『我々は、大日本国が我々を解放してくれたというこの恩を、絶対に忘れてはならない。』‐1945年4月チャン・チョン・キム内閣宣告文
前回まで、1945年3月9日の日本軍による『仏印武力処理』通称『明(マ)号作戦』後に、フランスから独立したベトナムによる初めての独立政権の首相を務めた、儒教研究家で教育家のチャン・チョン・キム氏の回顧録『 一陣の埃風』邦訳を9回に分けて投稿しました。
投稿開始後、第6章くらいまではあまりビュー数が伸びず、やっぱり日本人にとってファン・ボイ・チャウのようなネーム・バリューが無いので読んでくれる人も少ないわ。。と思っておりましたら、第7章からいきなりビュー数が伸びました。。😅😅 ⇩
第7章『共産党の理念と行動』、
第8章『ベトナム政府とフランスとの交渉』、
第9章『中国へ渡る』
やはり、、、どんな意味でも『共産党』や『共産主義』、『中国』に関する記述は興味深いです。1945年頃のベトナム国内だけを見、キム氏の考えだけを読んで『共産主義』をこうだと決めつけることは出来ないと思いますが、少なくとも”あの頃のあそこの彼らはあんな感じ”だったことだけはよく伝わります。。😅
戦後日本では、何故か一貫してキム内閣を日本ファシズムの傀儡政権、キム氏には傀儡首相の汚名を被せています。しかし、もしまともにベトナム近代史を研究し、関係書籍を調べ、この回顧録を読んでいれば、そんな汚名など絶対に当て嵌る訳がないことは明白だと思いますが、不思議ですよね~、本当に。
私は、あの世に行く時に、”汚名晴らしたよ~!”と叫びながら駆け上がって日越志士の皆さんに会いに行く事を夢見ているので、(笑)この貴重な歴史的証言が詰まったキム氏回顧録の邦訳も、クオン・デ候自伝とファン・ボイ・チャウ自伝『自判』同様、日越の次世代へ繋げる目的で早めに出版して残して置きたいと思っています。ですので、その関係上NOTEの投稿はそろそろ有料にしますので宜しくお願いします。。😀😀
キム氏の回顧録に関するベトナム語記事を、こちらで取り上げてくれてました。⇩
ベトナム語原本のPDFも紹介されてます、ベトナム語が解かる方は是非ご一読頂ければと思います。私の邦訳に是非ご指摘、コメント頂戴出来れば大変嬉しく、出来れば出版前にお願いします。。😌
チャン・チョン・キム氏がこの回顧録(原題は見聞録)を書き上げたのは1949年で、当時はカンボジアに滞在中でした。その後、この本が出版されたのは20年後の1969年で、巻末に出版社が歴史的資料を幾つか掲載してくれてあり、その一つが『チャン・チョン・キム内閣の宣告文』です。⇩
この⇧冒頭部分、
「乙酉年2月25日(陽暦1945年3月9日)、大日本国軍隊は全インドシナ領土に於けるフランス人の主権を打倒した。その後には今上皇帝がベトナムの独立を宣言し、それと同時に小磯首相が、日本は我が国を侵略する意志無しと連絡をして来た。
それによって、80年続いた圧制が終わり、我が国は自主権と東アジアの一角の文明国としての立場を恢復した。
我々は、大日本国が我々を解放してくれたというこの恩を、(中略)絶対に忘れてはならない。」
これが、、、戦後日本ではやっぱり『不都合な真実』なのかな~、わはは。😂😂😂
だから、キム氏と内閣を『日本ファシズムの傀儡』に仕立て上げた。そんな背景が見えてくるようです。うーむ、日本の闇は深い。。。🤔🤔
さて、私はこの『キム内閣宣告文』を読んで、一つ安心したことがあります。それは、以前こちら⇒『仏領インドシナ、ドンダン・ランソン進攻の中村兵団-第五師団のこと その①(再)』で取り上げた、1940年の仏印進駐ドンダン・ランソン進攻で活躍した第五師団のことです。
詳細は元記事に書いた通り、ドンダン・ランソン進攻時に第5師団の『命令無視』があったとして『軍令違反』が問われ、大本営による「平和進駐途上の不幸なる出来事」の異例の声明発表となった事件ですが、第5師団の師団長中村中将は、回想録『仏印進駐の真相』にも、
「この事件は意外な大波紋を軍最高統帥に巻き起こし、遂に陸海軍統帥部を一新せしめ、(中略)何故か、事件直後は異例の捜査処置を命じた東條陸軍大臣、しかもすばらしい決断力をもっている大臣がこの問題に関しては、決心を躊躇して居られたのみならず、時に苦悩の色さえ見えた。」
とこの様に書いていました不可思議な事件。
結局は、関係者処分と、中村師団長自身も責任を問われて第五師団長を免じられ、参謀本部付に交代させられてしまったのでしたが、、、
本来なら、80年もフランス圧制に苦しんだアジアの仏領植民地の解放へ繋がる記念すべき日。なのに、外交の、政治の、上部の御都合上か、日本の大本営は『不幸なる出来事』と対外発表した。激烈な戦闘で数多くの死傷者を出した現場の兵隊さん達は本当に悔しかっただろうと思います。そんな部下達を労って、中村師団長はこの様な訓示をしました。⇩
「諸君の今次の戦いにおける功績は、あるいは中央によって認められず、多くの有為な将兵を失ったが、これら亡き戦友もその功績を褒賞されることなく、新聞にも書かれないで終わるかも知れない。すべては自分の責任である。しかしながら、今次の戦闘は東亜の建設のための貴重な戦いであり、後年必ずや諸君の功績はあらわれ戦歿将士の英霊もまたかく赫赫たる栄誉をもって報いられる時が来るに違いない、それまでどうか辛抱して待っていてもらいたい。」
初めてこの文章を読んだ時、私は一抹の寂しさが込み上げました。今も草葉の蔭で辛抱して待っているだろう第五師団の皆様に、”あの時の活躍と犠牲は栄誉を持って報いられたか!?”と問われたら、今を以て何も答えられないなぁ、、、戦後80年も経ったのに、と。
しかしです、独立ベトナムの新政府キム内閣は全国民へ向けた宣告で、
「80年続いた圧制が終わり、我が国は自主権と東アジアの一角の文明国としての立場を恢復した。
我々は、大日本国が我々を解放してくれたというこの恩を、(中略)絶対に忘れてはならない。」
と、ベトナム解放のために戦った日本軍の犠牲にきちんと触れ、感謝を表してくれてたのだから、第五師団へもきっと伝わっていたなぁ、、と想像できて安心したのです。
同時に、犬養毅元首相が西南戦争後に西郷隆盛(さいごう たかもり)を偲んで詠んだ漢詩≪ 登城山憶南洲翁(城山に登って南州翁を思う)≫にこんな句があったことを思い出しました。⇩
≪ 先蹤誰能攀(その人の為した功績を 誰がよじ登ることができようか)≫
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私の両親は、戦後で家庭は貧しく学歴も無い所謂労働者階級でも、人様の物と自分の物の区別は物凄い厳しかったです。恩を受けたら必ず返しなさい、自分がやった恩は安売りするな、といつも言われました。
30年以上前に縁あって結婚した私の夫も、カオ・ダイの義父も客家華僑の義母も、家族全員が穏和で真面目で親切で勤勉で正直一途、バブル崩壊後に日本を逃げ出した私は、外国に在りながら懐かしい様な救われた様な気持ちになりましたです。
『チャン・チョン・キム内閣による宣告文』。
正直、誠実、平等、勤勉、思いやり等々の美徳と正論を、短い期間だったけど、一国のリーダーたちが堂々と表明していたという事実に、今、救いを感じるのは私だけでしょうか。