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「安南民族運動史」(5) ~安沛(イエン・バイ)事件~

 大岩誠氏の『安南民族運動概説』の序文に、大岩氏がベトナムの民族運動に興味を持ったきっかけが書いてあります。
 「私が越南の民族運動に多大の関心を持ったのは昭和6年前後、私がパリに留学していた当時のことである。恰も当時は昭和5年の安沛(エン・バイ)事件に引き続く大小の独立運動によって、越南の全土は元よりフランス本国殊にパリにおいても、様々な国体が種々な見地から、此の惨澹たる植民地の運動に刺激されて活発な運動を展開していた。」

 ここで触れられている「昭和5年の安沛(エン・バイ)事件」とは、ベトナムの抗仏運動関連書籍の中で頻繁に目にする「フランスによるベトナム人大弾圧事件」のことです。

 ホーおじさん(ホー・チ・ミン氏)も、1945年9月2日『再・独立宣言』の中で触れていますね。
 「Thậm chí đến khi thua chạy, chúng còn nhẫn tâm giết nốt số đông tù chính trị ở Yên Bái và Cao Bằng. (更には、敗走の際、彼らはイエンバイとカオバンで政治犯を多数虐殺しました。)

 1945年8月の日本敗戦で、べトナム帰国を阻止されたクオン・デ候は、その後、1950年6月にカオダイ教教主らの手配によって再度帰国のチャンスを得ます。神戸港から「海明号」で出航したクオン・デ候でしたが、バンコクに上陸できずにまた日本へ引き返しました。
 本来であれば、バンコク上陸成功の電報が入り次第、日越2か国語でメディアに発表する予定だったクオン・デ候の『帰国声明文』というものが存在します。この『帰国声明文』も、安沛(イエン・バイ)事件のことに触れているのです。
 「越南、嘗て南海に誇り秀抜なる文化国、安らかなる楽土、伝統の道義。彼のヨーロッパ植民地軍の銃剣に汚された歴史を、今や自らの血潮でもて清めつつある越南の同志よ。諒山(ラン・ソン)の野に、安沛(イエン・バイ)の夜に、はた刑場の土に、幾度、革命の紅血を屍山の裡に葬りたる彼の三色旗は、今や永遠にアジアを去る日が到来した。」
      
北野典夫氏著『天草海外発展史』(『安南王国の夢』より)
 
 クオン・デ候の『帰国声明文』然り、ホーおじさんの『再・独立宣言』然り、、、両方とも当時の世界各国へ向けた声明です。その中で、『ベトナム民族の受けた大虐殺』として常に例に挙げられるこの『安沛(イエン・バイ)事件』とは、一体どんな事件だったのでしょうか?

 大岩誠氏の『越南民族運動史概説』に、この事件のことが詳しく纏められています。

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 安沛(イエン・バイ)事件前後の民族運動

 ベトナムの独立運動は、日本の興起に刺激せられ、次いで中華民国の革命の教訓を学び、更にウィルソンの民族自決運動に教えられ、最後にロシア革命に新たな活動の理論と組織とを学び取った。その実践は阮大学(グエン・ダイ・ホック)、阮愛国(グエン・アイ・クオック、(後にホー・チ・ミンとされる人))等のそれぞれの集団を通じて大正13年頃から漸く活発となり、両党の2党派は其の根本的理念こそ、前者は国粋主義、後者は共産主義と氷炭相容れぬものがあるが、フランス勢力の駆逐という目的において、また民衆を組織して騒擾を起こさせるという戦法において、さらにまた目的を達成するために威嚇戦法(テロリズム)を採用して直接行動に出る手段において、均しく共産性をもっており、事実、両者は互いに所謂共同戦線を張って闘争した。

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 『安南民族運動史概説』の発刊年は昭和16年(1941年)。この頃のベトナム抗仏運動は、「国粋主義」に加え、新興勢力「共産主義」による2大勢力の共同戦線態勢があると世界では認識していたようです。

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 猛烈な抵抗が最高潮に達したのが、昭和5年世界恐慌の波の荒れるなかに勃発した安沛(イエン・バイ、Yen Bay)事件である。 
 この事件はベトナムの社会的不満の爆発として注意せらるるとともに、これに対処したフランス当局の言語に絶する大虐殺行為によって更に一層の関心を惹くものとなった。蓋し此の惨事によって、我々はベトナム民衆の生活が如何に悲惨であるか、西洋の植民地政治が如何に酷薄無情であるかを如実に知り得るが所以である。

 ベトナム国民党はメルラン襲撃事件の後、声明書を発表して党の目的を明らかにしたが、これによると民族自決を先ず強調し、同時にヴェルサイユ会議に日本が提唱した人種平等の主張を取り入れて越・仏領民族が平等の地位に立つべきことを要求する。2次的要求として専制政治の廃止、政治犯人の大赦海外への留学、旅行、営業及び言論、結社、集会、著作の自由に実現を掲げている。また其の威嚇戦術については、これが全く已むを得ざる非常手段であることを力説し、かの新学(=ルソー、モンテスキューなどによる書物のこと)を講じていたがゆえに首を刎ねられた陳季恪(チャン・クイ・カップ)、新学を翻訳したために終身刑に処せられた黎大(レ・ダイ)などの著しい例に見る弾圧に対する自己防衛の手段に過ぎないと論じている。

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この声明書とは、当時のインドシナ総督メルラン襲撃事件の後で、ベトナムの独立運動家、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)が書き、香港の新聞に掲載された『越南国民党沙面炒弾案声明書』のことです。
 大岩氏の指摘している、「同時にヴェルサイユ会議に日本が提唱した人種平等の主張」とは、『越南国民党沙面炒弾案声明書』の中の、

 「…而して、越人とフランス人と両者を平等親愛の地位に居らしめば、之を最上策とする」

 
この⇧部分に当たるのかと思います。
 考えますに、大岩先生は、「ヴェルサイユ(パリ)講和条約(1919)に於いて、世界で初めて『人種差別撤廃』を訴えた日本の先人らの勇気を、我ら日本民族は忘れてはならない」と言いたかったのかな、と私は理解しました。
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 かような直接行動派に組織と理論とを与えたのが阮大学(グエン・ダイ・ホック)であった。彼はインドシナ大学商学部を卒業した知識人であるが、政治に大きな関心を持ち、まず総督に対して新経済体制及び改革計画を進言した。これが全く受付けられもしなかったので、彼は23歳の発刺たる精力を政治活動に傾倒する決意を固めた。『ベトナム国民党』の国内組織を創設し、党伝統の戦法を以って当局者を東西に狂奔させた。
 彼はフランス人をベトナムから追放して『真実の民主主義政治』を実現するベトナム共和国を建設する目的を抱いていた。その他の主張はすべて前記の大正13年のベトナム国民党の声明と同じで特筆すべきものはないが、ただ政治体制についての建設的な意見をもっているのが注意を喚起する。

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 『ベトナム国民党』と阮大学(グエン・ダイ・ホック)に関しては、先日投稿しました記事をご参考頂ければと思います。
 「ベトナム国民党」とは、既存の組織を潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)らが改組して1924年7月に中国広州で結成した党です。1924年6月19日の「メルラン襲撃事件」実行時はまだ『越南国民党』は存在していません。クオン・デ候は、この襲撃事件が、ボロボロになっていた海外のベトナム抗仏戦線を生き返らせる突破口になったと語っています。
 「海外の抗仏活動は、失敗を重ねていたが完全に消尽はせず、1924年後半になって俄然その火が再度燃え広がりました。きっかけになったのは、范鴻泰(ファム・ホン・タイ)の沙面(広東)での爆弾投下事件でした」
          『クオン・デ 革命の生涯』より

 改組で起ち上がった『ベトナム国民党』のベトナム国内組織を率いた23歳の若き阮大学(グエン・ダイ・ホック)。勿論、阮大学はリーダーの素質があったのだと思いますが、ここから判ることは、この頃ベトナム国内にはもう20代位の青年しかいないのか、ということ。父、兄、伯父、、、みんな既に逮捕、流刑、獄門、死刑、或いは海外逃亡して国内に在りません。1930年(日本の昭和5年)頃のベトナムは、20代の青年らが一斉に行動を起こし、自らが弾丸となり、次々と死地へ向かって行ったのです。

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 さて彼がその抱懐する目的に向かって邁進したのは昭和4年、ロシア革命の余波が全アジアを蔽い、日本もまた同じく其の波に襲われていた時代であった。当時25歳の阮大学を首領とする(国内の)国民党は、その年の春から一斉に行動を開始し、暗殺団は河内(ハノイ)、海防(ハイフォン)、西貢(サイゴン)等において威嚇戦術に出で、幾多の亡国階級、フランス官憲を血祭りに挙げた。当局必死の弾圧に検挙されたもの700人、刑の執行を受けた者300人に及んで、党の活動も鎮静化したかに見えたが、翌5年2月、一層広般な反抗運動は、安沛(イエン・バイ)の兵営襲撃に端を発して全ベトナムに波及し、ベトナムのみならずフランス本国をも震撼し、恐るべき『アジアの擡頭』として欧米世界の関心を惹いたのである。この事件を契機にフランスは元より従来比較的に無関心だったアメリカまでも、東亜における植民地の保全の必要から、またそれと同時に、競争国フランスの苦難に乗じて勢力をアジアに拡大すべき方策を発見する為に、インドシナの研究調査熱を煽り、続々旅行者または文筆家、学者を調査して調査を始めたほどである。エンニス、タムスンを始めとし昭和5年(1930)後に続々公刊されたインドシナに関する著述、旅行記などは、濃淡の差こそあれアメリカ合衆国の東亜政策の基礎調査の一端である。

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 要するに、この「安沛(イエン・バイ)事件」が、それまでの世界の「旧秩序=旧来の西洋植民地主義」の終焉を告げた、というのが当時の世界認識だったのではないでしょうか。そうであれば、戦前史料(特に西洋の)中での、この「安沛(イエン・バイ)事件」の大きな扱いの意味に辻褄が合います。
 
フランスが去った後のベトナムを押さえるつもりで、アメリカは1930年頃から既にベトナム研究に乗り出していた。そうであれば、10年後の日本軍の仏印進駐などにアメリカは絶対に指を銜えて見ている訳はなかったのです。「クオン・デ候のベトナム帰国」を真に阻止したかったのは実はアメリカ、、、 

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 安沛(イエン・バイ)は、河内(ハノイ)の西北約105キロメートルの地にある都市で、援蔣ルートで有名になった滇越(てん・えつ)鉄道(滇=雲南省のこと)の沿線に当り、老開(ラオ・カイ)とハノイのほぼ中間に位置している。ここには2か所に兵営があり、土着民兵が屯営していた。
 事件は2月9日の夜、予てベトナム国民党と接触して民族的自覚に目覚めていた土着民兵
(フランス軍のベトナム人兵士のこと)の多数は、無理解のうえに残酷な下士官及び将校に対する不満を爆発させて、突如蹶起してこれ等の幹部を血祭に挙げて一つの兵営を占拠し、次いで他の兵営に襲い掛かった。然るに、その兵営との内部連絡が十分でなかったために、暴動者側の意図が兵士たちに徹底せず、フランスに忠実な土着民中隊は頑強な抵抗を行ない、遂に暴動者側は其の武力に屈服した。この安沛(イエン・バイ)での犠牲者はフランス将校及び下士官のうち死者5名、負傷者6名、兵士の死者6名、負傷者4名、襲撃側では伍長4名、狙撃兵22名、党員25名が捕縛され、反徒総数600名余、そのうち50名余が先頭に立って攻撃を指揮したと、フランス軍司令官は報告している。
 しかし、事件は単なる導火線の点火に過ぎなかった。安沛(イエン・バイ)での騒擾と時を同じくして、国民党の地下組織は北寧(バク・ニン)、建安(キエン・アン)、海塘(ハイ・ヅォン)などの各地でも土着民及び民兵を動員して暴動を起こした。その騒擾は約1年間の間、断続して起こり当局を悩ませ、弾圧は猛烈を極め、党員及び無辜の民の捕縛せられるもの数千、死刑、流刑、終身懲役に処せられたものは数百人に上り、土着民兵も約400名が刑に服した。死刑が執行されたのは、同年6月16日前後で、16日には国民党首阮大学(グエン・ダイ・ホック)、胡徳貞(ホー・ドュク・チン)等々は、フランスが彼の大革命以来未だ使っている断頭台(ギロチーヌ)によって首を刎ねられるに当り、異口同音、莞爾として祖国『越南(ベトナム)』の国号を高唱して散華したという。なかにも大学は獄を出る時、教誨師ドロネ師に向かってフランスの愛国詩を口誦んで聞かせ、祖国のため命を捧げる光栄を喜んだともいう。相次いで文字通り断頭台に上がる志士が『越南』万歳を繰り返して叫んだことはフランス人に異常な戦慄をさえ感じさせた。
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この事件の背景に、上述⇧の「「国粋主義」に加え、新興勢力「共産主義」による2大勢力の共同戦線態勢」があると、T.E エンニス氏が鋭い指摘をしています。

 「安南人は第3インターナショナルの闘争に巻き込まれている。(中略)1930年ボロージンは、広西のフランス領事館攻撃を指導し安沛(イエン・バイ)事件にも犬馬の労を執った。ロシア人の指導下に行われた攻撃は1930年及び31年の頃にいたって最高潮に達した。」
 「かくて土着民の反抗運動が続発し、(中略)支仏拒絶の文書には金鎚と鎌とを組み合わせた印がつけられていた。」
 「1930年の末、示威運動のなかの国民主義分子は共産分子(すなわち越南国民党)に取って代わられた。従って行動の狂暴性は一層激しくなり、国内に広く瀰漫した。これはソヴィエトの計画の一であって遠方の地方に集中攻撃を行い、農民の蜂起を促すものだったのである。」
                
『印度支那』より

 1930年頃からの仏領インドシナ-ベトナムには、既に多方面の勢力が混在し多面性あり非常に複雑になってきます。。。
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 叙上の安沛(イエン・バイ)その他における事件の報道は、忽ちパリに飛んでベトナム留学生は勿論のことフランスの急進的諸政党、國体を激動させた。事件の責任者をフランス当局者に求めて之を糾弾し、関係被疑者釈放運動はフリーメーソンの國体たるフランス人権同盟の幹部フランソワ・ジュルダンという老人を中心に活発な活動を展開した。幾多の調査員がベトナムの地に急いだ。
 一方、パリのベトナム留学生は国民党系、共産党系の共同戦線に動員されて、反フランス運動を開始し、講演、宣伝文書の散布が盛んに行われた。この風潮をはっきり反映した一例は、事件後2,3週間たった頃、パリの大学都市のインドシナ会館において示された。この建物は同所にある日本その他世界主要国の会館と同じく、ベトナム留学生の宿舎に当てる目的で建設された。豪華な会館であるが、この寄宿生を募集したところ、始め35名の希望者があったにも拘わらず、29名は開館式の前日に申し込みを撤回し、僅か6名だけが其の宮殿に入ったにすぎない。29名の学生は、国民党の激に動かされて会館ボイコット運動に参加したのである。そのうえ開館式の当日には、臨席したベトナム皇帝保大(バオ・ダイ)及びフランス大統領ヅーメルグの面前で示威運動が行われ、
安沛(イエン・バイ)の犠牲者を解放せよ」という叫び声とともにビラが撒き散らされ、慌てた警察官が辛うじて混乱した式場を整理し得た。

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 フランス本国において、特に、国民党系、共産党系の共同戦線に動員されたベトナム人留学生、そしてフランスの急進的諸政党や、フリーメーソンフランス人権同盟の幹部フランソワ・ジュルダンという老人を中心に、活発な反フランスの抗議活動が沸き起こったという当時のフランス国内。。。
 あれれ、、ベトナム戦争の時のアメリカと流れそっくりなんですよね。。そう思いませんか。😅😅😅



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