起こるだろうと思った。一旦戦火が開けば、石も玉も溶けてしまう、そんな中で生活するなど無理な話だ。一方はベト・ミンでもう一方はフランス軍、だが戦争になれば区別など付かぬ。かと云って、何処へも行く宛てが無かった。そんな頃、顔見知りの国民党員達が私に言うことには、
 「支那の国内には、我党が設立した機関が充分に整っています。今丁度バオ・ダイ帝が支那に滞在中ですが、ベトナム国の立場に立って連合国側と何か活動をされているそうですので、どうぞ貴兄もあちらへ行ってバオ・ダイ帝と一緒にお仕事なされば、国益に適うことがあるかも知れません。もしご同意頂けるなら、早速渡航手配をさせて頂きますが、如何でしょうか。」
 彼等へ、私はこう答えた。
 「今の私は、この様に高齢で尚且つ持病持ちでもあるから、もう何の役にも立てないと思う。それでも、もうすぐここへ届くだろう戦火を避ける為には私は行きたいと思うから、よく考えてお返事します。」
 
 支那側には彼らの組織機関が揃っていると向こうから戻って来た者達が言うのだし、それに、私を助けたいという意志も伝わって来た。そのことで、私も支那行きの話に前向きになった。
 親友の何人かにこの話をすると、或る人は行くべきだと言い、また或る人はベト・ミン側は譲歩するしか無いからどうせ戦争にはならない、行っても無駄だろうと言う。けれども、どう考えても戦争は避けられない空気だったし、長い間大層聞こえに高いベトナム人革命家達の海外での仕事ぶりを一度実際に目にして見たかった。それに、本当に何か出来る仕事があれば良いことだし、もし無くても、この危険な状況から逃れる機会だと捉えることにした。こうして私は行くことに決定し、国民党の人達に私の渡航に関する諸々の手配をお願いした。
 当初、私は親友達の何人かにも一緒に行って欲しいと思っていたが、こういった場合の渡航は秘密にすべき所だか、うっかり周囲へ話を漏らしたとかで一緒に行けなくなってしまった。また、そのことで私へもベト・ミンの監視の目が向けられ、我が家の近くにも見張りの人間が置かれた。

 その頃はホー・チ・ミン氏がフランス渡航の準備中であり、外務大臣のグエン・トゥン・タム氏を含む外交派遣団もフランスのフォンテーヌ・ブローに同行して会談に出席し、ベトナム問題を解決する予定だった。しかし、渡航直前の段階になり、グエン・トゥン・タム外務大臣は病気を理由に渡航せず、辞任を願い出た。ベト・ミン政府は代わりにファン・バン・ドン氏を外交派遣団の首席の任命し、そして派遣団は兎にも角にも行くには行ったが、果たして成功するかは誰も確信が無かった。
 
 1946年5月末、中国軍の撤退がほぼ終わりに近づいた頃、国民党の党員達が突然家にやって来て、他の人達は後で行くから、私一人で先に行きなさいと促した。国民党は、私の同行にもう一人、医者のグエン・バン・マオ氏を選び、昆明から重慶行きの飛行機チケットが準備された。私は取敢えず急いで準備を整え、出発日前日の夜に或る国民党員の家に泊まった。翌朝にザ・ラム飛行場へ行くと、支那国側でパイロットがストライキを起こしたとかで飛行機が無い。仕方なく次便を待つことになったが、自宅へ戻ってしまっては不便なので、今度は別の国民党員の家に厄介になった。6、7日間待っても飛行機は一向に飛ばないので、国民党員が来て言うには、
 「この様に延び延びになってしまっては、折角の渡航のご決心が台無しです。我々が陸路を車でラオ・カイまでお連れしますので、そこから真直ぐ南寧まで出ては如何ですか。ラオ・カイには今グエン・ハイ・タン氏が居ますので、南寧で、バオ・ダイ陛下と面会するまでの段取りをしてくれるでしょう。」
 この当時、グエン・ハイ・タン氏はベト・ミン政府を棄てて支那に亡命していた。
 行くも下、戻るも下だ、私は返事に躊躇ったが、延々と説得されて結局了承した。すると、彼等は早速支那軍に交渉しに行き、通訳兼道案内人として中部商人を一人連れて来た。
 出発前に旅費として1万インドシナ・ピアストルを渡されて、
 「支那へ行けば事務所が全て世話しますので、全く心配要りません。」
 と言われて、マオ氏も4、5千ピアストルを持参していたから、これを合わせて支那の金に換金すると8万元位はあった。
 
 1946年6月2日午後、国民党の車で我々4人は出発したが、車はラン・トゥン府に到着した時に故障してしまい、戻って行ったので、その時支那軍輸送車6台の一隊が行くのを見た同行の通訳が、軍隊長に交渉して私をラン・ソンまで乗せて貰えることになった。ラン・トゥン府のホテルに宿泊しながら車両修理が終わるのを待つ事3日間、6月6日に漸くラオ・カイへ向けて再出発した。
 この頃のラン・ソンはベトナム復国軍が支配権を握り駐屯していたが、周囲はベト・ミン軍によって包囲されていた。復国軍の軍隊の統率者は、土豪ノン・クオック・ロン氏であり、軍隊規模は数百人程度で銃器も揃っていたが、国民党下の軍隊と相容れなかった。
 ラン・ソンに到着すると、グエン・ハイ・タン氏が南寧から戻っていると確かに耳にし、どうにかして会いたかったが、私は名前を知っていただけで未だ一度も会ったことが無かった。彼は、支那軍に着いて国民党党員と共にラン・ソンへ戻っては来たが、大袈裟な宣伝程の成果は無く、ラン・ソンでは駐留軍の復国軍も食料が欠乏する中僅かな費用を工面して貰ってその日暮らしをしていた。そんな状態ならば、それら人々に何も頼めないだろうと解かっていたが、グエン・ハイ・タン氏下で支那に長く在る者達ならあちらで支那人の知り合いが沢山居るだろうから、グエン・ハイ・タン氏を南京行きに誘えば、バオ・ダイ陛下の現在の安居先南京できっと帝に逢えるに違いないと私は考えた。帝に会えたら、先ずは数ある党や派閥を一堂に集めて行動に一貫した統一性を持たせよう。その後は、バラバラにならない様に、何事も確固たる一つ組織で活動したいと考えていた。

 ラン・ソンで私は、グエン・ハイ・タン氏とブ・キム・タン氏、その他数名の人々に会った。座って多少お喋りして、翌日再び会って詳しい話をする約束をした。翌朝、私の滞在していたホテルでグエン・ハイ・タン氏と2言、3言言葉を交わした所へ、簫雲将軍の使者がハイ・タン氏を呼びに来た。ハイ・タン氏は、車を迎えに行かせるのでドン・ダンまで来てくれ、そこで話をしようと言い残して去って行った。
 我々は、そこで午後2時位まで待っていたが、車が来なかったので自分達で車を借りたが、ドン・ダンまでの運賃が1,500貫。たった15キロだったのに、約300インドシナ・ピアストル余も掛かった。

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