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日露戦争に見る日本の海賊①-対馬沖海戦東郷ターン(大転回)の秘密を探る😀

 先日、偶然或る古本店で買ったジャーナリスト高山正之氏の『変見自在 ジョージ・ブッシュが日本を救った』から、この記事⇒
週刊誌コラム『変見自在』 ジャーナリスト高山正之氏の”仏印(ふついん)”再訪』を投稿しました。
 一緒に購入した『変見自在 習近平と朝日、どちらが本当の反日か』(新潮文庫 2019)を電車の中で読んでいたら、1905年の日露戦役-『対馬沖海戦』の場面が出てました。⇩ 

 戦艦アリヨールの水夫ノビコフ・プリボイは日本艦隊が目の前で回頭する様を目撃している。
 ロシア艦隊は機を逃さず一斉に砲門を開いた。「本当に雨あられのようだった」と彼の著作『ツシマ』にある。

 日本側も回頭を終えてから応射した。
「一艦が撃ち、着弾を観測してから各艦に距離を伝え一斉に撃って来た」「日本側の砲撃は正確で、砲弾の破壊力は凄まじかった」。

 旗艦スワロフが燃え、続いてオスラビアも燃えて横転、沈没した。装甲戦艦が砲撃だけで沈むなんて世界の常識にはなかった。

 アリヨールも艦橋が破壊され、煙突も砲塔も吹き飛ばされ「浮かぶ鉄のスクラップ」と化したが、何とか夕闇に紛れ込めた。

 翌朝、天気明朗にして今度は波もない左舷前方に日本艦隊が姿を見せた。
 「それは前日、彼等が回頭する前に見せた姿と同じだった。煙突一本欠けていなかった」
 破壊され尽したロシア艦隊に戦意はなかった。
 「白旗をマストに、艦尾には日本の旭日旗を掲げて降伏の意を示した」

 プリボイは敗北の原因について日本海軍の抜群の強さと対するロシア将兵の低い士気を挙げている。

『変見自在 習近平と朝日、どちらが本当の反日か 
第一章 日本の本当の素晴らしさを知っていますか』より

 この華々しい史実を、娘に聞いても全く知らず。
 多分、今の日本の学校教育では素通り状態のようで実に残念。。。😑😑

 ベトナムの独立運動家ファン・ボイ・チャウが、タン・バッ・ホーらと共に危険を冒して出洋し、ベトナム光復会統領のクオン・デ候の使者として明治末の日本を目指した一番の動機は、この『日露戦役 日本の勝利』の報でした。⇩

  南部でも北部でも大勢の人々と連絡が着き、金銭の寄進も沢山集まったが、どうしても解決できない悩みがありました。それは兵器をどこで買うのか、誰に頼んだらいいのかという問題です。
 どうすればよいものかと頭を悩ませていた時に、不意に希望の光が差し込んだのです。それは、1904年頭に勃発した日露戦争の日本勝利の一報でした。
 その当時の日本の連勝に次ぐ連勝のニュースは、ベトナム人の心にどれ程の喜びを齎したか。(中略) 
 ロシアは敗北し日本が全面勝利する。だからもし、ベトナムが日本へ救援を頼んだら、 日本は必ず援助してくれるだろう。何と言っても、日本とベトナムは同文同種の民族だ。私たちは、そう信じて疑わなかった。

『クオン・デ 革命の生涯(CUỘC ĐỜI CÁCH MẠNG CƯỜNG ĐỂ )』(Saigon Vietnam,1957)  ~第2章 潘佩珠(ファン・ボイ・チヤウ)と光復会 ~ 

  1904年、日露戦争での日本の勝利の報が、中華志士の著作論文、新聞雑誌によってもたらされると、膝をたたき喜んだ。
 「抱懐の計を試す時が来た。欧州の潮勢がアジアで挫折した今こそ、日本に往って武器援助の路を開かん」

ベトナム志士義人伝シリーズ① ~曾抜虎(タン・バッ・ホー,Tăng Bạt Hổ)

 明治38年を一紀元としてかような戦が激化したのは、言うまでもなく、日露戦役における日本の大勝がベトナム人は勿論アジアの民の総べてのものを奮起させたからである。
 ベトナムの民は、世界に驚くべき事実が起こったことを知った。ベトナムの村々を流して歩く小唄歌いや講釈師たちは、アジアの小国日本が自他共に許した白人の強国ロシアを打倒した経緯を面白可笑しく聞かせた。ベトナム人は日本が自分達と同じ黄色人種であり、且つ同じ文化に育まれた国民であるのを想うと、『どんな冷淡な心の持ち主も電撃を受けたように感じた。…ベトナム人はミカドの国民がロシアを倒したように、自分たちもフランスを撃攘する力があるのだという自覚を呼び起こした』のである。

『安南民族運動史』(10) ~ベトナム人を覚醒した日露戦役-日本の勝利~

 極東島国のアジア人国家日本が、白人種の大国ロシアを破った。。。この衝撃はベトナムだけでなく、イスラム各国でも大変な反響を起こしたようです。⇩
 

 だから彼等は日本人がロシア軍を陸で、海でやっつけていくことに興奮した。それがメッカの話題をさらい、日本はイスラムのヒーローになっていった。(中略)
 それがどれほどイスラムの人々を興奮させたかを英国の旅行家ガートルード・ベル女史が『シリア縦断紀行』に記している。
 「人里離れた野営地でも彼等の話題は決まって日露戦争に行きつき、信じられないことにそれは最新の情報を含んでいた。」と彼女はその情報網に驚く。そして、「シリアだけでなく小アジアでもどこでもすべてのムスリムが日本人に共感を抱いていた。」と。

『変見自在 ジョージ・ブッシュが日本を救った 
第一章 朝日よ、ウソもほどほどに』より

 そして、ベトナムのクオン・デ候は、対馬沖海戦を勝利に導いた東郷平八郎元帥のことを自伝にこう書いています。⇩

 …長く掛からず日本語新聞や書籍が読めるようになりました。特に興味を持って読んだのは明治維新と日露戦争。最も崇拝する 日本の名将軍は旅順攻略の乃木希典大将と、そして、対馬沖海戦勝利の東郷平八郎海軍大将です。日本海軍を撃滅するべくロシア海軍バルチック艦隊が対馬沖に現れた時は間一髪、東郷平八郎大将の秀でた指揮統率が無ければ、この海戦はロシアの勝利だった。もしそうなっていたら、今日の様な東アジアの胎動はなかった事を思えば、日本一国にとってのみ為らず、東アジア各地に多大な希望を与えた東郷大将の功績は誠に大きい。

クオン・デ 革命の生涯|何祐子

  ここで、、、
 今日は、この「東郷平八郎大将の秀でた指揮統率」、世界史に云う『東郷ターン(大転回)』を深堀りしてみたいと思います。😅😅

 実は、ワタシは素朴な疑問があります、それは、、、
 ”どうしてターンできたのかっ??”

 
昔からこんな⇧事が妙に気になる体質です。。。(笑)
 だって、いくら東郷元帥が、
 「よし!!今だ!!転回(ターン)だ!!!」
 と絶妙なタイミングで叫んだとて、現場の操舵手が熟練の水兵軍団でターン技術に優れてない限り、ハッキリ言ってただの無茶振りです。。
 もし、逆に未熟な若い水兵集団だったなら、それターンだ!と号令が飛んだ所で艦隊は空しく別方向へフラフラ進んでたことでしょう。。(笑)

 どんな秘密があったのか、、、私流で大解剖します!!😀😀

 先ず、これから。⇩
横須賀に会津藩士のお墓があるのはなぜ?|横須賀市

 横須賀市HPには、この様に書いて有ります。⇩

 19世紀に入るころになると、たびたび日本近海で異国船を目にするようになり、江戸湾の警備が必要になりました。

  文化7年(1810)幕府は、会津藩に江戸湾警備の任務を命じました。命を受けた会津藩は鴨居と三崎の地に陣屋を構え、三浦半島のほぼ全域を会津藩領としました。任務につくと観音崎と浦賀の燈明堂近くの平根山へ三浦半島で最初の台場を造り、守りを固めました。この任務が永遠に続くものと思っていた会津藩士は一家をあげて横須賀に移住してきたので、鴨居には藩士の教育機関である藩校の養正館も設けられました。ちなみに江戸湾警備についた他の藩はすべて単身赴任でした。

 このような状況のもと、横須賀で生涯を閉じた会津藩士およびその家族も多く、現在確認できる墓石だけでも70基以上にのぼります。

 しかしです、ここの文章⇒会津と横須賀|横須賀市を読むと、

 「文治5年(1189)の奥州合戦での戦功により、三浦大介義明の子・佐原十郎義連(よしつら)が源頼朝から会津4郡(会津・大沼・河沼・耶摩)を与えられ、観応3年(1352)頃に義連の子孫、芦名直盛が会津地域で活躍、14世紀半ばは芦名氏が会津を拠点とした。」

 。。。と有り、そうなると、要するに会津潘士(郷士)の大半は、実は『三浦水軍の末裔』だったんですよね。。。

 文化7年(1810)頃なら、三浦(横須賀)と会津の遠戚同士まだまだ繋がりや付き合いが深かったでしょうし、幕府に海上防備任務を命じられた会津藩が陣屋を構えた横須賀と三浦半島とは、ご先祖三浦水軍の懐かしい故地だった訳です。
 前のイエズス会襲来から300年
を経て日本が再び直面した亡国危機に際し 、江戸湾の防衛という任務と重責に、『日本の海賊』末裔の自分達に再び白羽の矢が立った。。。きっと奮い立ったことと思います。😭😭

 『目には目を、海上防衛には水軍(海賊)の末裔を』
 
。。。何か、もう負ける気がしません。。(笑)
 
 
因に、ネット情報から拾った「大日本帝国海軍の歴史」ですが、

1853年 ペリー来航
1855年 長崎海軍伝習所設立
1868年 王政復古の大号令
1869年 海軍操練所設立
1873年 明治天皇艦船整列謁見で海軍始め
1888年 海軍大学校設立

 単純に整理すれば、1905年の対馬沖海戦時にたった30年前後の伝統と訓練だけでは、後に伝説になる程の大技(敵前大転回)を実戦で繰り出すことなど殆ど不可能だった筈です。
 多分、、東郷元帥は、実は戦艦三笠(みかさ)に乗り込んでた『水兵』=海賊末裔にはそれが出来ることを事前に十分知って居たんじゃないでしょうか。。。
 そう仮定すれば、上の文章の、
戦艦アリヨールの水夫ノビコフ・プリボイは日本艦隊が目の前で回頭する様を目撃し」
「翌朝、天気明朗にして今度は波もない左舷前方に日本艦隊が姿を見せた。それは前日、彼等が回頭する前に見せた姿と同じだった。煙突一本欠けていなかった」
「日本海軍の抜群の強さ」

 で、その背景は??
 「古来からの海洋国家・日本の、古来歴戦の最強海賊衆の末裔が乗っていた!!」。。
勝負とは厳しいモノ。。神風が吹いたとか皇国の気合と根性の様な😅😅迷信と神頼みだけで勝てる程、現実は甘くない。。

 さて、この残りの部分ですが、⇩
 「日本側も回頭を終えてから応射した」
 「一艦が撃ち、着弾を観測してから各艦に距離を伝え一斉に撃って来た」  
 「日本側の砲撃は正確で、砲弾の破壊力は凄まじかった」
 「旗艦スワロフが燃え、続いてオスラビアも燃えて横転、沈没した。装甲戦艦が砲撃だけで沈むなんて世界の常識にはなかった」
 「アリヨールも艦橋が破壊され、煙突も砲塔も吹き飛ばされ」

 要するに、物凄い砲撃技術を持った統率の取れた砲撃軍団が『三笠(ミカサ)』と連合艦隊に乗ってたとしか考えられない。では、その正体は?というと、多分これじゃないでしょうか。⇩ 
 

 (横須賀)さいか屋の「さいか」は紀州(今の和歌山県)和歌の浦に近い「雑賀の庄」の地から起こった。万葉集には「狭日鹿浦 (さひかの)」「左日鹿野(さひかぬ)」とある。 歴史をひもとく。古くは源平合戦のころ、舟を持たぬ源氏に味方した雑賀党は、壇の浦まで奮闘。源頼朝が鎌倉幕府を開いた折、 雑賀党は源氏に従って鎌倉周辺へ。その多くは、三浦半島に落ち着いた、という。

ふるさと横須賀 第128章 さいか屋 ① 『先祖は紀州の雑賀』

 鎌倉時代に紀州から三浦半島に移り住んだ雑賀(さいか)衆の末裔です。因みに、雑賀衆とは、⇩ 

 雑賀衆(さいかしゅう)は、中世の日本に存在した鉄砲傭兵・地侍集団の一つである。雑賀衆は紀伊国北西部(現在の和歌山市及び海南市の一部)の「雑賀荘」「十ヶ郷」「中郷(中川郷)」「南郷(三上郷)」「宮郷(社家郷)」の五つの地域の地侍達で構成されていた。高い軍事力を持った傭兵集団としても活躍し、鉄砲伝来以降は、数千挺もの鉄砲で武装した。

雑賀衆 - Wikipedia

  ワタシの想像は、、、
 あの時東郷平八郎元帥が選抜した連合艦隊の乗組員の中身とは、
船を操舵する水夫衆=『三浦水軍の末裔』
・艦上の大砲衆=『雑賀衆の末裔』

 
この奇跡の最強コラボだったのなら、世界が腰抜かした東郷ターン統率が取れた正確な射撃技術も、断然辻褄が合って来る。。。

 世界中が完全に日本の負けと見てた中、連合艦隊の艦上に周到に『日本最強水軍』と『最強鉄砲衆』を配置してた東郷元帥は、心中『勝負は五分五分』と予想してたでしょう。その上で、最後は運とタイミングと気合と根性が勝負を決する。で結果は、運良く勝ったが運が悪けりゃ次回は”負け”、なので訓辞は、『勝って兜の緒を締めろ』
 最強コラボを出した後は、もう余力が無いという意味だったか。。。😅😅
 
 その2に続きます!

(上写真こちらのHPから。⇒ふるさと横須賀 第49章 記念艦三笠 ① 『日露戦争で大活躍』


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