南ベトナム大統領 呉廷琰(NGÔ ĐÌNH DIỆM、ゴ・ディン・ジェム)氏のこと ②
南ベトナム大統領 呉廷琰(NGÔ ĐÌNH DIỆM、ゴ・ディン・ジェム)氏のこと ①
大南公司の社長だった松下光廣氏の遺品の中にあった分厚いアルバム帳。その中に挟まれていた和紙に、『奉加帳』の趣旨が書いて有ったそうです。⇩
「謹啓
爾来我が日本に対し深き認識と厚き信頼を寄せて参りました越南共和国大統領呉廷琰氏は、其の崇高なる精神と高邁なる人格に加えて民衆の人望を一身に担い戦わずして一世紀にわたるフランス植民地の地位より脱却し輝かしき越南共和国を樹立しました。しかも氏は今日其の独立国家としての充実と繁栄を期する為に我が日本に対し文化、経済、技術其の他全面的に特別強き友好関係を期待して居ります。
つきましては来る1956年7月7日を以て呉廷琰大統領が政権を担ってから満2周年の記念日に当たりますので此の親日革命政治家に贈る諸先生方の祝詞と御署名をお願い出来ますならば有難き幸にぞんじます、
昭和31年6月 敬具 」
。。。何故、この『奉加帳』の作成が中断されたのか。。。
実際、日本政府の戦後賠償交渉が本格化したのは2年後の1958年頃の岸信介内閣の時からであり、また、この頃の南ベトナム国内の様子を1956年出版の潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』出版社英明(アイン・ミン)書館の冒頭挨拶文から推察すれば、⇩
「周知の通り、現在(=1956年)の我々自由国家≪南ベトナム≫の統率者である呉廷琰(ゴ・ジン・ジェム)氏は、その当時、南部の傀儡朝廷政権に三行半を叩き付けていた。そして、サオ・ナム(=ファン・ボイ・チャウ)氏の邸に足繁く親しく訪れて、氏の絶筆である『孔学燈』や『周易国文演解』、『人生哲学』等に非常に心服していたが、当時は、フランス植民地政府とそれに与した傀儡南朝の検閲所がそんな本を国内の人々の目に自由に晒す訳が無い。だから、それらの出版などへ話が及ぶ筈もなく、サオ・ナム氏の私史も、ゴ・ジン・ジェム氏など極く限られた旧知の朋友たち以外の人目に触れる機会が無かった。」
『自判』冒頭挨拶文より
このように⇧、この頃のジェム新大統領とは、クオン・デ候やファン・ボイ・チャウの旧知の同志で元抗仏志士であり、気概ある政治家だと誰もが知る存在で、勇気を奮ってアメリカから祖国へ戻り、自由国家を建設している最中だと一般民衆に認識されてたと判ります。。
それなのに…、当時の日本政府は、ジェム氏へ贈る『奉加帳』を”中止する必要があった、或いは何らかの理由で断念した。。。
ここで私の昔の思い出を少し話しますと、、、
ホーチミン市の古本屋の茶色いボロボロの冊子の山の中に時たま他に比べて装丁の良い古本があり、読んでみると大抵それは、”ゴ・ディン・ジェム氏の裏”というような暴露本みたいな本でした。出版年を見ると1958年頃~だったから、当時の”サイゴン・メディア”ではその頃から既にジェム大統領の”ネガティブ・キャンペーン”が始まってたんだ・・と証拠を見たように感じましたです。。。
結局、1963年11月1日にジェム政権の軍事顧問だったズオン・バン・ミン中将を首謀者とするクーデターで、ゴ・ディン・ジェム氏と実弟のニュー氏は共に射殺されました。亡命先の米国から帰還し大統領に就任してからたった7年。
しかし乍ら、私がホーチミン市で読んでいた古本から知り得た現実は、もうその5年以上前からサイゴン・メディアでネガティブ・キャンペーンが始まっていた。とすれば、63年のジェム氏兄弟の暗殺劇・クーデターは起こるべくして起こった、或るいは何かの誰かの事情で、”時期を待っていた”だけなのかも知れません。。。
そういえば、丁度ぴったり3週間後の11月22日に、アメリカのケネディ大統領も同じく”射殺”、こっちはもっと衝撃的に、パレードの最中に頭を吹っ飛ばされました。🤐🤐
結局、この米越2人の大統領が銃弾に倒れた後、どうなったかと言えば、⇩
「…これをきっかけに米国軍の直接介入が始まり、南ベトナムではその後、10年以上にわたって激しい戦闘やクーデターが繰り返された。それに付けこむように、共産勢力は南ベトナム全域に支配地域を拡げていった。」
『「安南王国」の夢』より
武器商人や軍需産業は笑いが止まらない…。😑😑😑
ベトナムを、ゴ・ディン・ジェム氏達を、昔からよく知っていた日本人はジェム氏兄弟暗殺をどう見ていたのか?⇩
「…松下光廣は、このジェムの悲報が届いたとき、”米国が仕組んだ謀略だ”と何度も吐き出すように呟いた。前掲の大南公司社員、山田勲はその声を今でも忘れない。しかし松下は表向きは一切コメントせず、」
「小牧近江はこのクーデターについて、…『(ジェム)は高潔で一生独身を通した人であり、(中略)ああいう残酷な死にかたをさせられたということについては、いまさら何もいう必要はないでしょう。心ある人は、みな、その真相を知っている筈です。(中略)彼の中立思想が邪魔になって、それがアメリカ軍人の御機嫌をそこねてしまったので、(中略)大局から見て、実力者が一人の大統領を抹殺させるくらいなんでもない時世ではないでしょうか』」
「クーデター発生時、サイゴンにいた西川寛生はこう書く。「…確かにジェム氏の強烈な『民族独立』の信念と、中部ベトナム生まれの剛直硬骨の人柄から、おそらく米国側の圧力や要求に対して、屡々拒否あるいは抵抗の態度をとったものと想像される。」
本来のジェム氏とは、『米国の傀儡に徹することを潔しとしない』人物だったことは明白でした。なのに、180度異なる『米国の傀儡』のレッテルを張り、今でも『悪の権化』『虐殺者、弾圧者、独裁者』として扱い続ける戦後日本の不思議な現象。。。
でも、その不思議を説明し得るのが、2007年1月13日「インドシナ戦争聞き取り会」に於ける、1921年ハノイ生まれの日本人、小田親氏からのこの聞き取り記録かも知れません。⇩
「…余談になりますが、ゴ・ディン・ジェムと私個人の関係をちょっと申し上げます。さっき申し上げたように、ハノイでフランス系の学校、College Paul Bertに入りましたが、妹たち2人も同じ学校に通いました。(中略)…これは、まだ誰にも話したことがありませんが、ゴ・ディン・ジェム兄弟が殺されるちょっと前、たしか1962年の初めだと思うのですが、私が官邸に呼ばれまして、ジェム大統領が、”私はどうも最近人気がなくて心配である” というのです。フランス語でしゃべるのですね、あの人は。”クーデターが起きるかもしれないが、もしできたら大使に話して日本に亡命させてくれないか”というのです。頼んでくれないかと言うことなので、私はすぐに大使館にその話をしましたところ、大使館が、…当時の大使の名前は忘れましたけど、外務省に記録が残っていると思うのです。大使からは、『日本では政治亡命者を受け入れない。ちょっと残念なことであるが、断って欲しい」という答えが出たわけです。」
阿曽村邦昭編著『ベトナム 国家と民族-第8章終戦直後の日越関係と賠償交渉』より
。。。日本外務省が、、、ジェム氏の亡命を断っている。。。?😭😭
『日本では政治亡命者を受け入れない」←これはおかしい。1950年の時にジェム氏は大南公司に頼んで日本を経由しアメリカへ亡命したし、隣国タイのピブン首相は、1957年国内クーデターで失脚して日本に亡命してます。
だから逆に見れば、1957年前後から1962年の5年間で、対ベトナムの日本政治姿勢が一変したと考える方が解り易い。
さて、ここまで考えて来ると、私はいつもインドシナ駐留第38軍の林中佐のこの回想を思い出します。⇩
「1944年10月、河村参謀長が東京へ出張する機会に、ブ・ディン・ジーを東京に連れ戻すことになり、かねてからの独立運動家を東京へ派遣する要請にこたえるために、ジーとジェムに、その候補者として彼らの次に信用できる者を推薦させた。
ジェムは、ブ・バン・アン(武文安)、ジーはレ・トアン(眼科医か歯科医)の名を挙げた。
参謀長の東京出張までに、急に彼らが林中佐に会いたいと申し出たので、彼らを一つ部屋に集めた。
ゴ・ディン・ジェム、国民党党首グエン・シン・チュ―、ブ・ディン・ジー、ブ・バン・アン、レ・トアンの5人が勢揃いして、林中佐に向って、将来我々はどんなことがあっても、ベトナムの独立に努力する、日本に協力する、決して離れることはないと宣誓した。」
神谷美保子著『ベトナム1945』より
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日本を信頼し、日本に協力し一緒に戦った真のベトナム志士の友情を、ゴ・ディン・ジェム氏の亡命要請を、当時の日本政府(外務省)は断った。
不義理、且つ冷た過ぎやしませんか。。。
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私が以前働いていたホーチミン市の日系企業に、当時20代後半の沖縄出身の若者がいました。彼は、”ベトナム戦争へ向かう米軍機は、沖縄基地から飛び立ったから、沖縄(日本)はベトナムに悪いことをした。”と言ってました、、、
今でも、ベトナムの義務教育では、『日本ファシズムがベトナムを占領してたので、1945年8月ベトナムは日本から独立した』と歴史教育してますし、、、
今でも、1945年に日本軍がベトナム北部で米を掠奪したせいで大飢饉が発生し、200万人が餓死したトンデモ説が消えないし、
今でも、日本人残留兵とそのベトナム家族やべト・ミンと日本軍の真実・詳細はうやむやにされたままだし、、、
。。。そんなこんなの話があるせいか、、、これまでに私がベトナムで会った日本人の方々は、”兎に角、日本は悪い事をしたんだから東南アジアに来たら取敢えず謝って置けば良い”という立ち位置のように感じました…、がしかし、
私は、そんな仔細な問題ははっきり言ってどうでもよい、ただ唯一、日本はベトナムに正式に謝るべきだと密かに思うこと、それは、
『日本政府(外務省)が1962年にゴ・ディン・ジェム氏の亡命要請を断ったこと=裏切ったこと』です。
それがその後にアメリカが、10年以上に亘ってベトナムを火の海にし、空中から枯葉剤まで撒く戦争に発展するきっかけに、日本が間接的に加担したことになるからその罪はあまりに重く深い。
でも、これはあくまで私個人の考えです。
だから私個人は、私が死んだ後、もし次に世界の何処かで『呉(ゴ、NGÔ)』姓を持つ人々が、世界の邪道教や覇道主義、拝金植民地主義に対して再び立ち上がる日があれば、その時は『日本人の禊を祓う』ためにも『必ず駆けつけて今度は必ずお助けせよ!』と、私の娘に今から遺言してます。。。😅😅
メイクに、グルメに、お洒落に、飲み会に、彼氏に、、、と本業の大学授業より忙しい日々を過ごす娘は、今は”ぽかーん”として苦笑いしてますけど(笑)😅😅、でも娘も一応は『何(ハ、HÀ)』の強烈なカオ・ダイの血も受け継いでますので、来たる世界最終決戦の日には、世界の恒久平和と正義の為に必ず『呉(NGÔ)』の旗本に駆けつけてくれるでしょう。。。😅😅😅
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