ベトナム志士らが愛した三島由紀夫(みしま ゆきお)文学
遅ればせながら明けましておめでとうございます。
2024年初めて投稿します。
本当は、去年と同様に”正月読書感想企画”😅(因みに去年はこれ⇒マキアヴェㇽリ『マンドラゴラ』)にしようと思ってましたが、最近なんやかんやで忙しく纏まった時間が取れず。。。なので、以前から温めていた掲題に関して少し纏めようと思います。
三島由紀夫(みしま ゆきお)氏、は、大正14(1925)年生まれ、沢山の優れた小説や戯曲作品を遺し、最期は1970年11月に東京の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地のバルコニーで演説後、割腹自決しました。
さて実は、ベトナムに長く住んで現地生活に溶け込んで行くと、
「あれ。。。? なんでベトナム人はこんなに三島由紀夫が好きなんだ?」
と、或る日必ず、これ⇧に気が付く瞬間があります。。。😅
昔ほどでは無いにしても、現在もベトナムで最も有名な作家は『三島由紀夫』と言って過言ではなく、『金閣寺』などは超有名で、ベトナム語『Kim Các Tự』で検索しただけでも2百万位の検索結果が出てきます。そして、こちらが→ベトナム語版Wikipedia『Mishima Yukio』。
ベトナム人の、現在進行形の強い”三島愛”と”金閣寺愛”を感じますが…😅 一体何故なのか・・・? を、考察したいと思います。
日本で『金閣寺』が発表されたのは、敗戦11年後の1956年、そして、当時の南ベトナム=ベトナム共和国の首都サイゴン(現在のホーチミン市)でベトナム語翻訳版が発刊されたのが1969‐70年、翻訳者の名は、Đỗ Khánh Hoan(ド・カイン・ホアン)氏と Nguyễn Tường Minh(グエン・トゥン・ミン)氏。
あの難解な三島文学を、よくベトナム語に完訳したなぁ。。。という私の印象に反していやはや何とも、、実に能く翻訳できています。例えば、こんな文章。⇩
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遠い田の面が日にきらめいているのを見たりすれば、それを見えざる金閣の投影だと思った。福井県とこちら京都府の国堺をなす吉坂峠は、ちょうど真東に当たっている。その峠のあたりから日が昇る。現実の京都とは反対の方角であるのに、私は山あいの朝陽の中から、金閣が朝空に聳えているのを見た。
こういう風に、金閣はいたるところに現われ、しかもそれが現実に見えない点では、この土地における海とよく似ていた。舞鶴湾は志楽村の西方一里半に位置していたが、海は山に遮られて見えなかった。しかしこの土地には、いつも海の予感のようなものが漂っていた。風にも時折海の匂いが嗅がれ、海が時化ると、たくさんの鷗がのがれてきて、そこらの田に下りた。
(ベトナム訳)
Khi nhìn ánh mặt trời, tôi cảm thấy chắc chắn đó là một ánh hoàng kim do ngôi chùa vô hình rọi đến. Hiệp lộ Yoshizaka, ranh giới giữa huyện Fukui và phủ Kyoto thực sự nằm ở hướng đối nghịch, tôi vẫn quen nhìn thấy Kim Các Tự hiện hình vụt lên bầu trời buổi sớm giữa những ánh triêu dương trong khi mặt trời lên sau những rặng đồi chập chùng ở phía đông.
Như thế là Kim Các Tự hiển hiện ở khắp mọi nơi. Chừng nào mà tôi chưa được thực sự để mắt ngắm nhìn, Kim Các Tự vẫn còn giống như bể cả. Vì mặc dù vịnh Maizuru chỉ cách làng Shiraku nơi tôi cư ngụ có ba dặm rưỡi về phía Tây, những ngọn đồi vẫn chặn lấp không cho người ta nhìn thấy nước bể; tuy vậy trong không khí luôn luôn phảng phất một thứ dự cảm về bể cả; một đôi khi gặp thời tiết xấu, từng đàn chim hải âu bay xà xuống những cánh đồng kế cận để tìm chỗ ẩn náu.
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難解な三島文学を深く完全に理解して、なお且つ格調高いベトナム語へ完璧に翻訳したĐỗ Khánh Hoan(ド・カイン・ホアン)氏と Nguyễn Tường Minh(グエン・トゥン・ミン)氏の2人は、どんな背景がある方だったのか、気になるところです。。。
ベトナム語版の出版年1970年に40ー60歳位と仮定すれば、生年は1910-30年頃か。そうすると、年齢的には元『東遊(ドンズー)運動留学生』の誰かではないのかな。。。
クオン・デ候やファン・ボイ・チャウの自伝に拠れば、日本政府の解散令(1908年)を受けたベトナム人留学生は殆どが留学を止めて帰国、結局この200名以上の日本滞在はたった1-2年という短い期間で終わった訳で、だから、この中から後に『三島文学』を翻訳するような実力者は多分居ない筈ですし。
そうすると、1908年の解散令後も日本に残留したベトナム人数名の内の誰かか…?
クオン・デ候自伝には、こんな文章があります。⇩
「その頃(=1915年頃)日本に残っていたベトナム人留学生は、黄廷遵(ホアン・ディン・トゥァン)、陳有功(チャン・フゥ・コン)、黎仲伯(レ・チョン・バ)、黎余(レ・ズ)、陳文安(チャン・バン・アン=陳希聖 チャン・ヒ・タイン)、陳文書(チャン・バン・トゥ)、黄文己(ホア ン・バン・キ)他数名で、皆中国人留学生として学校に通っていました。」
『クオン・デ 革命の生涯 第12章日本再入国』
1909年の日本退去後、クオン・デ候は1915年再び日本に戻り、中国名林順徳(りん・じゅんとく)を名乗り東京の大森区に住んでいました。この時に日本で再会した残留留学生が10人位いたそうなので、後に裏切った者や殉死者を除く、この内の誰かが翻訳したかも(?)知れません。
さて、では何故ベトナム抗仏志士らが特別に三島由紀夫に共感し、南ベトナム施政下で『金閣寺』等の三島作品の数々をベトナム語翻訳してたのか。。
この歴史的文化的背景を、私が自費出版した(→ベトナム英雄革命家 畿外候彊㭽 - クオン・デ候: 祖国解放に捧げた生涯 | 何 祐子 )の中でこの様に考察してみました。⇩
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「何故なら、この当時のベトナム文人、識者の間では広く儒教が尊ばれ、盛んに学ばれた時代だったからである。
阮(グエン)朝第2代目明命帝(在位 1820-1841)は、国政安定のため儒教を国家正道と定め、勉学を奨励した賢帝として名高い。また、歴代皇帝のうち最も勉強好きで、外見は全く儒者の様、達筆で知られた第4代目嗣徳帝(在位 1847-1883)の存在も大きい。質素堅実を好む謹厳実直な質で、国民へ広く学問を奨励した。
この明命帝から嗣徳帝の3代63年間に、儒教が国民の間に浸透する素地が固まったが、それ以前の南北統一前の南朝時代に特筆するべき出来事がある。清に滅ぼされた明の軍人らが清への仕官を嫌い、船50艘で3千人を引き連れて帰化を申し入れ、ベトナム南部へ移植した(1679)。現在のビエンホア省辺りを中心に土地開拓に励み、土着化していった中華系移民の彼らのことを、今でもベトナムでは『明郷(ミン・フゥン) 人』と呼ぶ。
明代の儒者で有名なのは王陽明(1472-1529)であろう。南部ベトナムへの明郷人の大量移植が、後の儒教興隆期のベトナムにおいて儒教、とりわけ朱子学や陽明学の普及を後押ししたことは間違いがない。このような儒教素養の土壌で、19世紀外患による亡国難が訪れたベトナムに於いて、陽明学の『知行合一』思想が外敵へ の抵抗運動の最も大きな起動源として働いたことが考えられる。」
「ベトナム英雄革命家 クオン・デ候: 祖国解放に捧げた生涯 |」
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潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』にも、屡々「(誰彼は)、常に”実行者”たることを熱望した。」という文章の人物評が見られます。クオン・デ候も、子供の頃に読んだ『世界偉人伝』中で最も好きだった日本の偉人は「西郷隆盛」と「吉田松陰」と書いてあり、当時ベトナム志士らが「陽明学的知行合一」を最も重んじていた証拠だと思います。
そして、三島由紀夫の小論『革命哲学としての陽明学』(1970)には、明治維新の背骨になった革命(維新)の行動哲学に対する大正時代の世論の雰囲気について分析している文章があります。⇩
三島由紀夫の言う通り、「大正昭和の知識層の『革命的関心』の90%は、マルクシズムにとって代わられ」ていたならば、多分クオン・デ殿下や潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)、東遊(ドン・ズー)留学生が渡って来た頃の日本はもう既に、当時のベトナム人が求めていた陽明学的『知行合一思想』を柱とした勤皇蹶起は『時代遅れ』だと、これを揶揄する新世代の日本人が各界中枢を支配する中堅世代に台頭して来ていたのかも。
そう考えれば、『仏印平和進駐』後の日本内部の縄張り争いも、『マ(明)号作戦』後のクオン・デ候帰国阻止のドタバタ劇も、さもありなん…というべきか。。。😅😅😅
初期のベトナム抗仏志士らは、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)に代表されるように元々は皆科挙試験合格者の高学歴者で元政府高官も多かったです。けれど、「知行合一」を実行する者達は、祖国を蹂躙した侵略者に大人しく頭を垂れることはせず、徹底抗戦を構えました。
しかし、同国人の中には、この”新時代の到来”に、今度はフランス領下の政界で猟官運動、出世競争に夢中になり、フランスの手先として掌を返し昔の同志同郷人に重税を課して、反フランス運動の弾圧、逮捕、虐待に躍起になりました。要するに、”知行合一、、、なにそれ(笑)??”という変わり身の早さだった訳で。。。😭😭😑
クオン・デ候やファン・ボイ・チャウの自伝を読めば、結局、ベトナム人でありながら西洋人の忠実な手下になり、祖国の植民地解放闘争を率先して妨げていたのが、正にこの類の同国人=ベトナム人だった事が判ります。
若い頃は、同じ教室で肩を並べ、『四書(大学・中庸・論語・孟子)五経(詩経・書経・易経・礼記・春秋)』の勉学を競い合った同窓の秀才たちが、恐怖・金銭・名誉・贅沢・出世の前に、いとも容易く学問を、主義を、正義を、忠義を、愛国心を捨て、強者に寝返ってしまう。
そんな醜悪な様を嫌と云う程見たファン・ボイ・チャウやベトナム志士らは、命を懸けて明治末日本を目指したのでした。。。
。。。が、しかし、彼等が来日した当時は、上述の三島由紀夫氏の分析が正しければ、日本は既に「知行合一」を地で行く陽明学の考えなど、古臭くて黒い秘教扱いへ追いやられつつあった社会。。。肚の中ではさぞやガッカリしたろうなと私は想像してます。😑😑😑
さて、そんな彼等が、1941年の大東亜戦争開戦で、日本に従い共に戦うと宣言したのは、日本も自分達と同じ”病”に苛まれていると看破してた背景がある筈です。
その”病”とは、”欧米コンプレックス”という病。
豪華絢爛、絶対的な美と尊崇と畏敬の存在だった金閣寺を焼き払って後、『生きようと私は思った。』と主人公に言わせた三島由紀夫は、ベトナム志士らにとって我が意を得たり、の代弁者だったに間違いなく。
昭和38年12月号の『文芸』誌に、『三島由紀夫氏への質問』と題した記事があります。三島由紀夫が自身の生活と芸術とに関する信条を述べた部分を下記に抜粋して置きます。