日本陸軍・山下大将のベトナム埋蔵金
日本でOLしてました私が、奇縁でベトナムに渡った1990年代。まだアメリカの経済制裁が解除していませんでしたので、当時はベトナムに進出する外国企業も数えられる程度しかなく、現地の日本人も少なかったです。何とか現地の日本企業にアルバイト職を得ましたが、学生時代バブル全盛期の私は一見どう見てもチャラっとした普通の女子だったと思います。そんな私が当時現地で経験した、掲題に関する面白い思い出話がありますので、ご紹介してみます。
ベトナムに住んでから既に5,6年経った頃だと思いますが、ある日、以前アルバイトしていた日系会社の雑用係で南部出身のF爺さんから久し振りに電話があり、「どうしても会って欲しい人がいる。」と言われました。まだ若くて好奇心旺盛、且つ娯楽が少ないベトナムでしたので勿論OKして、指定日時に指定場所の中央郵便局(ホーチミン市ど真ん中の大教会の横にあります)に行きました。
入口を入り、指定場所の木製長椅子に、確かに一人お爺さんが座っています。声を掛けますと、お爺さんは真直ぐに前を見ながら、「知らないふりをして、近くに座って下さい。」と言いました。言われた通り、少し離れて私も視線は前を向いたまま座りますと、封筒を渡してくれました。封筒には、新聞の切り抜きや資料のコピーが入っています。
「私は戦前ダナンに上陸した日本軍が、大きな袋を山の方へ運んで行くのを確かにこの目で見た。あれは、日本軍の隠し遺産の金塊に間違いない。」
何のことやらさっぱり解りません。戦後生まれでバブル時代に学生でしたから、日本軍とか言われても全くピンとも来ませんでした。でも、お爺さんは続けます。
「これは、日本軍の物なんだ。だから日本に返したい。日本政府に連絡してもらえないだろうか。日本人と一緒に日本の埋蔵金を掘り出したいんだ。」
えええ。。。これは、私では役不足です。取敢えず、知り合いに聞いて見るからと曖昧な返事をして、別れ際にそのお爺さんは、連絡先と住所をくれました。お爺さんは、V爺さんというお名前でした。
さて、家で封筒の中身を読みました。殆どが1960年代頃の現地新聞の切り抜きコピーでして、確かに、新聞見出しに「日本軍山下奉文大将のベトナム埋蔵金のゆくえ」と書いてあります。新聞は、「XXXX年〇月X日、夜間ひっそりとダナンに上陸した日本部隊が、数人かがりで重そうな大きな麻袋を運び山の方へ歩いていた」という目撃情報、それと「戦後に付近の山で発見された日本軍の軍装品」写真コピーの数々が紹介されていました。早速ネットで(当時やっとネットが普及し始めたばかりでした。。)検索したら、なんと『日本軍の山下大将ベトナム埋蔵金』に関するベトナム語の情報が沢山出て来ました。それで知ったのは、日本の敗戦後、当時この「ダナンに夜間秘密上陸した日本軍が、重そうな麻袋を運んで山に入って行った」姿を目撃したベトナム人が結構いたらしく、あれは、多分金塊だよな!?『徳川埋蔵金』ならぬ『山下大将の陸軍埋蔵金』だ!!ということで大変盛り上がって、新聞雑誌も大見出しで記事を出していたみたいです。V爺さんもこの目撃者の一人だった訳ですが、V爺さんは、確かこの時日本軍の手助けをしたか何かで間近でこの麻袋を見た為か、麻袋の中身は『日本軍の埋蔵金』だと確信していました。
当時はまだ歴史など全く無知な私でしたので、念のため日系企業の中年駐在員の方に聞いて見ましたら、意外にも結構「知っている」という方が多かったです。「ベトナム人に良く聞かれるから」と言っていました。しかし、皆さんは「フィリピンの山下財宝」もひっくるめて「埋蔵金=都市伝説」で笑って済ませていたみたいです。いずれにせよ、埋蔵金探しのために日本政府に連絡を、、とV爺さんに頼まれても、私では完全に役不足です。後日F爺さんに会った時に、「日本領事館とか、大企業の駐在員さんに話した方がいいんじゃない?」と言いました。すると、「この前、V爺さんに会った時どうだった~?」とニコニコしていたF爺さんの顔が一変して、「あー、ダメダメ!あんなの駄目!」と手のひらをふりふり、「貴方じゃないと駄目。他の人ならもういい。他言無用。」と言うのです。ど、どうしたら。。。頼まれたら断れないやっかいな性格の私は、家に帰ってからベトナム人の主人(←当時結婚したばかり)にこの話をしました。1960年代南部生まれで戦中派の主人は、『君子危うきに近づかず』を徹底してまして、一言『すぐ捨てなさい。』。どんな些細な事が一族全体に禍を及ぼすか分からないから、という説明で、この時封筒一式を捨てられてしまいました。
この話は、元々私はどうにも出来ないですし、それ以来F爺さんもV爺さんも特に何も言って来ませんでしたのでそのままになりました。けれど、封筒に入っていた新聞記事コピーや日本軍の軍装品の写真などが私の頭に残って、時々思い出してはネットで検索しました。確か2001年頃に検索した時は、V爺さんがベトナム鉱山開発会社と組んで、まだあの周辺の山で目ぼしい場所を掘り返している新聞記事を見つけました。けれど、現在ではどんなに検索しても過去記事も見つかりません。そして、時が流れ、話の存在自体を知る人も殆ど居なくなりました。私自身、殆ど記憶が消えかけていたそんなある日、本を読んでいて、突如としてこの話を思い出したのです。
今から2,3年前、クオン・デ候の自伝「クオン・デ 革命の生涯」(→宜しければこちらをご参照ください。クオン・デ 革命の生涯|何祐子|note ベトナム英雄革命家 畿外候彊㭽 - クオン・デ候: 祖国解放に捧げた生涯 | 何 祐子 |本 | 通販 | Amazon )の翻訳の参考に、牧久氏著の『安南王国の夢』(2012)を読んでいた時の事です。
『第10章 日本敗戦とホー・チ・ミンのベトナム」の中の小見出し「大南社員、それぞれの終戦」は、「日本の敗色が濃厚になってきた1945年7月」頃からの、『大南公司社長の松下光廣や社員らのサイゴン脱出』の様子を伝えています。
「「日本降伏」の連絡がバンメトートの西川(大南公司副社長)らに届いたのは、8月17日の事である。サイゴンに戻って来たのが同8月21日。すぐに司令部に部隊離脱を告げると「許斐機関」の関係者を中心に脱出計画を練った。」
この「大南公司」と「許斐機関」については、それぞれ→大川周明 アジア独立の夢 (平凡社新書) | 玉居子 精宏 |本 | 通販 | Amazonと特務機関長許斐氏利―風淅瀝として流水寒し | 牧 久 |本 | 通販 | Amazonに詳しいです。私もいつか記事に纏めてみたいと思っていますが、先を続けます。⇩
陸軍・外務省・満鉄の合資で1937年に設立した「東亜経済調査局付属研究所」。所長は大川周明氏で、通称「大川塾」と呼ばれていました。この大川塾の卒業生は、それぞれ現地商社員或いは軍属として1940年4月から順次南方アジア方面に派遣されて行きます。
ベトナムには、大川塾でフランス語とベトナム語を学んだ卒業生が、現地商社『大南公司』や軍属として現地に派遣されて、各々任務に就きました。大川塾第一期生の三浦琢二氏は、大南公司社員として働き、サイゴン現地で召集を受けて第38軍に入隊しますが、8月15日をもって除隊となります。その三浦氏が、大南公司社長の『松下光廣氏に同行して軍用輸送機で台湾に向かおう』としていた8月22日朝、軍司令部の伝令が届きます。
「例の件処分せよ」
メモは、第38軍の河村参謀長からでした。「例の件とはなんであるのか。」思い巡らした結果、達した答えは『阿片(あへん)』でした。
三浦氏は、「サイゴンに駐屯した日本軍の兵舎または宿舎のどこかにアヘンは秘匿されている」と見当をつけました。そして、「参謀本部の旧知の大尉」にこの極秘命令を話して協力を依頼して、2人で「サイゴンに在った日本軍の兵舎、宿舎を走り回った」そうです。「シンガポールから来たばかりの日本軍将校に割り当てられたサイゴン郊外の軍宿舎(←どこでしょうかね?😅)の風呂場が、釘付けにされ使えないという。」ここに違いない、と直感した三浦氏は、宿舎の将校に河村参謀長命令だと告げて、「バールで風呂場のドアをこじ開け」ました。そこには、
「単一の乾電池の大きさの鉛管に詰められた純度99%のアヘンが、約2千キロも麻袋に入れられていた」そうです。
この文章を読んだときに、本当に「ビビビツ!」と、頭の上の豆電球が光ったような、そんな感覚がありました。
「見つけた、これだ・・・・」と、思ったんです。
20年以上も前に読んだ1960年頃の現地新聞のコピー。当時の記事の内容がはっきり甦りました。麻袋に入った2千キロの物は、、、何処へ?
そして、「日本軍隊が袋を運んで山に登って行くのをこの目で確かに見た」という目撃者の証言に基づき、戦後あれ程山を掘り返しても、「ベトナムで日本軍の埋蔵金発見!」というニュースはありません。まだ見つかっていない?いえ、そうではなく、元々『金塊』など無かった。。。?
陸軍将校の宿舎で発見された阿片は、連合軍がサイゴン入りする前に処分しなければなりませんから、換金作戦が始まりました。三浦氏は、蔣介石のサイゴン代理人と目を付けた、チョロン(五区の中国人街)の華字紙の社長へ連絡をします。
「日本軍最後の宝物を蔣総督閣下に差し上げたい。(中略)金と引き換えにトラックごと品物を持って行かれたい。絶対に約束を守り、信義にもとる行為はしない。」『私の戦前戦中の略歴』三浦琢二 南方会機関誌「みんなみ」所収
こうして、交渉は成立します。約1時間半後にやって来た相手社長と運転手から4百万ピアストル(=仏領植民地の通貨単位)とトラックのカギを交換したそうです。この4百万ピアストルは、大南公司を預かっていた村上竹松氏と相談して、ベトナム国軍の幹部候補生として養成していた「訓練部隊」のベトナム人訓練生全員に、その日のうちに均等に分配してあげたそうです。
三浦氏は、「帰国してからも、このアヘン処分について一切誰にも話さなかった」そうです。この話を「南方会機関紙「みんなみ」に書いたのは、戦後40年以上も経った平成の時代になってから」とのこと。
そして、そのお蔭で今頃、こんな田舎の一主婦が、「あれか、、、」と妙に一人納得出来た次第です。。。
真実は分かりません。
けれど、20年前私に、「日本軍の物だから、掘り出して日本に返したいんだ。」と真面目な表情で語ってくれたV爺さんと、「ああ、あんなの駄目、駄目」と手を振ったF爺さんの2人の顔が思い浮かび、「爺さーん、あったよー、多分これだー。山に埋めてないんだよー。サイゴンにあったよー、阿片だったんだよー。蔣介石総統が持ってったー。」と、やっとこれであの世で会ったら2人に教えてあげられるなぁ。。。と、何となく一人安堵したのです。。。
さて、なぜ終戦直前の仏印に、こんなに大量の純度の高いアヘンが持ち込まれていたのかについて、ここからは私なりに推察して見ます。
当時仏印では、1898年にポール・ドゥメール総督によって南仏印阿片専売公社が設立されて以降、専売制を敷き、各地に売店と吸引所を置き熱心にベトナム人に吸引を奨励しました。→ ファン・ボイ・チャウの書籍から知る-他国・他民族に侵略されるとその国・民族はどうなるのか? その(3)|何祐子|note そして日本は、1938年の「中支阿片制度実施要領」の存在があり、阿片は国策でした。背景としては、先の台湾統治で後藤新平民政長官時代の「阿片吸飲者の漸減政策」の功績があり、又明治時代の終わり頃から「アルカロイド(植物抽出有効成分)」の技術確立でモルヒネ精製など国産商品化に成功した日本の製薬会社の存在等があると思います。(→こちらに詳しいです。人民は弱し 官吏は強し (新潮文庫): 新一, 星 + 配送料無料 (amazon.co.jp)) それによりますと、アヘンは寒い地方で取れる物が最も品質が良いそうですので、満蒙辺りで取れた最も品質の良い阿片原料をサイゴンまで持って来た、とすれば、これは医療用阿片原料で、高価な換金商品としてやはり輸出向けかな?と考えます。サイゴン港は昔から有名な国際貿易港です。しかし、いつまでもあんな遠い場所からうんやこらと中部から山道に入り、人海戦術で物を運んでいたら商売にならないだろうな、と考えましたら、やはり当時『満鉄』を中心とした、「中国-仏印-泰-ビルマを結ぶ、大東亜縦貫鉄道構想」(満鉄「大陸鉄道建設方策」)があったんですね。。。(な、なるほどぉ。。やはり満鉄、、← 一人で納得する田舎の主婦(笑))
そして、輸出先と考えますと、当時ヨーロッパで一番大きいモルヒネ精製工場は、フランスのマルセイユにあったそうですので、だからこの頃ドイツが占領しているのかなぁ。。。ととと、、、一人で妄想を始めるときりがない変なオバサンですので、この辺りで止めにします。。。(笑)
思えば、なんで「貴方じゃなきゃ駄目。」と言われたのか。ずっと不思議に思っていましたが、もしかして、もの好きで風変わりな私の性格を、F爺さん達に見込まれていたのかも知れないなぁ、、と考える人生の秋です。。。