ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑫『年表・第三期(1905年~)・ベトナム再帰国/日本・東京へ/西湖(タイ・ホー)翁と≪排君説≫』
ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』
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≪ベトナム商団公会≫の設立
香港では、昔からベトナム人が西洋人の下で沢山働いており、その数はざっと40人以上居た。その内訳は、通訳・秘書は4、5人程度で、それ以外は総じて全員調理人だった。 私は、香港に滞在中、彼等と会う度に駄目で元々だからと声を掛けて、涙ながらに祖国救国の必要性を訴え掛けた。すると、その内の幾人かが熱心に耳を傾けてくれ、徐々に口々に伝わって、段々と彼らの中で同志間の愛国心が芽生えて行った。そこで、私は彼らに小さな会を創るように働きかけ、出来た会が ≪ベトナム商団公会≫だった。
商売で得た利益から共同資金を捻出し、主目的は在香港同国人同志達へ団体公益を教育することにして革命思想に関連することは何も教えなかった。この会の会長に就任したのは、南圻出身の范文心(ファム・バン・タム)氏。英語、仏語が流暢で世界情勢に相当明るい人物だったが強烈な君主思想の持主であり、当時の南圻人は大概がこの類の人間だった。
在香港の越僑(えつきょう)達は、ベトナム商団公会の設立を殊の外歓迎し、殆どが入会をした。フランス軍船で働いている越人水兵でさえ、進んで献金に来てくれた。会の設立当初は全く楽観的であったが、設立して一年位経った頃から、在香港フランス領事館のベトナム人通訳兼密偵で絨(ニュン)という同国人の男が、頻りに会の周囲を嗅ぎ廻るようになり、その挙句、この会は革命党の団体だとフランス領事へ密告した。そして、フランス領事から在ハノイの仏印総督へ通報をさせた。この通報を受けたフランス政府が、直ちに香港総督へ連絡を入れて会の解散を厳粛に申し入れた結果、幼かったベトナム商団公会は即座に絶命の悲運に遭った。
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