1926年設立 ベトナム独特の新宗-高臺(カオ・ダイ) その(3)
その(1)「高台(カオ・ダイ)の成立過程」、その(2)「高台の教義」に続き、その(3)は、「高台(カオ・ダイ)の本山・その他」です。
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(昭和9年頃)、(カオ・ダイ教は)西寧(タイ・ニン)の西北に当たる平野の中に「松茸の如く屹立した緑樹に被われた小山」にある物寂れた仏寺と同居していた。
更に最近の訪問記によると、座聖(総本山)は、近所の平地に3百萬平方米の境内を分ち、荘厳な堂塔伽藍は言うに及ばず、宗園のあらゆる生活面の活動に資すべき設備さえも具えるようになった。
…大広間に並ぶ円柱には見事な龍の彫刻を施し、≪神秘と荘厳の気≫が溢れて居り、(中略)…まず中央には大きな地球儀ようの燈籠がある。これは教徒の所謂『太極燈』で『太極』すなわち宇宙の原子を表象している大燈籠であって、その正面には雲に包まれた『天眼』が描かれ、内部には燈明があって常夜燈となっている。
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『大南(ダイ・ナム)公司』の社長松下光廣氏がベトナム国皇子クオン・デ候が台湾で面会して本社をハノイからサイゴンに移動したり、高台(カオ・ダイ)教教主范工則(ファム・コン・タック)と親交を深め等々…、様々な事が動き始めたのが昭和3年(1928年)でした。
この冊子が書かれた1941年は、日越両者のベトナムビジネスが益々絶好調で既に10年以上を経た頃です。当然カオ・ダイ教の資金繰りは潤沢の上、200万人に達した信者からの寄付・お布施も相当な金額だった筈です。
またここで、オタク🤓主婦の心をくすぐる注目すべき言葉が⇧にあります。。それは、「『太極』すなわち宇宙の原子」です。
1945年3月9日の「明(マ)号作戦」後の4月に「独立宣言」を発した保大(バオ・ダイ)帝新政権の首相、陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏の回想録「一陣の埃風(Một cơn gió bụi)」にこんな文章があります。
「…自主を取り戻し独立国となったベトナムには国旗が必要だ。(中略)皆が様々に頭をひねった結果、国民に広く意見を聞き、誰でも徴柄アイデアがあれば描いて送ってもらうことにした。寄せられた徴柄の内、「黄旗の真ん中に離(り)」の徴式が最も良いと決まり、国旗に決定した。」
卦の「離(り)」は、易の八卦(「卦」は「爻(こう)」を3つ組み合わせて出来る図像)の一つです。
「今までも我が国は黄旗を使用してきた。(中略)…黄色は祖国の革命を表すにふさわしい。「離」図像の使用は、我国最古の文物に連爻(陽)と断爻(陰)を使って書いた八字(=四柱推命)があり、八卦と四方、八方を示している。「易経」によれば、卦離は南方、「離」は「火」「文明」そして「4方を照らす光」という意味を持つと云う。
黄色は我国の歴史、卦離は我が国家の立場に合致するから、「黄地・離」旗は、全ての条件を備えていた。しかし後々、”卦・離”の”離”は”別れ”の意があり縁起が悪かった、だから結局失敗したのだ”、などと言う人があった。(中略)失敗したのは時の情勢によるもので国旗のせいではない。 あの状況で、国旗の徴章を変更したところで何をか変え得る事が出来ただろうか?」 『一陣の埃風』より
1945年4月から8月まで存在した短期政権の国旗は本当に「黄地・赤(卦)離」旗でした。ベトナム正史にしっかりと載っています。(これを知る人はかなりの🤓に違いありません。。。是非お友達になって下さい。
(”そんな人絶対にいないよー!” ←我が家のJKの声。。。(笑))
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さて其の太極燈の表象する宇宙の原子は『世界の原初、神の未だ現れざる時期における宇宙の根元』であり、『神現れまして茲に原子は順を逐うて両義(男女両性または物心両界)の別が生じた。ゆえに之を表象して祭壇には二つの燈明を供える。『両義燈』と称する双燈が之である。
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「太極」をネットで調べますと、「『易経』に、「易に太極有り、これ両義を生ず、両義四象を生じ、四象八卦を生ず」で始まり、宇宙万物の生成を説いたもの」とありました。「「宋学」の哲学理論と深く係わる」ともあり。以前の記事「元寇を破った国 日本とベトナム」、1285年の元(モンゴル)軍襲来でベトナムを助けたのは宋の将軍趙忠(ちょう・ちゅう)でしたし、古来両国の関係は案外深かったような気がしてます。
何れにせよ、保大(バオ・ダイ)帝の独立宣言で誕生した新ベトナム独立政権の国旗徴章に「卦」が用いられたのは事実で、私はここにベトナム抗仏主勢力と云いますか、当時のベトナム人民の総意、民族性、独立革命闘争の核心があったのではないかという気がしてます。
『神現れまして茲に原子は順を逐うて両義(男女両性または物心両界)(男女両性または物心両界)の別が生じた。」
この部分などは、我が日本の神話「伊邪那美尊と伊弉諾尊の国生み」との類似性を感じませんか。。。😊😊
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供物は花と酒と茶であって、これは『人間を構成する三要素たる≪精≫と≪気≫及び≪神≫を表象する』ものと信じられている。『精』は宇宙のあらゆるものの根源であって、之なくしては何ものも存在し得ない。それはまた人間及び動物の性的精力であり、植物の発芽力である。『気』は人間においては健康、力、生命力の謂であって、生とし生けるものの霊魂と身体とを結合させる作用をなす。『神』は叡智の原素で人間の場合には二重の作用を持つ。その一つは人間に在る神性で、之を『陽神又は魂』と言い、その二つは魂の下位にある『陰神又は魄』であると考えられている。さらに此の三要素については、人間の場合、常に神秘的な昇華作用が相互の間で循環的に行われる。すなわち『錬精化気』生殖力が生活力に転化し、『錬気化神』『錬神化精神』力が霊力に転化するものと信じられている。
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何やら難しいので、😅😅宗教学の専門家ではない私は適当な解説は避けて、文章から浮かぶ私個人の想い出を書こうと思います。😌😌
私のベトナム義母は客家(はっか)華僑の末裔で生まれも育ちもサイゴン。義父は田舎の熱心なカオ・ダイ信者家出身でしたので、私が嫁いだ時は一家の中で義父だけが唯一カオ・ダイ教信者でした。
毎日朝、昼、夜3回、食事前に2時間のお経をあげ、衣類は常に簡素なワイシャツにズボン、高価な物は一切持たない。部屋の本棚には本がびっしりと並び、大きな祭壇と木製の寝床だけ。食事は完全菜食主義でしたが、肉を擬した大豆タンパク加工品や濃味ソースやタレは無関心で、いつもバナナや豆腐類、キノコ等を醤油で煮た汁をご飯にかけて食べてるだけでした。
現代の堕落した生活に慣れていた嫁の私😅は、「絶対に真似出来ないわー」と思っていましたけど、義父は己の内の「神性」を「神秘的な昇華作用を相互の間で循環的」させようと自己修業していたと思えば、今更、妙に納得がいくのです。
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…信者は四季を通じて朝の6時、正午、夕6時及び真夜中の四度、祭壇に額づきまず『念香』を拈じ、次いで『開経』すなわち読経する。
飲食戒については下承たるものは、順次に菜食に移る定めとなっており、先ず初めは毎月一定の日数だけ精進ものを摂る。初めは『朔望』と称する毎月15日から2日間、次いで『六齋』に移って6日間、さらに『十齋』とて10日間の精進に進んで行くという順序で修業する。
…この戒禁の訳義を見ると、節酒と併せて肉食禁断の必要を教え、菜食が人間構成の三要素たる精・気・神の昇華作用を促進し、人間の浄化を実現する唯一の方法であることを強調している。酒害については其れが心身両方面に及ぼす影響を述べ、酒気が身体に漲ると、人間の心霊活動の中樞たる『坭還宮』すなわち頭脳が冒され、『護法』の力が破壊されるがゆえに、酒は解脱の邪魔と知るべしとある。
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ベトナムで暮らしますと、仏教徒で月の菜食日を守っているベトナム人が多いことに気が付きますね。ベトナム工場の食堂では、旧暦15日頃必ず「菜食コーナー」が出来ていたりします。
先の記事に書きましたように、仏印の酒は「フランス政府の醸造専売」であり、「密かに醸造すれば、密造の罪で重税」でした。
ベトナム独立運動家の潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)が、「人種隠滅の奇策」と表現し、「官売の酒は、皆石灰と猛烈なる酒精とを用い、調合醸造してヴェトナム人に売る。この酒をたしなむ者は初めはただ神経衰弱、久しくして元気消沈して急病を病んで死し、必ず長生きをしない。」という「毒酒」で酒害も酒害、そして阿片(あへん)の強制割り当て制度もあり、、、ベトナム人は、長い期間に亘って大変な健康被害を受けました。。。
その為でしょうか、今でもベトナムの人々の食生活には、『陰陽論』が大きな位置を占めており、これを大きく広めるきっかけになったのが、1960年代のある日本人の渡越でした。これはまた、別途纏めたいと思います。
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…霊媒が神意の啓示を受ける方法とその効果-
神意の啓示を受けるには、長い柄のついた籠を使う。籠は紙を貼った籠であって、柄の長さは約40センチメートルあり、その先は鳥形に作られ、鳥の腹へ垂直に竹を挿し込む。その竹の先端は大工が使う筆の如く、この先を卓子につけ、竹籠を日本で使われる狐狗裡のように扱うと、神意は竹筆を動かして卓子の上に文字を書く。その文字は列席者が之を判読すると直ぐに海綿で消して次の文字の書かれるのを待つ。
…フランス当局は昭和15年8月コーチシナ長官令によって之を禁じ、同時に霊祠の使用も差し止めて封印を施してしまった。(中略)…最も恐れたのは此の霊祠が反フランス陰謀の根城となり、神託によってベトナム人が民族的自覚を信仰の形で自己のものにすることである。
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先の記事「仏領インドシナ(ベトナム)にあった日本商社・大南(ダイ・ナム)公司と社長松下光廣氏のこと その(1)」に書きましたが、私の義父が遺した古いカオ・ダイ文献には、設立2年目の1928年に「日本から大本(おおもと)教が渡越して占卦を伝授」と書いてあります。最近はネットなどで調べてもこの史実は出ませんので、当時のカオ・ダイ教占卦との関連は私はよく分かりません。
上述⇧の「鳥型の籠」で思い浮かぶ「鳥の神性」に関して、先の記事「「安南民族運動史」(6) ~ベトナム略史・古代から徴(チュン)姉妹まで~」に、
「由来、越安国の歴史は非常に古い。(中略)人種としてはインドネシア系とタイ系との混和形と考えられ、(中略)北部地方在住のベトナム人には、勿論、漢族の血が混和しているが、ベトナム人全体として見れば、漢民族よりも寧ろタイ人及びモン・クメール語族たるインドネシア系種族に深い近親性をもっていると考えられている『百越(粤)』の一族である。」
「「フランス人研究者によると、ベトナム人もタイ人も、同じく西蔵(チベット)山岳地方から降りてきた民族だとある。ベトナム人は紅河に沿って東南方向へ下り、現在のベトナム国を建国した。」
とあり、南北方からの移動民族が混血して「越(えつ)国」辺で安南(あんなん・ベトナム)人が形成されて、今も彼等が使用している「刳船(刳=えぐる)形式の舟」が、「今日東南アジア辺に行われておるカヌーの形によく似て」いるという指摘があります。現在でもベトナムでよく見るカヌー型船の先端には、そういえば「鳥の目玉」が必ず付いてます。。。
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この総本山には聖堂、霊祠のほかに巨大な印刷工場があって一時間に小冊子5百部を印刷するために、輪転機と小型印刷機各々一台を備えてある。印刷場のほかに木工場があり、本尊の大地球儀を組み立てており、その傍には4百人の生徒と10人の教師とをもつ学院があって、(中略)病院、葬儀場などもある。さらに協同組合の店もあり、販売、購買、消費、信用の4組合を兼ね営み、その上に大農園も経営していて、全く組織的にして近代的・総合的な規模が一目を奇たしめるそうである。
さて、叙上のごとき高台教が将来どうなって行くか、どういう活動を展開するか等々の問題は、インドシナ連邦自体の運命と深い関連性をもち、延いては東亜政局の全体の動向と切り話せない繋がりをもつ。
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印刷場に、学校、病院、葬儀場、協同組合に、近代的・総合的規模の大農場が揃って敷地の中で全て事が足りる訳ですから、これはもう、江戸時代の頃の「藩」、あるいはアメリカの地方「州」、或いはバチカン(直接見た事ないので詳しくは分かりませんが…😅)等々に近いのかな、という気が何となくしてます。
以上、1941年(昭和16年)の大岩誠先生の仏領インドシナ時代の高台(カオ・ダイ)教に関する論文から3回に分けて纏めてみました。
日本軍が仏印平和進駐を開始して、「仏印(=フランス領印度支那(インドシナ))連邦」という名が突如日本国民の脚光を浴びた頃でしたが、
「叙上のごとき高台教が将来どうなって行くか、どういう活動を展開するか等々の問題」
大岩先生がこう指摘したこの時期(1941年)は、仏印に進駐した日本軍指導の元、カオ・ダイ教男性信者らによる「高台(カオ・ダイ)義勇軍」の本格的な軍事訓練が始まった頃です。後の第1次、第2次インドシナ戦争(ベトナム戦争)で、このカオ・ダイ教軍(=解放戦線)が滅法強かったのは有名な話です。
「延いては東亜政局の全体の動向と切り話せない繋がりをもつ。」
世界地図のお臍で非常に重要な東亜の中心のベトナムですが、本当のベトナムの姿は、いつも巧みに日本人から遠ざけられてる気が何となくします。😅